素晴らしきかな人生 四話
 風漢は女を外に連れ出した。彼の趨虞に跨り、雁国との高岫(こっきょう)近くへ向かう。
「趨虞に乗れるなら是非行ってみたい場所があるの」

 そう女が頼んで二人が到着したのは、一本の大きな樹木の立つ場所だった。
「仕事の帰りによくここの近くは通るの。そしてこの木をずっと気にしていたわ。だってこんな大きな木見た事なかったんですもの。ものすごい生命力をこの木に感じるの。でも足場が悪いから、馬車ではちょっと無理で……。でも、こうして上から見ても圧巻ね。植物の力強さが、ひしひし伝わるようだわ」
 趨虞に跨ったまま、女は、いささかはしゃいでいた。それは前から見たかった樹木をやっと見る事が出来た嬉しさと、風漢と二人きりの時間を持てた嬉しさなのだろう。心地よい風が女の頬を擽る。
「おい、もっと俺の腰をしっかりつかまっていろ。何かあったらお前の両親に申し訳がたたぬだろ」
 風漢はそう言うと、女の腕を取り自分の腰にぐっと巻きつける。当然、女は風漢の背中に突っ伏した様な形になる。
(風漢の匂いがする)
 女は風漢の背中に知らず鼻を押し付けた。これは日の匂い。香など焚き込めていない、まさに風漢そのものの匂い。伝わる風漢の暖かさ。女はそれだけで胸の鼓動が脈打った。
 既に女は風漢に対する自分の気持ちを認識している。しかし想いが果たせない事も知っている。

(だってこの人は、何時かいなくなる人だもの)

 それでもいいと思った。想うだけなら、邪魔にはならないだろう。今はただこうしていれば、それでいい。
 女はそう思っていたので、風漢の突然の告白には驚いた。
 大きな樹木の幹の前。
 風漢は女を立たせると、女を挟む様に自身の両手を幹に押し付けた。逃げられなくなった女は、風漢の顔を直視する事が出来ない。しかし風漢の次の言葉によって、大きく目を見開き彼を凝視した。
「俺と一緒にならないか?」
 女は息の詰まる様な衝撃を覚える。
「えっ、だって、うそ、でしょう。風漢が、そんな、私となんて……」
 女はあたふたしてしまい、自分でも何を言っているのか分からなくなってしまった。
「無理、無理よ。だって、あなたは、いつかいなくなる人だもの」
「俺はいなくならないよ」

「……どうして?」
「このまま俺は、自分の記憶が戻らないかも知れない。例え戻ったとしても、俺はお前を必要だと思い始めている。お前は魅力的な女性だ。この先も共に暮らしてゆきたい。そう思っているのだが、お前は、いや、か?」
そう言った風漢の熱い眼差しを見、女は愛しさでいっぱいになった。
「嫌、な、訳、ないじゃない」
 女は力いっぱい風漢に抱きついた。風漢もそれに答え、二人は暫くお互いの暖かさを匂いを感じ取っていた。
「でも、実際の所、婚姻は無理でしょ。あなたの戸籍が分からないんだもの」
 冷静になった女がそう言うと、風漢が
「あぁ。お前の父上が何とかして下さった」
 そう伝えた。
「父が?どうやって?」
 女が不審に思い、質問する。
「さぁな。俺もよくは知らないんだ。気が付けば、俺の戸籍が用意されていた。……なぁ、別にどういう経緯(いきさつ)で手に入れたかは、考えなくてもいいんじゃないか?お前の父はお前の為に奔走してくれた。それだけこの婚姻を喜んでいる。俺達は誰に反対されるでもなく、夫婦になれる。それだけじゃ、駄目か?」
 風漢は、女の父親がどんな手を使って戸籍を手に入れたかは、隠すべきだと思った。だから女には少し嘘をついた。世の中知らなくて済む事は沢山ある。
「そう……うんそうね。父にお礼を言わなくっちゃ。それから、明日、早速府城(やくしょ)に行きましょう。私、一刻も早く、あなたの妻になりたいわ」
 言って、女は風漢の唇に軽く口付けを落とした。


