雁州国、靖州は関弓山の頂上に、玄英宮はある。
「一体あの馬鹿は、何をしているのだ!」
玄英宮では、さして驚く事もなくなった、ある男の大きな怒鳴り声がこだまする。
「そう、大きな声を出さずとも、よく聞こえておりますよ、帷湍」
資料に目を通しながら、柔らかな線の印象を持つ優男が話し出す。帷湍は、ぎりぎりと苦虫を噛み潰した様な表情を見せ、その優男に迫る。
「しかしなぁ、もう一ヶ月以上、下手すると、二ヶ月近く帰ってこないんだぞ、朱衡」
朱衡と呼ばれたその優男は、資料を捲る手を止めると、大きな溜息を零した。
「流石に長すぎますね。それに、ここまで連絡の一つもないのは、尚隆様にしては珍しい。破天荒でも、押さえる所は知っているお人です。……何か、あったかも知れませんね」
すると二人のいる堂室の窓から、金の髪を持つ少年が舞い降りた。
「台輔。又、その様な所から、出入りなさって……」
言いたくはないが、少年の姿を見るとついうるさい事を言ってしまう。朱衡はそんな事を思いながら、流れる金糸の髪を無造作にかき上げる彼を、ねめつけた。しかし、その言葉も少年の耳には届いていない様である。
「雁は、くまなくまわったよ。どうも、この国にはいないようだ」
落胆した声でその少年―六太は、呟いた。普段、王に対して悪態をついていても、六太は麒麟。王が連絡もなく、長い間留守をする事に、不安は隠せない。六太の傷悴した様子に居た堪れなさを感じた朱衡が、手にしていた資料を手早く整えながら、六太に話しかけた。
「ならば、隣国なのでしょうか?」
六太は傍にある椅子に腰を降ろし、足を投げ出した。
「うん。もしかすると、柳国にいるかも知れない。随分前に柳国の現王はあまり変わりばえのしない男だが、ここ三十年国をもたせているのが面白い。現在どういう状況なのか興味があるから一度見に行ってみたいとあいつが言っていたのを思い出したんだ」
「変わりばえのしない男?はっ、あいつから見れば皆そうだろうよ」
帷湍がひらひらと大げさに手を振る。すると朱衡が、そんな帷湍を諌めた。
「
「一先ず芝草に行こうと思う。市井に紛れているかも知れないから」
「そうですね、そろそろ尚隆様には帰って頂かないと。あの方でなければ出来ない事もございますから」
ちらりと横目で、六太を見遣る朱衡。
「
六太は表情を緊張させると、凛とした声で二人に話した。
六太は柳国首都、芝草にきていた。六太は麒麟の
「ここにも王気は感じないなぁ」
そう言って街中を歩き回り何気なく里木へ向かった時、六太は強い王気を感じた。
「尚隆……」
六太は嬉しかった。
悲しい位、嬉しかった。
やっと会う事が出来た。
我が主(あるじ)。延王、尚隆。
「しょう、りゅ……」
声を掛け走り出そうとして、六太は立ち止まってしまった。会いたくて堪らなかった主が、美しい女と里木の前で手を合わせていたのである。
(あれは?子を望んでいるのか?まさか、そんな……)
六太は言葉もなかった。唯立ち尽くしてじっと見る事しか出来なかった。すると向こうから六太に気が付く。
「どうしたの?風漢」
女は風漢がある少年をじっと見ている事に気付いた。微動だにしないまま、風漢は女に返事をする。
「いや、なんとなく。綺麗な子だと思って……」
「本当。とても綺麗な少年ねぇ。ぼうや、そこで何しているの?」
女に声を掛けられ、びくりとする六太。
逃げようかと思った。しかしそれは出来なかった。
(会いたかったんだ。……傍に……いたかったんだ)
六太は意を決して歩き出し二人にこう切り出した。
「探したんだぜ、尚隆。どこ行ってたんだよ」
自分に対して聞き慣れない名前を呼ぶこの少年に、風漢は怪訝な表情を浮かべる。
「尚隆?人違いじゃないのか?俺は風漢と言う」
「おちょくる気か?冗談もいい加減にしろよ。それも知っている。お前は風漢で尚隆だ」
「よく分からないなぁ。なんで俺が二つの名前を持っている?……まさか、お前。俺の過去を……」
言おうとして、風漢は止めた。女が、がたがた震え出していたのだ。そんな女の姿を見た風漢は、息を吸い込むと次には大声で笑ってやった。
