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素晴らしきかな人生 八話 

 正寝に篭ったままの尚隆と六太の様子を心配していた、朱衡、帷湍、成笙の三人だったが、六太より尚隆の記憶が元に戻った事を知ると心から安堵した表情を見せた。その夜三人は誰ともなく誘い合い、尚隆の記憶が元に戻った祝いと、 郊祀が無事終わった事を労う、ささやかな宴を催した。
「本当に全てが万事、上手くいって良かったよなぁ」

 並々と注がれた杯を豪快にくいっと煽りながら帷湍は笑う。
「あぁ、一時はどうなってしまうだろうと思ったがな」
 ちびりちびりと酒の味を堪能しながら成笙は静かに話した。
「全く。私はいよいよ碧霞玄君にお伺いを立てなければならないかと気を揉んでいましたよ」
 朱衡は手でぱたぱた仰ぎながら弱い風を起こし自身の火照った頬を冷めさせようと試みる。
「碧霞玄君と言えば……。なぁ、俺にはどうにも不思議で仕方のない事柄があるんだ」
 手酌で酒を注いでいた帷湍が、碧霞玄君と言う名を聞いてその手をぴたりと止め疑問を投げかける。
「もしかして、それはあの事か?」
 成笙は両手を組みそこに顎を乗せると、帷湍に目配せをする。そして続きを話し出した。
「尚隆は王だ。王が子を持つ事はまずあり得ない。にもかかわらず現在芝草の里木では尚隆の卵果が脈々と育っているという。それは一体どういう事なんだ?」
 三人の間に緊張が走る。
 その内静かに目を伏せていた朱衡が、ゆったりと椅子に腰を落ち着け直し喋り出した。
「確かに天の理では、神籍に入った後の王は、それ以前に婚姻を結んでいなければ子が望めないな。第一自国の戸籍を王や麒麟は持てない事になっている」
 朱衡の言葉を受けて、帷湍、成笙は一様に黙ってしまった。その中、静かに重く響いた朱衡の声音に、帷湍、成笙が息を呑み彼に注目する。
「……しかし、他国ではどうか?と、考えてみないか?」
 朱衡は二人をちらりと見ると一段と声を潜めて話す。
「今までも碧霞玄君にお伺いを立てる事が何回かあったではないか。天には天の理がある。その理に触れぬ様、体裁を作ったり、建前を決めたりしただろう。今回の事は、知らずそれがなされたのではないだろうか?」
 すると成笙が重い口を開く。
「じゃあ何か。王や麒麟は自国の戸籍に含まれぬが、他国の場合についての理はないから、天の怒りに触れないと言う事なのか?」
「そんな冗談みたいな事があっていいのか!」
 思わず声を荒げた帷湍を、朱衡と成笙が慌てて押さえ込む。それから帷湍を落ち着かせると頷いて朱衡が話す。
「ああ。はっきりとした確証はないから何とも言えないが……そう思うのが自然だろう」
 朱衡は、大きく深呼吸すると更に声を潜めて話す。
「聞く所によると、尚隆様は記憶を無くされている間、厄介になった女の父親にいたく気に入られたそうだ。そして父親は娘と婚姻する為に戸籍を用意してやった。どの様にして取得したかは深く聞かなかったが……まぁ、正規の取り方ではないだろう。しかも尚隆様は記憶を無くされていたから、自分の出身も分からない。それを父親は都合良く使って、尚隆様を柳北国で生れた者として戸籍を無理やりこしらえた。これで書類の上では同じ国の者同士の婚姻となる。つまり体裁が整ったんだな。そして子を望んだら卵果が実った。……大体は、そういう所かな」
 朱衡は自分の予想に、少なからず自身があるようである。一気に自分の考えを言い終わると、自身の杯に残った酒を飲み干した。
 じっと聞き入っていた帷湍がぼそりと呟く。
「それが本当なら、天とは結構いいかげんなものだよなぁ」
 それを聞いた成笙が軽く伸びをして話し出す。
「天の理とは、そんなもんだよ。どこか矛盾している綻びもあるが是非を言っても始まらない。天も又、条理の網の中と言った所だろう。それに尚隆様に子を持たせたのは、天帝が何かお考えあっての仕業かも知れないし」
 その後、三人は何故か黙ってしまった。
 他の誰でもない、尚隆に、天帝は子を与えようとしているのだ。天帝が何を思ってその様な事をなさるのか?考えれば考えるほど抜けない迷宮にいる様である。
「……とにかく、あいつは元に戻った。雁州国は王を取り戻す事が出来たんだ。それを先ずは喜ぼうではないか。後の事は、又、考えればいいさ」
 帷湍が努めて明るく話すので「そうだな」と言って三人はお互いに酒を注ぎ合いその夜はゆるゆると過ぎていった。