 その日、二人の門出にはふさわしい爽やかな晴天だった。風漢と女は婚姻をするべく府城へと向かった。
「用意した資料に、間違いはございませんか?」
 秋官は事務的に作業をこなしている。府城には、風漢達の様に婚姻の届けをする者、旌券の発行を願い出る者、旌券を無くし朱旌を貰う者、証書を貰う商人ら、実に沢山の人であふれかえっている。
 少し手持ち無沙汰になった風漢は、何気なく府城の奥を覗いた。そして凝視した。そこには先日出会った、左頬にほくろのある中肉中背の男性らしき者がいたのである。しかし男にはあの特徴的なほくろはない。
(だが間違いなくあの男だ。すると何か、この国は秋官らが不正な戸籍の取引をしているのか?きっと、声だけの男もこの国の官吏に違いない。この男はそいつの駒なんだ。男も目の前の出世の為上司の言う事を聞き自ら進んで不正に手を貸しているのだろう)
 風漢の中で、何かがどくりと動き出した様だった。
(不正の内容より、こんな事をこの国の官吏が自ら行っている事が問題なのだ。何ということだ。法を無視し民の弱みに付け込み、国の官吏が私腹を肥やしている。情けない事を。これを王は知っているのか? 知らなければ馬鹿だ。早く手を打たないとまずい事になるぞ)
 そこまで考えて風漢は、はっとした。

(まただ。俺はなぜそんな事を考える必要がある?)

 王の行い等、今の風漢にとって見れば、考えても仕方のない事柄である。しかし風漢は心に刺が刺さった様な、妙な引っ掛かりを感じていた。

(何か、何か、分かりそうなんだ!)

 しかし考えようとすると、頭を鈍器で殴られた様な、鈍い痛みが風漢を襲う。問題の男と風漢は目が合った。しかし男は、驚く訳でもなく、慌てる訳でもなく、無表情で作業をしている。
 勘違いかも知れぬと思った矢先、風漢は見てしまった。男が左頬を気にして、掻き毟っている所を。
 おそらく、ほくろは偽物なのだろう。別人になる為に無理矢理つけていた。しかし人というものはそういった物を気にするものである。男は何かと左頬のほくろを掻き毟る癖がついてしまった。そしてほくろを外している今も、指が勝手にあのほくろを探すのである。
 風漢はただじっと凝視するばかりだった。不信に思った女が
「風漢?」
と怪訝そうな顔をする。
「いや、何でもない」

(今考えるのはよそう。俺はこの女と一緒になるんだ。女は俺を愛してくれている。俺も女を必要としている)

「このまま商人の親父(おやじ)でもいいじゃないか」

 風漢は一人呟くと府城を出て行った。手続きを終えた女も、慌てて風漢の後を追った。


 その後の女は幸せだった。思えば恋という事に無縁だった女である。だから風漢の仕草一つ一つに胸がときめいた。
 風漢も穏やかな毎日を送っていた。両親との関係も上々である。使用人は風漢を慕ってくれている。何より女の笑顔が風漢の心を和ませてくれていた。
(こんなに何も考えず、落ち着いた日々は久しぶりかもしれない)
 こんな事を思う自分に風漢は驚いた。

―俺はこんな事の為に、この世界に来たのではない―

 魂の奥から響く声が風漢を包んだ。
(何だったのだろう、今の声は。この世界とは柳国の事ではないのか?俺は一体何者で今まで何をして生きてきたんだ?)


 時より風漢が、誰も寄せ付けない厳しい顔をする事がある。女はその顔を見る度、心が凍りつく様な衝動にかられる。
(風漢は何かを思い出そうとしている。思い出した時、私はどんな態度をとるのだろう。行かないでくれと、泣いて、縋って、訴えるのだろうか?)
 女は天に向かいひたすら願う。
「私はもうこんなにも風漢を必要としている。だから、天よ。どうかこのまま、私達に平穏な時を下さい」

*****

 静かで穏やかな瀬戸内の海。
 船に乗り、網を引く、威勢のいい漁師の声。
 明るく笑う、その妻や母。
 元気に遊ぶ子供達。

―守りたいと思い、すべてを失ってしまった―

「……許して、許して、下さい」
 目の前にいる妻は小さく震える声で床に顔を擦り付け、それだけを繰り返していた。
「何を?」
 俺はそんな妻を、乾いた視線で見下ろしている。自分の妻となるこの女と初めて会った日、線の細い、しかしながら気高い印象の女性だと思った。俺が近づくと
「こんな辱めを受ける位なら、私は何時だって死ぬ覚悟は出来ております」
 そう妻は、喉元に簪を立て虚勢をはり、妻に付いていた下女二人が、その隣で震えている。
 何という強気な女なのだろう、そう思っていたのに今は見る影もない。
「私に言わせると仰せか?あなたは気付いていらっしゃるでしょう。私がどんな罪を犯してしまったかを。……無理矢理だった。ただ、昔、先に逝ってしまった女に似ていると言うだけで、抱かれてしまった。あなたのお父上、お屋形様に」
 妻は半狂乱の様子で、俺の足元に縋った。
「あなたは私が汚らわしいとお思いでしょう。すべてを無にしたいでしょう。それでも、それでも、私はあなたに願わずにはいられない。せめて、子が生まれるまでは、そっとしておいて下さい」
 これが、俺の知っている妻なのかと思った。
 かくも女というものは、子を持つと変わるものよ。妻はそれまで持っていた自尊心をすべて振り払い、必死で己の中に芽生えた命を守ろうとしている。
 俺は久しぶりに、妻の肩を優しく掴んだ。妻はびくっと身体を硬くしたが、俺の言うなりになろうとしているのか、そのまま動かない。
「許す?一体何を許して欲しいのか、俺にはさっぱり見当がつかないな。お前は子を身ごもっている。それは俺の子だろう。妻が子を宿している。こんなめでたい事はない」
 その瞬間、妻は弾かれた様な表情を見せ、再度床に顔を擦り付けるのだった。そして。いつまでも、いつまでも、泣き続けた。


