素晴らしきかな人生 一話
目覚めると男は、暖かい衾褥の中だった。
ここは地下なのだろうか?しかし上の方から気持ちのいい日差しが差し込んでいる。
この家の使用人らしき者が
「お目覚めでございますか?」
と、男に声をかけると、湯冷ましを差し出した。そして
「只今、家公を呼んで参ります」
そう言うと客房を出て行った。
男は起き上がろうとして、右足に怪我をしている事を知った。
「どうして俺は怪我をしているんだ」
男は不安になった。
(ここは何処なんだ?なぜ俺はここにいる?それより俺は一体何者なんだ?)
「風漢、入っていいかしら?」
声を掛けられ、男が入り口を見ると、女が立っていた。
女は育ちがいいのであろう。たっぷりと豊かな暗緑色と呼ばれる深く暗い緑色の髪を、乱れる事無く結い上げ、服装も簡略ながら、一枚一枚仕立てのよい物を着こなしていた。
女は、暖かい湯気の立ち上る湯菜を持っていた。
「目覚めた様でほっとしたわ。風漢ったらあれから二日間、目を開かないから、どうしようかと思って。でも、思ったより元気そうね。さぁ、食べられるだけでいいから食事をして頂戴。あなたには感謝してもしきれない位なんだから」
女は明るく話をすると、卓子の上に食事を置く。それをぼーと見つめる男。
「どうしたのよ。少しでも食べなさいよ」
「……俺は、風漢という名前なのか?」
「何言ってるの。前にそう言っていたじゃない。冗談にしては面白くないわよ」
「風漢……。俺は確かに、そう言ったんだな。で、俺はどこの生まれなんだ?」
「ちょっと、ちょっと、それは私が聞きたいわよ。あなたがよくなるまでこちらで預かると連絡しようとしてるんだから。……えっ、待って。まさか、あなた」
女が驚いて男をまじまじ見ると、男は、頭を抱えながらうめいている。
「どうしましょう。私の、私のせいで」
女はすぐに瘍医を呼ぶ様使用人に伝えた。
「無理に思い出そうとすると、かえって頭に負担がかかります。ここはゆっくり静養して、思い出しになるきっかけを待つ事です。焦りは禁物ですぞ」
瘍医はそう言い残していった。
風漢は臥牀の上で、正面にある巨大な玉を見続けていた。その玉は、天井という部屋の明り取りの穴からの光を反射して、きらきらと輝きを放っている。風漢の玉を見つめる表情は、感情をすべて殺してしまったかの様だった。
女は風漢のその様子を見て、胸が締め付けられる思いで小さく呟いた。
「あそこで会わなければよかったのかしら」
その日女は、使用人らを数名連れて、仕入れに行く所だった。
柳北国は雨の少ない国である。首都芝草は、いつも空っ風が吹き荒ぶ。しかし、今年は近年まれに見る異常気象。昨晩は記録的な大雨だった。そして今日は、昨日とはうって変わって、秋だというのにじりじりと日差しの強い晴天である。
小高い丘の一本道を、一行を乗せた馬車は進む。この道、普段はさほど使いづらくもないのだが、昨晩降った大雨で、道はぬかるみ、一行の足をゆっくりにさせていた。
「こりゃあ、なかなか注意しないと足元を掬われるぞ」
馬車を運転している使用人が呟く。
女は景色を眺めながら、重苦しい溜息を吐く。彼女はこの所悩んでいた。
女は柳国の玉泉のある県で生まれた。彼女の父親は、玉泉の管理を任せられている責任者である。穏やかな表情の、人の使い方をよく知っている男性だ。
幼い頃から、女は聡い子だった。彼女の母親が玉そのものに興味があるのに対し、女は玉泉から出来上がった巨大な玉が、いかにして世に広まるかという事に、関心を傾けていった。そんな女を父親は可愛がり、女が好きそうな経済、特に流通に関する書籍は惜しげもなく与えてやった。女も貪る様に読み、我流ながら学んでいく。そして成人する頃には、女は玉の流通について知り尽くし、それを基盤に新しい流通経路を開拓した。そして数年後には、莫大な財を築いてしまったのである。だから、女は若いながら、家公として、使用人を使うほどの商人だった。
人は女の事を「才色兼備とは、まさしくこの事」と、持てはやした。しかし女は流通の知識は他の追従を許さないくらい詳しいが、他の事には疎い様で、人生の楽しみと言うものを知らないと思う。事、恋に関しては全くと言っていいほど、経験していない。女の悩みは目下それだった。
「こう仕事仕事ばかりじゃあ、私の人生寂し過ぎるわよね」
女が溜息を零すと、急にガタンと馬車が上下に揺れ、以降ぴたりと動かなくなってしまった。
「申し訳ございません、旦那様。どうやらぬかるみに落ちた様で」