 尚隆が女の元を離れ玄英宮へ戻ってから幾月かたち、その間に新年も向かえた。
 いまだ女の傍に尚隆がいない。あんなにも仲睦まじく見ている者までが笑いの絶えない明るい雰囲気。日の光の様な明るさ、暖かさが無くなってしまった事の寂しさを使用人達は感じていた。そんな中、女がいつもと変わらず元気でいる事が救いだった。
「旦那様はお辛いに違いねぇんだ。それを俺らの前では努めて元気にしておられる。余計な心配をかけない様にと。それが尊敬せずにはおれなくもあり痛々しくも思える」
 一人の使用人がそう呟くと
「かといって、あたし達は何にも出来はしないんだよ。どうする事も。歯がゆいと思いながら、あたし等はただ旦那様のお気持ちを汲み取り一生懸命働くのみ。言われるままに、ただ。それがあたしらに与えられた仕事だよ」
 もう一人がそう返す。
 自分達が尚隆を探す事も出来ない無力さに使用人達は重苦しい溜息を漏らした。そこへ彼らの主である女が、暗緑色の髪を艶やかに結い上げてやってきてその重苦しい空気を打ち破った。
「みんな、どうしたの?新年に入って忙しくなってきているんだからきりきり働いて頂戴」
 使用人の心配にも気付かず、女は明るい笑顔で店を仕切る。
「あっ、旦那様。失礼致しました。……そうだよ。新年だよ。皆、前を見て仕事をするんだよ」
 使用人の掛け声とともに、店が活気づく。女はそれを満足そうに眺めふっと真顔になった。あれから尚隆は何の連絡も送ってこない。女はここの家公として気の張った毎日を送っていたので、多少の寂しさや心細さは癒されていた。
 しかしある時尚隆の面影を追いかける自分がいる。
 女は毎日の様に、里木の、女と尚隆がつけた卵果を見に行っていた。卵果は日に日に大きく育っている。それを見ると女は、ほっと安堵するのだ。自分はまだ尚隆の子を望んでいいのだと。この卵果が育っている限り、尚隆想う事を止めなくていいのだと。
 雁州国より親書がきたのは、そんな日の昼頃だった。


「近く、ここへ使いを遣すそうよ。自分は王宮から一歩も動けなくなってしまったからすまないと思っている。是非に来て欲しいと。親書にはそんな感じで書いてあったわ」
 心配した両親に、女は淡々とした口調で語った。
「で、お前は行くのかい?……行ってどうするんだ?お前と尚隆殿とは本来相容れない者だった。会ったからとて、尚隆殿はもうこちらには戻らない」
 女の父親は、娘が心配だった。
(あの男――他の者とは圧倒的に違う何かを持っていると思っていたが、まさか王だとは。しかも雁州国と言えば、十二国でも現在二番目に長い治世を誇る大王朝。我らとは到底違う次元の者なのだ。危ない思いをして強引に尚隆に戸籍を与えた事が今になって悔やまれる。いや、とんでもない事を仕出かしているのではないかと内心震慴(しんしょう)の思いだ)
 女の父親は女に、このまま会わずにいろともう忘れてしまえと教え諭していた。女も父の言う事が、自分が傷つかない最善の方法である事は認識しているつもりだった。しかし魂の底で揺さぶる何かがあった。
 新書には、別の文が忍ばされていた。
 それには、一言「会いたい。会って話がしたい」と、真っ直ぐで勢いのある文字が書かれていた。

(会いたい。あなたにどうしても会いたい)

「お父様。私はあの人に戻って欲しいとは言いません。……言える筈がない。私の願い等王であるあの人の前では全く無力です。でも……。あの人は私に会いたいと言ってきた。それは何かお考えがあっての事でしょう。きっとはっきりと別れを言う為かと思われます。それでも私はあの人に会わねば。そうしないと私は先に進めない」
 女は家に飾ってある一際大きな玉を見つめながらこう言った。
「どんな定めも、受け入れる覚悟はしているつもりです」


 女はその荘厳な雰囲気に飲み込まれそうだった。彼女は、雁州国から来たという使いに案内されて玄英宮へとついた。そして圧倒された。何もかもが自分の想像を遥かに越えているのである。
 女は生まれて初めて雲海の上を見る事が出来た。見渡す限りの暗い海に露台下まで打ち寄せる波。海の底遥か彼方には小さな明かり。それがこの国の首都、関弓の明かりだと理解するのに少しかかった。
「こんなにも下界との距離があるなんて……」
 女はそう感じ、潮の匂いを改めて抱きしめていた。
 しみじみと思う。
 雲海の上は暖かい。
 下界の、柳北国芝草の寒さ等、ここの者等はおおよそ知らないのだろう。ひょっとすると自国の寒さも忘れているのでは、女はそんな事を考えていた。
「ここは下界とはあまりにも違い過ぎる……」


