翌日尚隆は彼の趨虞に乗り、雁州国は関弓、玄英宮へと旅立って行った。
出かける前、尚隆は女の頬を自身の両手に挟むと明るく話をした。
「心配するな。なんだか知らないが、あいつらの手助けをしてやるだけだ。その後の事は、又考えるさ。……お前の事は、誰よりも大切に思っている。それを信じて待っていてくれ」
「ええ」
女はにっこり笑うと、尚隆の首筋に両腕を絡ませた。そして少し背伸びをした状態で尚隆の頬に口付ける。
「待っているわ」
尚隆を送り出した後、女はその足で里木へと向かった。二人が願って実をつけた卵果を無表情でじっと眺めている。
(どのような結果が来ようとも、私は覚悟を決めなければならない。それがあの人を愛してしまった私の定めなのだから)
玄英宮へ戻ってからの尚隆は、正寝に入ったきり連日郊祀の手順について頭に叩き込まれていた。
尚隆が記憶障害であるという事は、ごく一部の官吏のみが知る事であった。この事実はなんとしても隠さなければならない。これが露見すれば、悪戯に民を不安がらせる事になる。
「尚隆様、あなたには大変申し訳ないのですが、限られた日数で手順はきっちり覚えて頂きます」
膨大な量の資料をどさりと尚隆の目の前に置き朱衡はこう話す。
「で、俺は、それはそれは、偉そうに振舞えばいいのだな?……なんだか楽しそうだなぁ、おい」
尚隆はニヤリと笑う。その様子を見て朱衡は
「さようでございますね。めいいっぱい踏ん反り返って下さい。その為にも
そう言うと朱衡は、大宗伯に郊祀の手順を説明させる。
「何度も申し上げますが、尚隆様の事はくれぐれも内密に。今年の郊祀の行方はあなたにかかっていると言っても過言ではございません。共に郊祀を成功させましょうぞ」
朱衡は大宗伯に深く深く礼をとり、自分は扉に向かって行った。
「この状況を面白がるとは。……記憶を無くされても、尚隆様は尚隆様、か」
そう小さく呟き、ふっと表情を和らげた。
数刻後
「おーい何とかなりそうかぁ」
果物をごしごし衣服で拭きながら、六太が尚隆の元へやってきた。
「うーん、そうだな。あいつ、なんて言ったっけか、大宗伯か。俺が前にここにいた時と今があんまり変わらねぇんだと。それを理由にかどうかは分からないが、説明を大雑把に話し過ぎる。何がどうなのかさっぱり分からないから疲れる疲れる。あぁ、思い出せねぇと言った方がいいのか。もう少し、万人に分かる様な説明にしてくれないかな」
尚隆は大宗伯との連日のやり取りで、相当苛立っている。頬杖をつき、ふんっとふてくされていた。
「はっはっはっ。確かにお前、以前と変わらず偉そうだもんなぁ。記憶障害だからもう少し奥ゆかしいかと思った」
六太は面白そうに笑いながら、持っていた果物を尚隆に投げて渡す。尚隆はそれを受け取ると、おもむろにかじり、果物の爽やかな甘味を堪能する。そしてふっと真顔になると、六太に質問をした。
「聞いてもいいだろうか?俺には以前子がいたのか?」
六太が果物をほおばる手を止める。そして明らかに返答に困った寂しげな表情になる。
「……いた、と言えば、いたんだろうな……」
「しかし殺された」
尚隆の思いがけない一言に、六太の背筋にひやりとした冷たいものが走った。
「お前、思い出しているのか?」
「いや。実際には……よく、分からない。……夢で見た。しかしあまりにも異世界の様な夢だったぞ。だから今でもすべてが幻に思える」
六太は迷った。この事はあまり尚隆には思い出させたくない事実の様に思う。しかし確かめるには十分過ぎる事実だ。あの事は尚隆と六太ぐらいしか知らない。
「尚隆。お前、その子が本当は誰の子か知っているか?」
とうとう六太は迷っていた事を口にする。すると尚隆はいともあっさり答えた。
「あぁ。親父と俺の妻の子だろ」
(やはり……)
六太は目を瞑り天を仰いだ。尚隆は戸惑いを感じながら、何時までも心に残っていた事を六太にぶつける。
