尚隆は華軒から視線の先を探す。
「私はそれを金剛山で待っていると言った」
あまたの群衆で、はっきりとした人影が見つからない。しかし強烈に感じるのだ。
(この声を俺は知っている。俺はこの声の主と約束した)
「……待っている。いつまでも、待っている……)
尚隆の目の前に閃光が走った。いくつもの情景が急激な変化を繰り返し尚隆の目の前を襲う。
嫌な位穏やかな空だった。ただ、周りの血で濁った海の臭いが鼻についた。
「―俺は世継ぎだから、城下の者達にちやほやされて育ってきたのだ。連中から『若』と呼ばれる度に一緒に托されたものがある」
隣に不思議といても邪魔にならない存在を感じ、言ってどうなると思いつつ俺は一人話し出した。
閃光が走る。
目の前に、片腕に
「――どうかお屋形さまばかりは落ち延びて下さいませ」
(何を言っているのだお前は)
「時をおけば小松再興も夢ではございません。伏してお願い申し上げる」
(何を血迷い事を。篭城が長くておかしくなったか)
俺は呆れてその老爺に問うた。
「再興してどうする?」
老爺は、俺の身を案じたのか、それとも訪れるやも知れぬ小松家滅亡の憂き目をなんとしても阻止したいといった意地だろうか。とにかく俺が考えもしなかった事をぬかすので、思わず「ふざけるな」と恫喝してしまった。
「俺はこの国の主だ。この国の明暗を担っておるんだ。民を救う事も出来ずに、国の主だと踏ん反り返っていられるか。ましてや小松の民を見殺しにして、俺一人生き延びてこれで小松を再び興せだと。それは一体どんな国だ」
又も閃光が走る。
その青年は世の中に絶望していた。何もかもが無意味に思えて仕方がなかった。そんな青年が生きる意味として選んだ事は、青年に優しくしてくれた者の望みに従う事。
更夜というその青年は、白い
自分は斡由の臣だと。斡由の為に自分はあるのだから、斡由に仇なすなら誰だって殺すと。更に更夜は、はんなりと笑う。
「誰が苦しもうが、国が滅ぼうが、仕方がない。斡由が良ければ良い。斡由が死にたいのだったら、それでもいい」
俺の民が、国が滅んでもいいと、死んでもいいと言う。
何という事だ。俺は何の為にここにいるんだ。
その後の俺は口が止まらなかった。
青年を説得し様としたのではない。
どうしても止まらなかったのだ。
「俺が、生き恥さらして落ち延びたのは何故だ?あの時、瀬戸内ですべてを無くした時、民に殉じて死ねば良かったものを、おめおめ生きてきたのは何故だ?それは、まだ託される国があると聞いたからだ。俺がもう一度国を持つ事を許されたからだ。もうあんな思いはごめんだ。俺は民に豊かな国を渡す為だけにいるのだ!」
尚隆の身体をずるりと入り込む様な違和感が走った。そして彼の瞳が先程とは明らかに違った、力強い輝きを放つ。
―俺は雁州国、国主、延―
往来では、雅楽の音がこだまし祀りを盛り上げる。
音は魂を揺さぶる。普段は硬く閉ざされた天への門口を開こうとする。独特のリズムとしらべが大きなうねりとなり、群衆を虜にさせ、華麗なる舞に酔いしれた。そうして、王を乗せた華軒と楽隊は、霊台に辿り着いた。
既に祭壇には、柴の上に玉と絹、供物等を並べ、これを燃やしていた。
煙に乗って天にそれらが届くように。
煙が天に立ち昇っていく様を群衆は見守りながら、楽隊の次の行動を期待する。雅楽はやむ事無く一切乱れる事無く、霊台の壇の上に上がって演奏する楽隊と、壇の下で演奏する楽隊に分かれた。そして、手順にのっとり交互に演奏をする。音色は空に響き渡り、大地をはった。それに併せて舞踊者は時より真っ直ぐ空に手を伸ばし、煌びやかな着物の裾を翻し、舞を天に奉納する。雁に変わらずの恵みを願うのだ。
尚隆は華軒から降りると、天心石へ歩みよった。そして、天を見上げ、祝詞を奏上する。尚隆の悠然とした動きは、すべての者を圧倒する威厳に満ちていた。
天ニ我ラノ願イヲ
大地カラノ恵ミニ感謝ヲ
仮ニ大地ノ怒リニ触レル事アラバ、直チニ鎮魂ヲ
今日ガ穏ヤカデアル様ニ
コノ先ガ太平デアル様ニ
天ヨ我ラノ思イヲ受ケ止メヨ
郊祀もつつがなく終了し玄英宮に戻ると、尚隆は正寝に篭って出てこなかった。最初は疲れたのだろうと、皆そっとしていたのだったが、夕餉も取らず湯殿にも行く事もしない彼に流石に心配し始めた。
六太がそっと尚隆の様子を覗くと、彼は外に出て露台に立ち雲海を凝視していた。
「……尚隆……」
恐る恐る声をかける。すると尚隆は振り向くとこう言った。
「おう、待たせたな、六太。一人で、寂しかったか?」