「あぁ、ぼうず、やっぱり人違いだと思うよ。俺は風漢。この女と婚姻して、今、自分達の子供の実がなり始めたのを確認し喜んでいる所だ。お前の知り合いに似ているのかも知れぬが、きっと勘違いだと思うぞ」
そう言って六太の肩を叩いてやった。それから、先程から震えが止まらない女を支えると
「じゃあな、ぼうず」
と、その場を後にした。
「何言ってるんだよ。お前を俺が間違う筈がないだろう?お前は尚隆。俺の大事な半身さ」
六太は訳が分からなかった。今会った風漢という男が、彼の探し人だというのは確信している。麒麟は王気を感じる事が出来る。あの男は紛れもない強い王気に満ち、その王気が自分と共に長い時間を過ごした記憶と一致していた。しかし、男は違うと言い切る。
「それに、おかしな事も言っていたな。俺の過去って。……何か絶対訳がある」
そう思いながら、六太は、風漢と女の後をつけた。
風漢と女は自分たちの家の庭に到着した。
「少し風にあたりたいの」
そう言う女に、風漢は付き合ってやる。暫く二人は無言だったが女が先に口を開いた。それは聞く事をずっと躊躇っていた事柄だった。
「風漢?あなた、記憶が完全に戻ったらどうするつもり?」
「……」
「あの子、なんだか風漢の事よく知っていそうだったわ。なぜいろいろ聞かなかったの?」
女の問い掛けに、風漢は困った様な顔をして黙って遠くを見つめている。
(この静けさが怖い……)
女は出来るだけ明るい声で自分でも滑稽なほどはしゃいでみせる。
「ひょっとして、私に気をつかったぁ?そんな事しなくていいのに。私は、私は、ね」
その先は風漢の口付けで喋らせて貰えなかった。息もつかせないそれは女の意識を遠のかせる。風漢は女を抱きしめ直すと、ゆっくりと口を開く。
「もうどうでもいいんだ。俺の生い立ち等、今更知った所とてそこに何がある?今、俺はこんなにも恵まれているじゃないか。……振り返れば、俺は憧れていたのかも知れない。俺を、俺だけを愛してくれる女と、俺の子が世にいるという事実に。はっきりとは思い出せぬが、何度も諦めかけた様に思う。しかし、もうすぐそれが手に入る。……だから、これでいい。俺は、お前と幸せになる」
女の目から涙が零れた。
その様子を影から覗いていた六太は思い出していた。我が主がその昔蓬莱で家族について語った事実。
妻は無理やり押し付けられた女だった。そして、結局彼には実子がいなかった。表向きには子はいた事になっていたが、それは彼の父が息子の嫁である彼の妻と交わった時に宿した子だった。
(あいつ穏やかな生活が欲しいのかな)
遣り切れない思いが、六太の心を駆け抜けた。
それを自ら打ち消すが如く、六太は首を振ると
「それにしても記憶障害とは。だからあいつとの遣り取りに違和感があったんだ。しかしこの先どうしよう。もうすぐ郊祀だ。それまでには何とかしないと」
そう呟いて玄英宮へ帰っていった。
(ごめん尚隆。お前の安らぎ壊しちまうかも知れない……)
六太の報告を聞いた朱衡は、想像だにしなかった事態に驚きを隠せなかったがすぐに元の優雅で無表情の顔で話し出した。
「……そう、ですか。しかし困りましたね。尚隆様がどんな状態であれ郊祀には王が必要です。王がいなくとも準備は万全に整いましょうが、王が居らねば郊祀は成り立ちません。ここはお身体だけでもお貸し願わないと」
「朱衡!お前、尚隆の意志はどうでもいいから身体だけ貸せと、そう言うか!」
六太が朱衡に掴み掛かろうとする。それをやんわりと払いのけながら、朱衡は六太を諭す。
「その様な事は私も思いませんとも。ですが、黙っていても時はやってくる。雁国の現王は尚隆様をおいて他にはいらっしゃいません。つまり代わりが利かないのです。ここはご家族にもお話し、あの方ご自身にもご理解なさって頂かなくてはなりません。台輔」
六太は拳を強く握ると
「俺、あいつの安らぎ壊したくないな……」