「こちらで少々お待ち下さいませ」
 官吏に連れられ、長い廊下を歩いた後、女はある広い部屋へと案内された。思わずきょろきょろ辺りを見回す。そこはけして華美ではないが、趣味のよい立派な調度品が設えてあった。どこか居心地の悪さを感じながら、尚隆を待つ事にする。
 暫くして、重い扉が開かれるとこれまで女が見てきた彼とは明らかに違う装いの尚隆が現れた。
 女は一瞬表情が固まる。それを察してか、尚隆はすぐに柔らかい笑みを浮かべると、
「お前に会えて嬉しいよ。元気だったか?」
と声を掛けた。
「……ええ、お陰様で」
 女はそう言いながら、礼をとろうとする。
「あぁ、いいよ。お前にそうして貰うと、俺はどうしていいかわからなくなる。どうか前の様に普通にして貰えまいか?」
 尚隆は困った様にそう付け加える。
「しかし、それでは失礼ではないかと。やはり、ここは……」
 女が恐縮がるのを尚隆は見て、ほうっと溜息をつく。
「お前は俺を助けてくれた。言うなれば、雁州国の中核を助けたも同然だろ。ならば我が国民は感謝こそすれ、無礼だ等と言う筈はあるまい。それは俺が許さん。……そういう訳で、もう少し楽にしてくれ。お願いだ」
 尚隆に言われて女は少し安心した表情をする。それを尚隆は確認し
「すまないが、二人だけにして欲しい」
 そう言って人払いをさせた。


 尚隆はゆったりと椅子に腰掛けると、まず詫びた。
「連絡が遅くなってすまなかった。郊祀の後は新年の行事だなんだと俺を縛る事ばかり連中が言うのでな。俺もあいつらの言う事を暫くは黙って聞いてやらねばと思っているし。なかなか身動きが取れなかった」
「……そう……」
「皆は元気か?ご両親も大事無いか?」
「……ええ……まあ」
「今日はお前に頼みがあってここへ呼んだ」
「……」
「ここに来る気はないか?玄英宮に。お前を妻として迎えたい」
「…!…」
 女は尚隆の突然の申し出に愕然とした。更に尚隆は、息を呑んでいる女の様子などお構いなしに話を続ける。
「まぁ厳密には、正式な皇后にはなれぬのだが。朱衡に天に対するややこしい問題を急ぎ調べさせた。そして得た話だが。俺はこちらでは単身で神籍に入ってしまった。故に正式な皇后という肩書きを与える事は、天の理に反するそうだ。しかしだな、そんなもの別に大した問題ではない。俺がお前を皇后だと思う。それで十分ではないか?お前も肩書きが欲しいとは思うまい。そうだろ?」
 どうやら尚隆は、女が正式に皇后になれぬ事を気にしているようである。ひとり、ぶつぶつと腕を組んで話していた。しかし女はそれ以前の問題で、頭が真っ白になっていた。止めねばどんどん話を進めていきそうな勢いの尚隆に対して、大慌てで口を挟んだ。
「ちょ、ちょ、ちょ、ちょとっ!待って、風漢!妻?皇后?……何を言っているの?」
「何って、そのままの意味だが」
尚隆は何故女がそんなに驚いているのが分からないと言った表情を見せる。
「てっきり、お前はそれを承知でここに来ていると思っていた」
 これには思わず女は身を乗り出した。
「何で私が!どうしてそんな大層な事を想像出来るのよ。ましてや承知だなんて。私は、私はもう、あなたとは会えないと……」
 今度は尚隆の方が目を丸くする。
「俺とお前は夫婦の契りを交わしたのだろう?ならばここへ迎えるのがそんなに不思議な事か?」
 暫く女は無言だった。頭の中をいろいろな思いが駆け巡り収拾がつかない。的外れかとは思ったが、漸く纏まった言葉を女は発した。
「ところで、あなた、記憶は、完全に戻ったの?」
 尚隆は大卓に肘をついて手を組み目を伏せると
「……ああ……」
と、低い声でこう答えた。
「昔の事は取り戻した。そしてわかった事がある。ここには俺が必要だ。俺はこれから先も、ここで王として君臨しなければならない。だが俺はお前とは離れがたい。どうか俺の気持ちを汲んでくれ。俺はお前が必要だ」
 そうして尚隆は立ち上がると、女の傍へと歩み寄った。腰をかがめて膝をつき、女の手を自身の手で包み込む。
「俺はお前と生きる。……そう決めただろう」
 女は全身が身震いした。数ヶ月ぶりに近くに尚隆を感じる事が出来た。彼が居なくとも何とか生活していた事が、不思議にさえ思う。
(あなたが傍にいるだけで、私はこんなにも満たされる)
「あなたのお気持ちは良くわかりました。でも少し時間を頂戴。いろいろと整理をつけなければいけないと思うの。だから」
 女は本能の上ではすぐにでもと言いたかった。しかし女にも事情がある。それらを何とかしなければならないと、女は思っていた。
「分かっている。お前が落ち着くまで、待っている」
「ありがとう」
 女は極上の笑みを尚隆に投げかけた。

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2004.12.初稿
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