「……あのさぁ、俺が見ていたという夢は、やはり本当に俺の過去なのか?もしそうなら、あの違和感のあり過ぎる世界観はどう説明出来るんだ?」
六太は深呼吸をすると窓の外を眺めながら話し出した。
「違和感があって当然さ。お前はここにくる前、蓬莱にいたんだから」
蓬莱――東の果てにあるという、別世界。
伝説の世界かとも思えるが、実際海客という者も流れ着く話だから全く存在しないという事はないのだろう。
「……俺は海客なのか?」
「いや違う。王はその国に生まれし者しかなれねぇ。お前の様な奴は胎果と呼ばれる。胎果は蝕によって流された卵果が、あちらで女の腹にたどり着く。そして父母によく似た肉の殻をかぶり、母親の胎内から生れ落ちる」
「蓬莱では子は女の腹になるのか……」
尚隆は夢で見た自分の妻らしき者が、腹を庇い必死に縋る様子を思い出した。おそらくあの中に子がいたのだろう。
「『なる』は、少し意味合いが違うけどな」
六太は乾いた笑みを浮かべ、尚隆の様子を窺う。尚隆が「それで?」と六太に目配せをするので、六太は握っていた果物を卓子に置くとぽつりぽつりと話し出した。
「元々お前はこちらで生まれるべき人間だった。しかし何の因果か蓬莱に流された。そして蓬莱人として生活した。しかしお前は俺によって又こちらへ帰ってきた。お前に雁州国を任せる為に」
尚隆は大きく息を吐き出すと、資料が山積みにされている書卓に肘をつき、手を組んで、そこに自身の顎を軽く乗せた。
「俺は、胎果で六太、お前によってこの国に連れ戻されたんだな。これで少しは納得した様に思う。つまりあの夢は、記憶の断片だった。そうすると、今までいろいろ妙な考えをめぐらせていた事も、すべては記憶の断片と言えるのだろうか?もしうなら、やはり俺は、皆の言う通り……王、なのかも、知れないな……」
尚隆は目を伏せ、ぼそりと呟いた。その声に力はない。
六太は切なくなった。
(尚隆は今、無理矢理理解し、ただ周囲の言うまま流されるままにしている。だが、お前自身はどうなんだ?あの時、瀬戸内の海で、俺はお前に『国が欲しいか』と問うた。お前は自身の真理に従い『欲しい』と答えた。思い出してくれ尚隆。お前は自身も認める一国の主としてしか生きられぬ者なんだ)
尚隆の記憶が完全に戻らぬまま時だけが刻々と過ぎ、郊祀当日はもう目の前であった。
郊祀が近くなるにつれ、国都の郊外であるこの地はそれまでの静けさが嘘の様に活き活きとする。雁州国は他国に比べ活気に満ち溢れているとは言っても、やはり郊外ともなると関弓との差はおのずと歴然としてくる。この州も普段は地道に農業をして生計を立てている。どこまでも続く田園風景。そこに派手さはない。それにこの国は冬になると、戴極国から乾ききった震撼する様な冷気の
しかしここは、厳しくなるこの時期こそが、人の往来も多くなり一気に華やぐのだった。
露店を出す為の準備が着々と進み、普段は小さく荒れた広場も今時期は簡易式の見世物小屋が出来つつある。人々は、しんしんと冷える寒さに、衣服の袂をしっかりつめて会う人会う人に
「寒くなりましたねぇ」と口癖の様に挨拶しているが、その表情はどこか明るい。
この地には霊台と呼ばれる広い小高い丘がある。そこは清浄な領域で普段人は立ち入る事が出来ない。そして当日には、更に、神聖な場所を示す幡が立つ。
霊台の中央には天心石と呼ばれている、綺麗に磨かれた石がはめ込まれている。王はその上に立ち、天に向かい国の鎮護を願うのだった。
郊祀を行う当日。雁州国は分厚い雲のはった幾分肌寒い日となった。豪奢な衣服を身に纏った尚隆は、周りが息を呑むほど威厳に満ちた男王であった。眩いばかりに輝く太陽の様な存在。その傍にいるだけで、六太は何か暖かいものを感じ取っていた。
「あぁ、やっぱり尚隆だぁ」
―お前は俺の主、俺の半身―
尚隆は、ぼーっと見つめる六太をちらりと横目で見る。そして不敵な笑みを浮かべ一言
「さぁ、行こうか」
と、第一歩を踏み出した。
