素晴らしきかな人生 二話
風漢は正面にある玉を眺めていた。玉から放たれる光を見ていると少し心が休まる気がした。不思議な事に、右足の怪我も、頭の傷も、数日後にはすっかりよくなってしまっていた。しかし、これまでの自分の事を思い出そうとすると、頭が拒否反応を示し、一切の思考が停止する。風漢をここまで運んでくれたという女は、日に何度となく彼の所へやって来ては退屈させない様にといろいろ世話を焼いてくれる。独りになるととても不安になるので、女のそういう行動は有難い。
「ねぇ、風漢。あなたって不思議よね。怪我がもう治っちゃった。よほど丈夫な人なのね」
「さぁどうだかな。頭の中身も治して貰いたいものだがな」
「……ほんと、あなたっていちいち癇に触る事を言うのよね」
「そうかぁ?お前と会った時、俺は何か言ったのか?」
女は言おうとして、しかし止めてしまった。ぬかるみに車輪がはまったあの時、風漢が来なければ女は使用人らに任せっきりにして高みの見物を決め込んだ。それを風漢に指摘された時、女は身体中が恥ずかしさで熱くなった。風漢の言う事は認めたくないが本当だ。女はそんな事も気付かなかったのかと、自身の考えの無さに情けない気持ちになったものだ。
(悔しいから言ってあげない)
女はこう思うと
「あなたはねぇ、私に向かって『俺に惚れたか?』って聞いたのよ」
と、わざと口を膨らませて言ってみた。
「ほう、そんな事言ったのか。で、本当の所俺に惚れたか?」
風漢は面白そうに笑う。
「馬鹿言わないでよ。何者か分からない人なんか惚れ様子がないでしょ」
瞬間、風漢の表情が一気に曇る。
「……そう、だな。自分が何者かさえも分からない。情けないな俺は」
女は慌てて取り繕う。
「あっ、違う。そういう事じゃなくて。あなたの事は、おいおい、ゆっくり分かっていけばいいんだから。ここは私の家だけど、両親もよくなるまでずっと居て貰っていいって言ってるんだから」
「本当に、悪いな」
そう言って風漢は、又玉を見つめていた。
(あーもう、どうして励まそうとして、かえって落ち込ませているのよ)
女は自分の至らなさに地団駄を踏んだ。持ってきた花を花瓶に生け卓子に置きながらそっと風漢を盗み見る。目の前の男は年の頃は二十代後半といった所なのだろうか?いや、ひょっとするともっと若いのかも知れない。出会った時、来ていた服は地味な柄だったが、布自体手が込んでいて高価な物だった。それを自然に着こなしてしまえる風格の持ち主。引き締まった身体と薄く日焼けした肌。人好きする顔であり、さらに一瞬で記憶に残って離さない、不思議な魅力のある表情。
―俺に惚れたか?―
瞬間、そう言った風漢の不適な笑顔を思い出し女は胸がドキドキした。
「違うわよ。今までにいない感じの人だから……そのう……珍しいだけよ。 えぇ、きっとそうだわ」
女は誰に言うともなくぶつぶつ呟いた。
風漢はまだ、一切の感情を殺し正面を見つめるのみだった。
風漢の怪我はすっかりよくなった。だが相変わらず自分の身の上になると脳が活動を停止する様である。しかしそれ以外の事は覚えている様で、日常生活に困る事はさしてなかった。居候だけでは申し訳ないと、風漢は他の使用人達と同じ様に庭をはいたり厩舎を掃除したり、雑用をする事になる。
ある日、
「旦那様、風漢様のお召し物でございますが、いかが致しましょうか?」
そう言って、使用人が風漢の衣装の一式を持ってきた。ぬかるみを滑り落ちたので衣装はぼろぼろである。
「有難う。預かっておくわね」
衣装を受け取る女。すると袂から旌券が落ちた。それは所々土や血が付いていて字の所が読み難くなっている。
「これって旌券よね。えーと、なんて書いてあるのかしら? え、ん、しゅう、こ、く……って、風漢は雁州国の人なのかしら?」
そう言った瞬間、女は心がざわつくのを感じた。
(風漢はいかにも高そうな奇獣を連れていたわ。それにこの服、とてもじゃないけど、普通の人は着れないわよ。彼はきっと雁国でも有名な家の者よ。という事は、相手は風漢を探している)
―風漢がいなくなる―
女は胸が締め付けられる思いがした。
(何故?風漢が何者であるか分かる事はいい事ではなかったか? なのに自分は今この状態がいいと思っている)
(私は一体何をしているのだろう)
女は旌券を書棚の隅にしまいこんだ。そうせずにはいられなかった。どうしてだかこれが見つかってはいけないと、女は思ってしまった。女は自分の心に住み着いた気持ちを、持て余し始めていた。
「なぁ、俺が着ていた衣装なんだけど」
同時期に風漢が女の房室にやってきた。女は慌てて風漢に近付き
「あぁ、今、預かったわ。これがなにか?」
と早口で聞き返した。
風漢は衣装を受け取ると、なにやらごそごそ探し出した。