「一人でって、ここ暫く一緒にいただろ?お前、何、言って……えっ、今、何て言った?」
六太は俄かには信じられなかった。尚隆は昨日と特別変わりはない。だが、六太にはわかる。
懐かしい、雰囲気。
懐かしい、態度。
「待たせたなと言っている。今まで心配かけたな六太」
「尚隆。お前、漸く……」
「泣いてもいいぞ。丁度、今は五月蝿い奴もおらぬしな」
尚隆がおどけてみせる。
「馬鹿っ!お前心配かけやがって。皆がどんな気持ちでお前を待っていたか」
六太は思わず尚隆に飛びつくとポカポカ尚隆の身体を叩いた。尚隆はされるがままになりながら、優しく六太を見つめている。
(記憶が戻った。尚隆が帰ってきたんだ)
「お帰り。尚隆」
六太はニッと笑うと、素早く露台の手摺に飛び乗り尚隆と背の高さを併せる。そして尚隆の両頬をつねって、左右に引っ張ってみた。
「……おひっ!……やはぁ、めへぇ、ろほぉ、よ……。こほぉ、ら、ろ、くふぅ、たはぁ……」
「しかし、何がきっかけで、元に戻ったんだろう」
六太は不思議で仕方がなかった。朝会った時はそうでもなかった。郊祀の間は碌に話も出来ない。
すると尚隆から、思いがけない人の名を耳にした。
「……更夜を……見た」
「更夜に!?じゃあ、あいつ戻って……」
「いや、それは無いだろう」
目を輝かせて言った六太の声音に被さった形で、無常な尚隆の一言が発せられた。
「なんで?尚隆。お前、あいつを……更夜を、見たんだろ?」
更夜――遠い昔、二人に多大な影響を与えた人物。
尚隆は彼に、約束した。
人が妖魔に襲われることのない国を作ると。
それを、更夜は、黄海で待つと。
更夜と別れた後、月日は流れ、この国も漸く落ち着きだした。そんな時、尚隆は「乗騎家禽(かきん)の令」という物を発布した。それは騎獣と家禽のそれぞれに妖魔を加えるというもの。つまりは人との生活に妖魔を関わらせる勅令である。十二国全体を
最初はこの大胆な勅令に驚きもあったが、尚隆はこれを断行した。更夜との約束を果たす為に。しかし、これはあくまで体裁を整えただけであって、更夜の望む真の国の姿にはまだ近づいていないのだろう。今も更夜は二人の前に姿を現さない。六太はそれがずっと気掛かりだった。
露台の手摺に手をかけた尚隆は、波打つ雲海のその奥を見ているのだろうか。目を細めたまま動かない。六太は浮き足立った心のまま、尚隆の次の言葉をひたすら待つ。暫くして尚隆は確認する様にひとつひとつゆっくり話し出した。
「……記憶を取り戻したらしいと分かってから、いろいろな事が湯水の如く溢れてくるんだ。そして思い出した。六太、俺は柳北国で女に世話になる前馴染みの男に会った」
その男とは、初め、どこで、どういう経緯で会ったかも混沌とするほど、古くからの付き合いである。お互い人が通常全うするであろう寿命をゆうに超えても変わらぬ年恰好をしているので、おそらく同じ種類の者であろう事は感じていた。やがてはっきりと聞いた訳ではなかったが、男が誰なのかは見当がついた。
しかしお互い本来の姿ではない状態で気さくに話せるこの関係を、尚隆は悪くないと思っていた。
「奴は大事な用事とかで、恭州国へ出向いていた帰りに、柳北国へ寄ったらしい。そこで会った。奴がどんな用事で恭州国へ行ったかは、大抵分かっている。供王が即位した事は、鳳が鳴いたので、知っていた。きっと、慶賀の使節か何かをしたのだろう」
尚隆は当時を振り返りながら、慎重に話す。
「奴からは面白い話を聞くのが常なんだが……。あの時興味深い事を話していたのだ。なんでも供王昇山にたまたま立ち会っていたらしい。そこで奴は会っていないが、供王から珍しい方にお会いしたと聞いたそうだ」
「……誰?その珍しい者って……」
六太の胸が締め付けられそうになる。それを知ってか知らずか、尚隆は淡々と先を続ける。
「犬狼真君と呼ばれ黄海の守護者と崇められているその天仙は、供王に名前を尋ねられ答えたそうだ」
六太はごくりと唾を飲み込む。尚隆は六太の瞳を見つめると、静かに言った。
「更夜、と……」
暫く二人は無言だった。その重苦しい空気を六太が剥がした。
「更夜が、犬狼真君……。それじゃあ無理かも知れないな。今日は安闔日だった。黄海はこの日殊更忙しくなる。黄海の守護神とあっては外には出られないだろう。それに天仙は本来人と交わってはいけない事になっている」
「そう、だな。……無理、かも知れぬな」
冷えた風が二人の間を駆け抜けた。尚隆の後ろ髪がさらさらと波打った。