馬車を動かしていた使用人が、女にそう伝える。
「まぁ、それは大変な事ね。すぐ進めそうかしら?」
仕方なく女は馬車から離れ、日陰の大きな岩の上に腰掛けた。そして、事が済むのを待つ事にする。
「全く、なんだか今日はついていない日よね」
「そう、ごちる前に、一緒に手伝ってやったらどうだ」
不意に背後から声をかけられ、女はびくっと肩を振るわせた。振り向くと、いかにも高価そうな騎獣を連れた、身なりの良い男が立っていた。
「何なのよ、あなた」
女は心の動揺を悟られない様にする為、強い口調で男に問う。男はくつりと含み笑いをすると、女に話し出した。
「いえね、困っている団体がいるなと思い降りてみたのだが。大勢の者が力を合わせておるのに、主人らしき者が事態をわかってない様だからな。少し気になって」
「……」
「急がなければ夜が更けてしまう。ここも夜は物騒だ。如何にかしないと野宿になるかも知れないのに、この事態をどうするか考えもしないで、ぼやくだけなら、子供でも出来ると思うのだが」
「……やるわよ。今、流石にまずいと思って手伝おうとしていたのよ」
女は、顔を真っ赤にしながら、急いで馬車の所に行くと、車輪を持ち上げる手伝いをした。
「あっ、旦那様。お手が汚れます。どうぞ、お止め下さいませ」
使用人の一人が慌てて止めようとしたが、先程の男がその言葉を遮る。
「今は主人だ、使用人だ、と言っている場合ではない。皆で力を合わせて乗り切ろうと、お前達のご主人様が仰せだ。俺はその言葉にいたく感動した。はからずも手助けをしてやりたいのだが」
「あぁ、旦那様」
「なんと有難い事を」
使用人らが次々に感嘆の言葉を発する。
(私はそんな事考えていなかった)
女はさらに顔が赤くなっていくのを感じた。そして、隣で一緒に車輪を持ち上げ様としている男の顔を、ねめつけた。
「あなた、なんて名前なの?」
「ん?俺か?風漢と言う。……なんだ、俺に惚れたのか?」
ニヤリと不適な笑みを浮かべる男。
「馬鹿!何を言い出すのよ」
女は仰け反り、一瞬力が入らなくなった。
「おいおい、もっと真剣にやれよ」
風漢と名乗る男と女はこうして出会ったのである。
ガタンッという大きな衝撃音とともに、馬車の車輪はぬかるみから抜け出る事が出来た。女の手足や衣服は既にドロドロだったが、女は不思議な達成感を感じていた。
「あぁ良かった。これで夜が耽る前に市井にとりあえず行く事が出来る。予定は遅れるがしょうがない。ここも夜は物騒だ。野宿にならずに済んで良かった。どうも有り難うございました」
使用人の一人がそう言って、風漢に深くお辞儀をした。
(彼と同じ事を言っているわ。やはり皆それが心配だったのね)
女は目の前で笑う男に感心してしまった。しかし、使用人が深く頭を下げているのに、自分がぼーっと突っ立っている事が、大変恥ずかしい事に気付くと、慌てて礼を述べようとする。
「本当にこの度はありが、とう…」
そう言おうとして、女の身体がグラリと揺れた。
女は滅多な事では外に出ない。外出するにしても、必ず日除けがある所にする。その女が、この日差しの強い中数時間も外に出て使用人らと車輪を持ち上げていた。慣れぬ事をした女は、軽い眩暈を起こした様である。
「あっ!」
「危ない旦那様!」
女は道から踏み外しそうになる。ここは小高い丘の一本道。足を滑らせれば、大事故になりかねない。
瞬間、風漢のたくましい腕が、女の腕をしっかり掴んだ。だがそれも間に合わず、女は足を滑らせる。そして、風漢を引きずる様にして、二人は道から踏み外してしまった。
ズザザザザザッ
二人が滑り落ちる大きな音。残された者達は悲鳴をあげた。
一瞬、何が起こったか分からなかった。ただ、暖かい腕にしっかり包まれているのだけは分かった。
(私一体どうしたというの?)
そっと腕から離れようとすると、風漢が苦痛にゆがんだ顔で倒れているのが分かった。
「ちょっと、あなた、あなた。大丈夫なの?しっかりして」
大きな声で叫ぶが、風漢には聞こえていない様である。ただ風漢の腕の中に女はしっかり抱かれていて、動こうにも動けない。
「誰かぁ。誰か、今すぐ来てぇ!」
女は必死に助けを求めた。
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2004.5.初稿
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