 生まれた子は、快活な、そしてとても綺麗な顔をしている男子だった。城の者は口々に
「本当に、若にそっくりで」
と、褒め囃した。その度に妻は何とも言えない顔をするのだが、俺は息子をこの腕に抱く時、無条件でかわいいと思った。
(ひょっとしたら俺達は今、ようやく本物の夫婦になったのかも知れぬ)
 俺はそう思い始めていた。
 しかし、あの戦乱の世がすべてを焼き尽くしてしまった。
 親父が死んだ。息子も殺された。部屋に入ると妻は首をはねられた息子の傍らで、自らの命を絶った所だった。虫の息の中妻はこう語った。
「……あなた……息子と共に……先に……逝っています。……あなたはお強い……お方。……きっと……何とか……なりましょう。でも……あの方……お屋形様は……お寂しいお方。……だから……私が……一緒にいて差し上げないと……。でも……これだけは……信じて……。私は……いつしか……あなたに……惹かれていた。……お慕い……申し上げて…お、り、ま、し、た」
 妻は俺の腕の中で、静かに息を引き取った。

―守りたいと思い、すべてを失ってしまった。俺がもう一度国を持つ事が適うなら、もう、あんな思いはしたくない―


「ひぃっ!」
 己の声に驚いて、風漢は臥牀から飛び起きた。
(何だったんだ、今の夢は)
全く異世界の夢の様であった。しかしながら、妙に生々しい夢だった。
(まさかこれが、これが俺の過去……)
 それを決定付けるには、違和感のある事が多すぎた。見た夢は、こちらの様子とは全く違っている。
「くそっ、近頃、へんな事ばかり、思いつきやがる」
 風漢は一人ごちた。
「……んっ、うーん……」
 風漢の隣ですやすや寝息を立てていた女が身体を僅かに動かした。女の頬はいささか上気した様な、艶やかな輝きに満ちている。その顔を見ていると、先刻の女との甘やかな一時を思い出す。女の身体は喜びを迎える度、風漢の身体の上で美しくしなった。その桜色の唇からは、闇に溶けてしまうほど、甘く美しい吐息が漏れた。
 風漢は女の背中に片方の手を回し、もう片方の手で女の髪をすいた。女の豊かな暗緑色の髪が、しっとりと風漢の指に絡みつく。
「この髪は罪だな。……絡めとられそうだ」
 そう言うと、風漢は女の髪に口付ける。すると女は身体を少し動かすと、風漢の首筋に顔を押し付ける。
「……幸せ……」
 ぼそっと聞こえる声に、風漢は髪をすく手を止めた。
「何だ。目が覚めていたのか」
「つい、さっき。……ねぇ風漢。何か喋って」
「どうした?」
「私ねぇ、あなたの筋張った喉が好き。喋る時上下に動く喉仏が好き。こうして顔を寄せていると、あなたの低い声がよく響いて伝わるの」
 女は風漢の首筋に唇を這わす。そんな女がかわいいと思う。風漢は静かにそして甘く囁く。
「愛している。お前を……愛している」


 その日の朝。朝餉をとっている時女から申し出があった。
「風漢、子供を欲しいと思わない?」
 風漢は食事をしている指先を止めた。
「子供、かぁ」
 あの夢を思い出す。夢の中で風漢は、子供に対して何も出来なかった。確かに風漢の子供ではなかった様だが、心の底から、大切にしたいと思ったのは覚えている。

(あれは、ただの夢なのかもしれないけれど。今この手に自分の子を抱く事が叶うなら、十分に愛を注ごう。すべての喜びをその子に与えよう)

「そうだな。二人の子供が欲しいな」
 それから二人は、刺繍を施した帯を、里木に括り付け、子を願ったのだった。

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2004.7初稿
2009.6改稿
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