風漢がきて十五日ほどたった。この頃の二人はお互いに顔を合わせ冗談も話すが、ある一定の距離を保とうとしているのを、周囲の者は感じていた。その様子を見て一番心配していたのは女の両親である。
「二人とも素直になればいいものを……」
女の両親は、二人が夫婦になればいいと考える様になっていた。仕事以外何事も無頓着だった女が、風漢が来てから笑顔が絶えない。もともと明るい性格の女だが、更に磨きがかかったようだ。そして何より女らしくなった。
思えば女の十代は、書籍を読むばかりの日々だった。女の両親も、下手な男に捕まる位ならその方がいいと思っていた。しかし年頃になると、勝手なもので、女には幸せな結婚をして欲しい。後々には、孫をこの手に抱きたいと思う様になった。
女が拾ってきた風漢という者は、不思議な魅力のある男性だ。大事な女を任せるなら、風漢しかおらぬと望まずにはいられなかった。
「なんとか二人を一緒にさせてやれないものか」
女の両親の興味はその事に集中していった。
「旌券がないんだろう。相手の元の戸籍がわからないんじゃ、どうにもねぇ」
「婚姻して、娘の戸籍にすぐ入れるんだ。風漢の戸籍がない事位、些細な事だろう」
女の父親は、小男に食い下がる。
「そうは言ってもねぇ。旦那。書類の上では、その風漢さんって人に戸籍がないと、婚姻出来ないんだよ。元の戸籍があって初めて次の戸籍が売れるってもんだ。これ、この生業の常識ですぜ」
小男は片手をひらひら振ってみせる。
「あたしもねぇ、この年で牢に入りたくはないんでね」
どうにも、話にならないと言いたげな様子である。
女の父親は、小男の脂ぎった手をむんずと握ると、必死に訴えた。
「そこを何とか、頼まれてくれないだろうか」
小男の手に、ひやりとした感触が伝わった。始め小男はその感触にびっくりした様子だったが、すぐに平静を取り戻し、にやりと嫌らしい笑みを浮かべるとこう言った。
「あたしもねぇ、詳しくは知らないんですが。なんでも噂では、そこそこの金を払えば、どんな者でも戸籍を与える所があるらしいですぜ。あくまで噂ですからね。はっきりとは、お答えしかねますが」
小男は、手に渡された幾ばくかの金銭を、何事も無かったかの様に懐に入れ、ニヤニヤしながら尚も話す。
「本当に知らねぇですがね。もう少しここで待っていると、左頬に大きなほくろのある、中肉中背の男がやってくるんですわ。あいつなら、旦那の知りたい事、協力出来るかも知れねぇ。おっと、これはあくまで、あたしが人から聞いた話。だから、なにか面倒な事があった時、間に受けてあたしの名前出されても困りますが。だって、噂ですぜぇ。旦那がそれを訴えた時、その事は一気に、確信の無い物になる。…分かるでしょう、へ、へ、へ…」
小男はその脂ぎった手で、左頬に大きなほくろのある、中肉中背の男が、いつも陣取る場所を指差してやった。
(全く、先程とは打って変わってよく喋る奴だ。つまりは、情報は教えてやったが、なにかあっても自分は知らない。関係した他の者も一切知らないと言うから覚悟しろ、と言う事なんだろ。たんに、口止めを強要しているだけじゃないか。だが、これで何とかなりそうだ)
女の父親は呆れたと言った表情を、普段の穏やかな優しい男の仮面に隠し
「有難うございます。その噂とやらに、縋って見る事に致します」
そう小男に向かって、手を合わせた。
女の父親が暫く待っていると、本当に左頬に大きなほくろのある中肉中背の男がやってきた。女の父親はにっこり笑って男に近づくと
「風の噂で、あなたに頼むと大抵の事は何とかなると聞いたのですが。例えば、戸籍とか……」
男にしか聞こえない、静かな声で問い掛けた。男はふんっと鼻で笑う。そして左頬のほくろを掻きながら、低い声でこう尋ねた。
「それは、お前自身が望む事なのか?」
「違います。娘の伴侶にある男を迎えたいんだが、戸籍がわからなくなってしまって、困っているのだ」
女の父親はあくまで落ち着いた口調で、男の反応を見ながら話す。男は相変わらず、左頬のほくろを気にし、掻きながら
「では、今日はだめだ」
と一言ぽつりと言う。
「そう言った事は本人でなければ叶えられそうにない。俺はいつもこの位の時間にここに来ている。日を改めてくれないか?」
そう言うと、又むっつりと黙り込んでしまった。女の父親はがっくりと肩を落としたが、風漢を説得すればどうにかなるという事で、いささか明るい表情で家路に着いた。
「風漢殿。貴殿に話がある」
女の父親は女の家に着くなり、風漢と話がしたいと申し出た。すっかり日も落ち女の父親と風漢のいる房室には小さな明り取りの炎が細々とほの明るい光を放っていた。女の父親は用意していた酒を杯に注ぎそれを風漢に渡す。そして自身も酒をくいっとあおると、意を決した様に話を切り出した。
