素晴らしきかな人生 九話 

 その日女はじっと物思いに耽っていた。
 これから女は雁州国に行くつもりだ。尚隆と共に玄英宮で生きていこうと決めている。尚隆を愛している。あの時、玄英宮で尚隆の手が女の手を包み込んだ時、女は自分の心が潤っていくのを確かに感じた。

(あの人がいない生活など考えたくはない)
 そう思っているのになぜか女を躊躇させる。
 女が仙籍に入ればこれまで暮らしてきた大切な者とは時間の流れが違ってきてしまう。そうすれば両親ともこれまで自分を盛り立てた店の者とも違う次元を歩く事になる。店は女が一から切り開いて大きくしていった、掛け替えのない自分の城。女に玉の魅力を教えた両親。女を惜しみない愛情で愛しみ、今も溢れんばかりの愛を寄せる大切な父と母。それらを一切捨てる事ができるのか?そんな迷う女の下に、急な知らせが入った。
「旦那様、大旦那様が過労で倒れられました」


 女は転がる様に両親の家に行くと、病床の床についている父親を見舞った。
「あぁ大丈夫だよ。少し疲れがたまったのかな?ゆっくりしていれば、治るから」
 父は衾褥から起き上がると、なんでもないと手を振って見せた。
「でもお父様。最近無理をしすぎではないのですか?どうぞ、お体だけは大切に為さって。もう、若くないんだから」
 女は父の隣で果物の皮をむいていた。甘い香りが部屋中を包む。それを嗅ぎながら女の父親は遠くを見るように目を細めた。


 それは女がまだ上庠(じょうしょう)(郡の学校)へ通っていた頃の事だった。その頃女の父親は、自分が管理している玉泉から、新しく出来上がった玉の素晴らしさに満足していた。
「まぁ、本当に美しいこと。微妙な色の混じり方が素敵。これを欲しがらない女性はいないわ」
 女の母親はその玉の外観に目が釘付けになってしまっていた。
「そうだろう、そうだろう。これは本当にいい出来だ。玉と言えば戴極国製が圧倒的な市場占有率を占めている。しかし、これなら引けを取らないというものだ。何とか世に広く薦めたいものだが……さてどうしたものか」
「大手と真正面から太刀打ちしても無駄ですわよ、お父様」
 背後より凛とした響きのある声がするので振り向くと、上庠から帰ったばかりの女がにっこりと笑っていた。
「前から玉の流通については興味があったのです。突拍子もないかも知れないけど、私の考えを言ってみてもいいでしょうか?」
 言いながら、女は父親の前に座る。
「失礼致します」
と、目の前にあった紙に筆をさらさら滑らせ表のような物を書いた。それから女の父親に理解して貰える様、女の考えが発表された。


「ふむ、なかなか面白い方法だな。新しい目線からの意見は必要だ。まぁ、粗も多く目立つが、これを煮詰めて上にお伺いを立ててみるか」
 と言いながら、女の父親は内心驚いていた。
(これは意外だ。娘はこの分野について感覚が鋭い。もっと研ぎ澄ませばきっと伸びる。商人としての才覚が、娘にはある)
 それから女の父親は何くれとなく、女に、経済、事、流通に関する書籍を送るようになった。女も惹かれるようにその書籍を読み耽っていった。女は上庠での成績がとても優秀だった。このまま行けば、その上の学校にあたる少学(しょうがく)へ推挙される選士(せんし)に、押してもよいと先生から言われていたくらいだった。
 それまで女は自分にこれといった目標もなくそれを見つける為に少学へ進んでもいいかとさえ考えていた。しかし父親から薦められた書籍に没頭していく内、何かが見えた。
 後に、女は宣言した。
「私、少学に行くのは止める。そして自分の店を持つわ。一から起こすの。扱う物は玉泉から取れた玉。そう、お父様のお仕事にされている物よ。どこまで出来るか分からないけれど、やれる所までやってみる。お父様どう思う?……やはり上の学校へ行って、皆の言う通り官吏を目指した方が、嬉しい、かし、ら?」
 女の父親は上目遣いに自分を見る娘の瞳が、可愛くて仕方がなかった。女の肩を抱きゆっくりと優しく話す。
「お前は、私が官吏になってくれればと思ってはいないかと、心配しているのか?だったらお門違いだ。私はお前の人生はお前自身で決めればいいと思っている。お前なら、やれるよ。親子で偶然にも同じ物を扱う仕事をするんだ。私はこんな嬉しい事はない」
 女の父の言葉を聞いて、女の緊張した顔が一気に破顔した。