と、ぼそっと呟いた。そこに込められた、六太の主に対する思いを朱衡は何となく感じてしまった。朱衡は目を細め小さく溜息をつくと、うやうやしく六太に対して礼を取る。
「台輔がもし言い難い様であれば、及ばせながら私めがその任務を引き受けさせて頂きとう存じますが、いかがでしょうか?」
「……すまない。本当なら俺がちゃんとしなきゃいけないんだけど……。お前にまで、要らぬ負担をかけさせてしまって……」
「何を謝る事がございますか。雁州国官吏として当然の事です。ほら笑って。いつもの様にもっと扱き使っていいのですよ」
朱衡は彼独特の優しい笑みを六太に投げ掛けた。
その日、女の家の前に朱衡と六太は立っていた。
「お邪魔致します。誰かいらっしゃいませんか?」
朱衡が声を掛けると、奥から店の者である男が愛想のいいにこやかな顔で現れた。
「いらっしゃいませ。おや、初めての方ではございませんか?こちらの玉はどれも皆質の良い物ばかり取り揃えております。見た所、お客様はとても良いご趣味をされている。きっとご満足されますよ」
腰の低く客の心を瞬時に掴もうとする男の売り文句も、朱衡と六太には何の意味もなかった。
「突然で申し訳ないのだがここの家公にお会いしたい。お願い出来ますか?」
朱衡と六太の雰囲気に何かを感じた男は、にこやかな笑みはそのままで、しかしその眼光は明らかに警戒の色を滲ませる。
「はぁ、旦那様でございますか?あのう、大変恐縮ではございますが、お約束はなさっておりますでしょうか?そのう、言い難い事なのですが、ここにも、たまに妙な輩が徘徊しまして。……いえ、お客様がどうのと言うのではございませんよ。唯いきなりですと、ちょっと……」
「こちらの非礼は重々承知しているのだが少々急いでおりまして。家公に『そちらの客人の過去に心当たりがある』と申して取り次いで貰えないだろうか」
すると店の男の表情が固まった。そしてすぐに店の奥へ入っていってしまった。その後なにやら奥がばたばたし出したが、暫くして若いわりには妙に落ち着き払った暗緑色の髪を持つ女が現れた。
「ようこそお越し下さいました。私がここの家公でございます。少し立て込む話になりそうですので、どうぞ奥へお進み頂けますでしょうか」
客堂で女は朱衡と六太に一通りの挨拶をした。
「突然の無礼を申し訳なく思っております。ですがこちらの都合になりますが急を要しておりまして、この様にさせて頂きました。私は雁州国大司寇、楊朱衡と申します。そして、こちらに居られますのが台輔延麒でございます」
「雁州国大司寇に延台輔…。えっ、雁州国の麒麟!?」
女はそこにある事実に驚き、椅子から転げ落ちる様にして立ち上がると床に跪こうとした。他国といえども麒麟と上級官吏は、女の様に下界の住人には手に届かない尊い者である。おそらく一生会う事もないであろう者達が目の前にいる。思わずの行動であった。
「いや今回は内内の事情で、こちらが押し掛けたのです。その様にして貰ってはこちらが困ってしまう。どうぞ顔をあげて下さい」
朱衡は女に椅子に座る様促した。
「でも、でも、この子が麒麟……」
女は胸に手を当てると、大きく息を吸ったり吐いたりして落ち着けた。
「あぁ、こんななりだけどな、一応雁州国の麒麟をやっているよ。あんたとは以前しょうしゅう……あっ、風漢と一緒にいる所で会っているよな」
そう言いながら六太は頭に巻いていた布をおもむろに外す。すると黄金の髪がざぁーと表れた。ここまで美しい金糸の髪を持つ者は限られられている。女は改めてこの少年が麒麟である事を深く認識した。そして疑問に思う。
(どうして麒麟であるこの子が風漢に用事があるというのだろう)
女は嫌な胸騒ぎを感じた。
(まさか、風漢、あなた……)
それを決定付ける重い一言を、朱衡は静かに発した。
「この度は我が主、雁州国国主をお迎えに上がりました」
女はガタガタ震えそうになる身体を、ここの家公として迎えているという自尊心だけで何とか持たせていた。その様子を知ってか知らずか朱衡はさらに続ける。