王宮から霊台までの道のりを王が進む神興行列が、民にとっては最大の催し事である。群衆が、一目、国を治める神の様な存在を見ようと――いや気配だけでも肌に感じ明日への活力にしようと、王が鎮座する
天に向かい、銅鑼の音が響き渡る。
大勢の楽隊が隊列を組み、それは乱れぬ事無く華やかに盛大に、祀りの始まりを盛り上げた。
王宮内では、あまたの官吏が尚隆に平伏す。尚隆と六太はその間をゆっくりと歩いていた。
尚隆はこの様子を、どこか遠い出来事に感じていた。自分の心だけが置いていかれ、ふわふわとした状態。それでも連日言われた通り、落ち着き払った顔で臆する事無く真っ直ぐ前を見て歩いていく。
尚隆達が屋外へ出る前に、もう一度銅鑼の音がなる。そして壇上に黒の豪奢な礼服に身を包んだ尚隆と六太が現れると、群衆はどよめきと共に感嘆の声をあげた。
王の華軒が霊台に来るまでの間、霊台近くの露店は忙しい。
「おい、小豆粥をおくれ。うんと熱いやつ」
「あいよ。今年も寒いからねぇ」
この地方では、冬至に小豆を用いた粥を食べるのが何時の頃からの慣わしになった。小豆の赤い色を、火・太陽の色見立て、そこに霊力を感じ、病除けの
「さぁ、もうすぐ延王がお通りなさるからね。ここはお前に頼んで、あたしは往来で延王を拝んでくるよ」
小豆粥を売っていた女性店主が、そそくさと身支度を整え始めた。
「なぁ、かぁちゃん。王の乗っている華軒を見るくらいで何をそんなに大騒ぎするんだよ」
留守を預かる事になった店主の息子が、客が去った後の食器を片づけながらぼやいていた。すると、ぼかっと店主から頭を小突かれる。
「いってぇ〜」
「ばかっ、この子は。延王あっての雁州国じゃないか。知ってるかい?延王は、臣下に崇敬を寄せられ人望も篤いそうだよ。智徳に優れた傑物だってさ。あたしらは、延王が天に願い、用意して下さったその恩恵のお陰で、こうして安心して暮らせるのさ」
店主は興奮して息子に、延王がいかに素晴らしいかをとうとうと説いた。多少誇張されているのは、現大司寇が用意した噂である。民が王に不安を持たせない為には、この位が丁度いい。
「慶なんかは、まだなかなか落ち着かないそうだよ。命辛々逃げてきた人を見るとあたしはつくづく雁州国民で良かったと思うんだ。……あぁ、もう。店は一時お仕舞いだよ。あんたもついておいで。しっかりとその目で見て感謝をおし」
「さっ、早く」と急かす店主に、息子は「ちぇっ」と舌打ちをしながら従っていった。
尚隆はなんとも不思議な気持ちで、華軒に揺られていた。隙間から見える民は、みな一応に自分に対して惜しみない賛美と期待に満ちた表情をしている。
―この方について行けば安心だと―
それが尚隆には恐ろしかった。
(お前達は、俺に……王に何を期待している?)
「―郊祀は民の為に、国が平安である事を天に願うと言ったものですが。……そうですね、400年近く太平でいる昨今では、王が威厳を誇示する意味合いの方が強いでしょう。民は、はっきりとした確証がほしいのです。延王その人が国の為に何かをしているという確証が。それで民は安心する。明日への希望を抱いていられる。どうか尚隆様、そのお姿で、民に安心と希望をお与え下さいませ」
前日、尚隆が浮かない顔をしていたのを心配して朱衡がそう言ってくれた事を思い出した。
―抱えている人間全員の安心を背負っている―
前に女の厩舎で話してくれた馬子の言葉が、今更ながら耳につく。それが今の己の状況と重なり、尚隆を苛立たせた。
(記憶を無くし、迷いつつ、ただ言われるままに、事が過ぎればそれでよいと思っている俺は、民の安心を背負えるだけの器になりきれない。そんな俺が、天に何を願うのだ)
尚隆を連れ戻した者達は言った。
「あなたは間違いなくこの国の王である」と。
しかし、記憶を無くし迷いの中にいる尚隆には、それを完全に受け止めるのがひどく恐ろしかった。思い出そうとすればするほど、頭を鈍器で殴られた様な鈍い痛みが、尚隆の頭を苦しめた。
(俺は何がしたい。過去に俺はこの国を如何したいと言ったのだ)