 女の父親は、昔に思いを馳せていた。
「どうしたの、お父様」
 気が付くと女は、果物もすっかり切り終わり女の父親に食するようにと勧めてくれていた。女の父親はふっと笑うと、女の瞳を見つめた。
「こうしてゆっくり、お前と語らう事が出来るのも、お前が傍にいるからなんだなぁと思ってな。これからも、ここにいてくれるのだろう?」
 女は父親のこの言葉に、なんと答えてよいか見つからなかった。だまっている女の表情など見えていないのか、見えていてもあえて触れないのか、女の父親は構わず次の言葉を発する。
「店の連中もお前を慕っている。お前は、私の自慢の娘だよ」
 女の父親の一つ一つの言葉が、女の胸に突き刺さる。
(ごめんなさい。私、私は……)
 女が今にも自分の思いを口にしようとした時、女の使用人が息せき切ってやってきた。
「どうしたの。そんなに慌てて」
 女が促すと、使用人は胸に手を当て呼吸を整えた。
「失礼致します。……はぁ、はぁ。……あのう……はぁ、大旦那様も……はぁ、お体がお悪いと言うのに、騒々しくさせてしまって申し訳ございません。」
「あぁ、いいから、いいから、少し落ち着きなさい」
 女の父親がそう言うと、使用人は深呼吸してごくりと唾を飲み込むと喜びもあらわにして喋り出した。
「旦那様。前から進めていた新しい計画が、この度うまく纏まる事が出来ました」
 女の顔つきが変わった。
「本当!あの計画、上手くいったのね。お父様、喜んで下さい。私やりましたわ」
 それは、女が長い時間をかけて手がけた、新規の流通経路の開拓だった。現状維持ではいつか先が見えてしまう。どこか新天地はないものかと、女と店の者は地道な根回しを行っていた。女自ら何度も現地へ足を運び、先方とも少しずつ信頼関係を築き上げていった。その結果が漸く花開いたのである。
 女は思わずはしゃぎ、その目がきらきらと輝き出した。それを見て父親が一言発する。
「お前にとって、店は、人生そのものなんだな。今のお前の姿活き活きと輝いているよ」
 女はっとする。
 自分は、店が好きなのだ。
 共に働く店の者と喜びを分かち合う、この時間が好きなのだ。
 自分の力で商談が纏まった時の喜びを、忘れられるのか?
 自分の考えが、思いが、成果となって表れてくる醍醐味を、王宮で、直接的に味わう事が出来るのか?
 何より、自分がいなくなった後の店はどうなるのか?
 父とも離れがたい。母とも離れがたい。
 店の者は家族同然。
 そんな彼らとこの先なかなか会う事叶わず、気が付けば共に働いた者がこの世に一人もいなくなってしまう。
 それでも、自分は生きていく。この現実を自分は受け止めていられるのか?

(ううん、私にはあの人がいる。あの人とこれから授かる子供がいればそれでいいではないか?)

―本当に?お前は、それで満足出来るのか?―

 様々な思いが、女の脳裏を掻き回していった。
「どうした?何か不都合な事でも思い出したか?」
黙ってしまった女を心配して、女の父親が声を掛けた。
「……いえ、何でも、何でもございませんの、お父様。お前、よく知らせてくれたわ。どうも有難う」
 女がそう言うと、知らせに来た使用人は
「では私はこれにて」
と、女の父親の元を速やかに去った。
 それを見送ってから、女の父親は深く衾褥へ入っていき、静かに女に向かって呟いた。
「さぁ、もうお休み。私はもう大丈夫だから」