「我が主上は名を尚隆と申します。主上は下界へ降りて民の暮らしを自分の目で見て、耳で聞こうとなさるお方でございます。その時使用する仮の名が風漢。主上が下界に下りるのはいつも突然で。私共は主上をお探し申し上げるのに苦労するのでございます。…今回も難航致しました。しかし丁度延台輔が以前主上が柳北国へ様子を見に行きたいと仰っていた事を思い出しお探しした所、あなた様をお見かけした次第でございます」
言い終わると、朱衡は目の前にある茶器を男のものとは思えないほど白く細い彼の手で包み込むと、ゆっくりと喉を潤していった。
「あぁ暖かい。とても香りの良いお茶ですね」
女は極度の動揺の為か、朱衡の言葉にすぐには反応出来ない。やっとの思いで一言「有難うございます」と呟くのみだった。
「実は火急の用事がございまして。あなた様もご存知だとは思いますが、もうすぐ冬至でございます。冬至には郊祀という祭礼を行わねばなりません。王がいなければ祭礼は成り立ちませぬ。ましてや郊祀は大変重要な祭礼のひとつ。そこで、主上にはすぐにでも、王宮に戻って頂かなくてはいけないのでございます」
女は朱衡の話す言葉が、朝、耳にする鳥の囀り(さえずり)の様に思えて仕方がなかった。耳に心地良いが、何を言っているのかが把握出来ない。そして思うは風漢の事。
(彼は、出会った頃から誰もが一目見て忘れられない魅力に満ちていた。あれは、王という者のなせる業なのかもしれない。王……人として生まれながら、神として国をつかさどる者)
客堂は静寂な空気が漂っていた。それを破る様に、使用人の一人が「失礼致します」と言って、短く女に耳打ちをした。女は着ている物の袂をゆったりと整え直すと、己の声に精一杯の威厳を込めて話し出す。
「あなた様方がお探ししております者が戻った様でございます。呼びますので、暫くお待ち下さいませ」
すぐに女の用事で出かけていた男が客堂に姿を現す。
「尚隆」
六太は目を輝かせて、自分が慣れ親しんだその男の名を呼んだ。
「主上……尚隆様」
朱衡も二ヶ月ぶりに見る主に、ほっと安堵の表情を見せた。
「よくご無事で」
しかし、尚隆と呼ばれる男はこの事態をいまいち飲み込めていない様である。
「おれは風漢という名ではないのか?それに俺が雁州国の王だと!?」
女は尚隆に事の説明を行おうとしたが、一連の事で頭が真っ白になり言葉が続かない。結局、朱衡に説明をして貰う事になった。
「……という訳で、尚隆様あなたには是非とも王宮にお戻り頂かなくてはなりませぬ」
尚隆は無言で朱衡の話を聞いていた。すべてを聞き終わってからも困惑の色は隠せない。
「それは俺じゃないと務まらないのか?」
朱衡は、静かに落ち着いた様子で、しかしきっぱりとこう尚隆に話し出す。
「ええ。にわかにはご理解出来ないかと思いますが、あなたこそが雁州国国主。尚隆様、あなたがここの家公そして店に対する天からのご加護を願う様に、私も雁州国国民の幸せを祈りたい。それを叶える為には、あなた様をおいて他にはございません」
その必死ながらも鋭い朱衡の視線に、尚隆は圧倒された。そして、こんなにも自分を必要としている者の願いを、聞かない訳にはいかない気がしてきた。
(不安はあるがこの者らを信じてやってみるか)
「分かった。一応その郊祀というやつは出てやろう。あんた達も困っているからな。で、その先は又後だ。朱衡さん、それでいいだろう?」
尚隆は朱衡にそう切り出した。
朱衡は、尚隆の少々他人行儀な態度に一抹の寂しさを覚えた。記憶がなくなる前の尚隆は、臣下である朱衡にも大変気安かった。始めの頃は驚きもあったが、そんな尚隆の人柄に不思議な魅力を感じ、是が非でもお守りしようとしたものである。
(ああ、この方はやはり記憶障害なのだ)
又以前の様に「おい、朱衡」と呼び付けて欲しい。
共に作り上げた四百年を、このまま闇に葬らないで欲しい。
朱衡は湧き上がる思いをぐっと飲み込んだ。そして尚隆に仕える内身に付けた、優雅で無表情な笑みを浮かべると
「えぇ結構ですとも。申し訳ございませぬが、我らに協力して頂きとうございます」
そう言って、深く