「しかし、俺はあの時確かに更夜を見た」
尚隆が目を伏せる。
「……はっきりと、頭に響いたのだ『待っている』と。そして俺は元に戻った。俺は約束を果たさなければいけない。その為に俺はあるのだから」
六太は思った。
尚隆が見た者が、更夜だったかどうかは今となっては分からない。あれだけの群衆の中だ。似た背格好の者もいるだろう。尚隆の深層心理と状況が、この上もないほどぴったりと重なり、結果的に尚隆の記憶を呼び戻したかもしれない。すべては、幻の中だ。
「しかし俺ちょっと悔しいかも」
振り向いた六太が毒づいた。
「あっ?」
頬に纏わりつく髪を払いながら、尚隆がいぶかしむ。
「だってお前、俺と柳国で再会した時、何にも思い出さなかったじゃないか。それが今日だなんて。しかも俺じゃない別の奴がきっかけだなんて。何か釈然としないなぁ」
尚隆は目を丸くしたが、ふっと優しい笑みを浮かべた。
「
六太は尚隆の笑顔が眩しかった。やっと心から落ち着ける居場所が戻ってきた気がする。尚隆の動き一つ一つが、六太にとっては胸躍るものだった。
(そう言えば今日は、この国にある
そう考えてもみたが、六太はこの事を突き止める事を止めた。誰がどんなきっかけで尚隆を元に戻したかは、この際さして重要でもない気がする。それよりも今は尚隆が本来の姿に戻った事が嬉しい。
「寒くなってきたな。そろそろ中に入ろうか」
身震いをして、尚隆がそう言った。六太は「うん」と頷くと、尚隆の傍にかけて行った。
補足と言う名の「うんちくもどき」
今回、郊祀のシーンを書くにあたり、かなりいいかげんに捏造致しました。
基本は中国の郊祀を参考に、都合良く、好き勝手しております。
中国にある天壇公園の圜丘を、小野さんのいう霊台にしました。
はじめは、実際の圜丘のイメージを、そのまま持ってこようかとも思いました。
しかし、小野さんは霊台を古墳の様な丘だと、そして幡を立てるらしいとしているので、その辺はなんとなくぼかして。
圜丘には、本当に「天心石」というものがあります。そこに立って声を発すると、圜丘の構造が上手く作用し、青空と話しているようにこだまするそうです。これは含めたいと思いましたが、上記に記した様に、イメージに若干のずれがあるので、泣く泣くお蔵入りしました。ただ「天心石」そのものは、あると雰囲気でるかと思い、使用させて頂いてます。
「柴の上に玉と絹〜」は燔柴という、郊祀でも行っていたらしい儀式を採用しました。
実際どうやってやっていたかは、勉強不足でわかりません。これも適当。
郊祀事体は、小野さんのいう多少規模の大きな地鎮祭(とこしずめのまつり)のイメージでという事で。土地の神ならぬ、天の神を鎮める(しずめる)祀りと、しております。
そして、尚隆の奏上した祝詞ですが…、恥ずかしい、全くのオリジナルです。(ばればれですね)
当初「神を鎮めると言った内容の漢詩はないのだろうか?」と探したのですが、ちょっと見つかりませんでした。
ならば、作るしかないのですが、私、漢詩、得意じゃなかったんです。
振り返れば、大学でも、ぎりぎりで単位とっていた。
「好き」と「出来る」は微妙に違うの典型です。
漢詩っぽい言い回しにしたかったのに、あえなく撃沈。
神興行列は韓国の「宗廟祭礼楽」をかじりつつ、自分が思った印象で、適当にでっち上げました。(実際見た事ないんですもの。でも、興味が沸きました)
露店の雰囲気も出したいと、中国の冬至の過ごし方を調べる。
…ぱっとしたものがない。
蘇州で今でも見られる習俗で、ワンタンを食べるらしいというのはありました。しかし、どうも中国語の語呂合わせの縁起担ぎの様な。常世ではどうだろうと言うことで却下。
そこで、採用したのが、小豆粥。古代中国では火、陽の色の小豆を呪に用いた様です。日本でも古くからあったそうですよ。
あの、迷信を嫌い、徹底的に仏教を弾圧した、合理主義者信長が、小豆を用いて地鎮祭をしたと言うのも、面白いと思いませんか?
っと話がそれましたが、これほど蓬莱では馴染み深い小豆を、蓬莱育ちの尚隆が、雁国での風習に定着させたとしても、違和感ないかなぁ、という訳で押し込みました。
以上を踏まえつつ、六・七話は出来ております。
ちなみに、私の知識は、まるっと、聞きかじりの付け焼き刃です。深く突っ込まれると途端に黙ります(笑)
でも、今回、郊祀を調べる作業は、すごく楽しかったです。
皆様で、他にも面白いお話があったら、教えて下さると嬉しいです。
では、ここまでお読み下さり有難うございました。