「風漢殿、娘をどう思う?」
風漢のこめかみがぴくりと僅かに動いた。しかし風漢はそのまま何もなかった様な面持ちで、自分の杯をゆらゆらとまわしている。
「私は娘がかわいくて仕方がないんだ。だから娘の悲しむ顔は見たくない。娘に幸せな婚姻をさせてやりたいんだ。そして私の手に孫を抱かせて欲しい。私が見た所、貴殿は娘にはうってつけの素晴らしい方とお見受けする。どうか、娘と一緒になってくれないか?」
風漢は立ち上った酒の香りを感じながら、女の父親を見据え慎重に言葉を選ぶ。
「俺をそんなに信用していいんですか?俺は自分が何者か知らない。そんなあやあふやな男に、あなたの大事な娘を任せてしまって、大丈夫ですか?」
「私はこれでも人を見る目はあると思っているんだがね。貴殿には、人を引き付けて離さない不思議な魅力がある。貴殿が娘の家に入り手助けをしてくれたら娘の商売もますます栄えると、私は考えているのだが。それに、娘は貴殿のを好いておる」
「……!……」
女の父親の言葉に、風漢は動揺した。
「それは間違いない。私はね、娘の笑顔が見れるならどんな事も厭わないんだ」
房室は静寂を保っている。立ち上る酒の香りが風漢の心を柔らかく包み込む。ほの明るい炎の光が風漢の酒をきらきら輝かせて、さらに魅惑的に見せる。風漢は手にしていた残りの酒を一気に空にした。それを見計らって女の父親は
「おかしいだろう?」
そう言って、空になった風漢の杯になみなみと酒を注ぐ。
(女が自分を好いている)
その言葉を聞いた風漢の心は、言い様もない甘美な感情と、信じられないいった驚きの気持ちが交錯した。同時にある想いが頭をもたげていく。
(このまま俺は過去の事を思い出さないのかも知れない。ならばいっそ全く新しい環境で暮らしていくのも、悪くないのではないだろうか?俺も女と離れたくないと思っている。これは恋なのかも知れぬ。女の父親の申し出は願ってもない事ではないのか)
「明日、貴殿に戸籍を用意しようと思う。……一緒について来てくれるね」
女の父親の声は、静かで重みのある響きだった。
風漢は無言で頷いた。
その様子を確認し女の父親はほっとした表情を見せると、自身の杯をぐいっと飲み干した。
次の日、風漢と女の父親は左頬にほくろのある男と会った。男は風漢の顔をじろりと見る。そして「ついて来い」と低く小さく二人に告げると、芝草の街を歩き出した。細い路地をくねくね曲がっていく。そしてある建物の前で止まった。男は先に入り、中の者となにやら話をすると、二人を建物の中に招き入れた。三人は地下へ入っていく。昼だというのに、薄暗い部屋。天井が小さいと、こんなにも薄暗くなるものかと風漢は思った。
「ここで待っていろ」
男はそう告げると、奥の間に消えて行ってしまった。ちりっ、ちりっ、と蝋燭の炎が燃える音がする。普段は気にもならぬが今日は殊更耳につく。風漢と女の父親は、じんわりと額に汗がにじむのを感じた。それでもお互いに何か話すわけでもなく、時間は悪戯に過ぎていく。
そうしてどれだけの時を待っただろうか。闇の中から声が聞こえてきた。
「戸籍が欲しいと言うのはどちらだ?」
「はっ、はい。こちらの若い者でございます。娘と一緒にさせてやりたいが、それには戸籍が必要で」
女の父親が、緊張した声で話す。
「使い道など、聞いてはおらぬわ。で、うぬらは、如何したら望みが叶うか知っておるのか?」
「大体の事は……。ただ、どれくらいご用意すれば宜しいのでしょう」
すると先程の左頬にほくろのある男が、何か書いてある紙を女の父親に手渡した。父親はそれを見て一瞬声を失ったが、すぐ元の表情に戻ると、
「かしこまりました」
一言そう告げた。
「受け渡し等は後で聞くがよい。……では私はこれにて失礼する。ご苦労だった」
その後、声の主の気配が無くなった。そうしてあの男が、左頬を掻きながら近づいて来た。
「受け渡しは二日後、あの場所でいつもの時間だ。金銭もそこで払って貰う。用意出来るな」
「必ずご用意致しますので、どうぞ宜しくお願い致します」
女の父親は、床に突っ伏してそう告げる。
風漢も女の父親に習い床に突っ伏す。そして一連の出来事を、ぼうっと考えていた。いつの世も隙間を埋めるような生業はあるものである。どんなに清廉潔白な世の中を作ろうとも、こういったものと折り合いをつけていかなければならぬのか?
(これにどこまで目をつぶるか、そこが問題だ)
と考え、風漢は可笑しくなった。
(そんな事、俺が考えあぐねる問題じゃないじゃないか。何を偉そうな事を、俺は)
二日後、約束どおり女の父親は風漢の戸籍を買い取った。風漢は晴れて女と婚姻が出来る用意が整ったのである。