「旌券があるかもと思ったのだが。やはり事故の時落としたか。俺の事が少しはわかるかもと思ったのだが」
風漢は少し落胆した様だった。
女の意識は書棚の方に集まり、そんな風漢の表情も読み取れぬほど動揺した。
「……そう、残念だったわね。そのうちきっと何か分かるわよ」
女はお決まりの台詞を並べ、
「夕餉の時刻だわ。風漢、一緒に行きましょ」
そう言って風漢を連れ出し房室を後にした。
(風漢、もう少しだけこのままでいる事を……許して)
ある晴天の日。風漢は自分の奇獣の手入れをしていた。馬子の一人が、風漢に話し掛けた。
「風漢さんよぉ。俺は旦那様のお父上の家からここで世話になっているが、こんな見事な奇獣は見たことないぜ。これ『趨虞』って言うんだろ」
「あぁそうらしいな。なんでこんなもの俺が乗ってるんだろうな。ひょっとして俺はさぁ盗人なのかもな」
風漢は自嘲気味に笑う。
「げっ盗人かぁ。そりゃ冗談きついぜ風漢さん。でも、俺はあんたがそんな下郎だとは思えねえな。あんたが趨虞を手入れしている時の目。とてもじゃねぇが悪さをする奴には見えねぇよ。それに旦那様を助けたんだ。きっと立派な人だろうよ」
馬子は明るく笑う。
「旦那様はそりゃぁ聡いお人さ。俺はこの家に働く事が出来て幸せだ。時々思うよ。使われる奴より使う奴の方がよっぽど神経を使うんじゃねぇかって」
「ほう。何故そう思う?」
「よく分からねぇけどよ。俺達は言われた通り動けば、寝るとこも用意されているし御まんまも食わしてもらえる。でもさ、それを捻り出すのは本当は大変な事なんだ。抱えている人間全員の安心を、旦那様はあの若さで背負っておられる。全くたいしたお人だよ」
風漢は馬子の話をじっと聞いていた。
―抱えている人間全員の安心を背負っている―
(どうも心に引っかかる言葉だ。俺は以前、なにかそういった事をしていたのだろうか?)
考えると頭が又痛くなる。風漢は額に手を置き痛みが治まるのを待った。
「おいおい大丈夫かぁ。俺が無駄話ばかりしたからいけなかったのかも。もうここはいいよ。趨虞もあとは俺が綺麗にしておいてやる。すまんなぁ、喋り過ぎて……」
馬子はおろおろしながらそう言った。
「いや、こちらこそ悪かった。あんたの話は面白かったよ。こんないい使用人がいるあいつは果報者だな」
そう言って、風漢は「後は頼む」と言い残し厩舎を出て行った。
女の房室を通り過ぎ様とすると、榻に横たわっている女を見かけた。敷布にくるまっていたのだろうか。それはするりと床に落ちてしまっている。
「こんな所でうたた寝は、風邪を引くだろう?」
風漢は女に敷布をかけてやろうと近付いて行った。女は風漢が入ってきた事など気付かずにぐっすり眠っている。女は若くして自分の店を切り盛りしている。はたから見れば羨まれる華やかな世界に見えるのだろう。しかし実際は、いろいろなところに目を行き届かせ常に気の張った生活をしている。あの馬子の言う様に、この小さな肩に抱えている全員の安心を背負っている。
風漢は女を改めて見つめた。暗緑色の髪が少し顔にかかっていて女の顔がよく見えない。知らず風漢は、女の髪をはらってやった。暗緑色の絹糸から解放された女の肌は、ぬけるほど白い陶器の様だった。たっぷりと潤いの含んだ、手に吸い付かんばかりの肌。その唇は可憐で鮮やかな桃色。女からは女性特有の甘い香りが漂う。
(酔いそうだ……)
風漢の心に、ちりっちりっとある感情が燻り出す。
(……触れたい)
風漢は細心の注意を払って、己の指先を女の唇にあてがった。すると女が一瞬緊張した顔を見せるので、風漢は一気に現実に引き戻された。
「何をしているんだろうな、俺は」
女が気付くかなくてよかったと思う。
「お前が目覚めた時、俺はどんな顔をしている?」
想像して笑えた。
(こいつは自分を助けてくれた者なのだ。感謝こそすれ、それ以上でもそれ以下でもない。俺は自分が誰なのかも分からない。そんな男こいつが受け入れるとは思えない)
風漢は静かに女の房室を出て行った。
それを見計らって女の瞳がゆっくりと開かれた。
「……どうしよう」
女は自分が抱えているある感情が急速に膨らんでいる事に少し戸惑いを感じていた。
(これ以上関わるのはよそう。想えば別れがきっと辛くなる。そう決めた筈なのに)
「あんな事されたんじゃ……かなわないわ」
女はゆっくり起き上がると胸の袂をぎゅっと掴みなるべく早く心を落ち着けようとした。
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2004.5.初稿
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