 女は、自分の家に戻っていった。そして客人用の臥牀が設えてある房室へと向かう。かつて尚隆をひょんな事から看病したのはここであった。
「もう、随分遠い昔に思えるわね……」
 一人呟き臥牀に腰掛ける。その先には巨大な玉。暗闇の中冴え冴えと置かれているそれは、不思議と己を見つめなおす事が出来た。女は微動だにせずその玉を見続けた。そこから何かを得ようと、決断する大きな何かを見つける為に。
 どれ位、時がたったのであろうか?天井から柔らかな朝の光が差し込み始めた。玉は僅かながら輝きを放ち、夜とは違った表情を見せる。その様子を見ていた女は、ふっと笑みを零した。それは女が、ある決意を固めた瞬間であった。


 一方、玄英宮では、尚隆が女を王宮に迎える為の準備を始めていた。後宮はそれまで殆ど使われていなかった場所である。大々的な改装となった。
 尚隆は政務の合間この場所に来る事が最近の楽しみである。着々と整えられていく様子を満足そうに眺めていた。
「尚隆、又ここに来ていたのか。さっき、誰かがお前を探していたぞ」
 六太が背後より声を掛けた。
「うん?悪いな。俺はここが好きなんだ。もうすぐあいつと俺の子が、ここで暮らす事になる。それを思うと心が浮き足立ってしまってな。……子供みたいか?」
 尚隆は照れながらも喜びを隠しきれない。
「俺はさぁ、一度家族を無くしちまっているからな。……あれも、あれの子供も、申し訳ない事をしたと思っているんだ。例えそれが運命だと、他の者が言ってもな」
 そうして次にしみじみと言った尚隆の言葉が、六太には印象的だった。
「俺は、自分の子をもうすぐ抱く事が出来るんだなぁ……」
 六太は何とも言えない気持ちになった。
 遥か昔、あの戦乱の世は、尚隆にも六太にもそれぞれに大きな傷を残した。お互いどこか孤独を抱えていた。家族の愛に憧れの様なものを持っていたのかも知れない。それが尚隆は偶然にも、実子まで天より授かるという形で家族を持つ事を許された。
(これで、良かったのかも知れない……)
 そう思いながら、六太は一抹の寂しさを感じた。
(尚隆、俺を置いていかないで)
「どうした?浮かない顔をして」
 気付くと、急に瞳を覗き込む尚隆を至近距離で見て、六太は思わず後ずさった。
「いや別に。今後お前の相手は、あの人がやってくれるんだろ?急に俺一人になったら暇になるなぁと思って」
 精一杯な事を言ってみる。尚隆は六太の思いを察したのか、柔らかい笑みを零すと六太をがしっと抱き寄せた。
「お前は、お前だろ。俺の大事な半身さ。家族が増えただけさ。その中には当然お前がいる」
「俺、俺も、家族の一人なのか」
 六太の問いかけに、尚隆は何も言わずゆっくりと頷いた。尚隆の胸の中で、六太は心から安堵の表情を見せるのだった。


 数日後、女の店に六太が現れた。
「ごめんな。尚隆はまだ王宮の官吏に捕まっている。あいつ、あんたを迎えに行くと聞かなかったんだが、上手く調整が出来なくて……。代わりに俺がとりあえずの返事を貰いにきた。でも正式に尚隆があんたを迎えに行く時は、多少仰々しくなるだろうから、覚悟しておいてくれ。……そのう、あのな『国の意義』をたたねばならんと、外野が煩くてな。あれでもあいつ王だから」
 頭に白い布を巻いた少年と見紛うほど幼い背格好で、しかし見惚れるほど美しい表情をした六太は、くしゃりと女に笑い掛けた。女もつられて微笑んだがすぐ表情を戻すと
「延台輔。これを、雁州国国主にお渡し願いたい」
と一通の親書を六太に手渡した。その雰囲気に六太は嫌な予感を感じる。
「……これは、あいつが喜びそうな親書なのか?」
 それについて女は答えない。
「……それはもう、決めてしまった事なのか?」
 六太は悲しげな表情で尚も聞く。
「あんたはそれでいいのか?」
 六太は女の瞳を見据えたが、女が怯む事はなかった。
 彼は女の固い意思を感じてしまった。六太は尚隆を思うと心が痛んだ。言ってどうにかなるとも思えないが、女には尚隆の気持ちを知っていて欲しいという思いに六太は駆られた。
「これだけは知っていてくれ。あいつは……尚隆は、家族に飢えていた」
 気付けば、六太はするすると女に尚隆の過去について話し出してしまっていた。

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2004.12.初稿
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