聞いていた女は、きょとんとしてしまった。六太が何を言っているのか想像がつかない。女の表情を見て、六太は慌てて付け足した。
「ああ。何の事だか分からねえよな。……俺とあいつは雁州国に来る前は、蓬莱に流されていて、そこで生きていたんだ。もう400年くらい前になる……」
「400年……」
途方もない年月だ。改めて女とは違う次元をこの二人は歩いていた事を思い知らされる。
「あの頃の蓬莱は、夢の国でもなんでもなかった。ここじゃあ、信じれないかもしれないけどな。国同士が武力を持って他国を干渉し、勝った国が、負けた国を支配する事が出来る。そんな碌でもない世界だった」
女はじっと六太の話に耳を傾けていた。所々理解しにくい部分もあるのだが、女の聡明さがその辺りを手助けし、想像でなんとか話をよむ事が出来た。何より、尚隆の過去の話である。聞けば、尚隆の何かに近付ける気がする。そんな思いからか、女は次第に六太の話にのめり込んでいった。
「尚隆は、蓬莱の、ある国の国主だった。まぁ、あちらでも奴は王様家業をしていたって訳さ。尚隆は風変りな国主でな。でも俺にして見れば国民の事をちょっとは考えている国主だったよ。……他の奴が酷いからな。そう見えただけ、かも、な」
自嘲気味に笑い、軽く尚隆を毒づいている六太だが、それは大事そうに話しているのが女にも分かった。
「国主ってのは見た目には下々にちやほやされてはいるけれど、実際は一人ぼっちさ。あいつは、そんな事、意に介さない風を装っていたけどな。俺にはなんとなく分かった。あいつは穏やかな家族が欲しかった」
「……作らなかったの?……家族……」
知らない方がいい問いかけだと思った。だが、女は聞かずにはおれなかった。六太は、一瞬躊躇するしぐさを見せたが、暫くすると小さく呟いた。
「いたよ。妻も、子もいた」
その答えがきても、覚悟はしているつもりだった。長い年月を尚隆は生きて来た。女が初めての夫婦ではなくても、仕方がない。しかし、女の心はちくりと軋む。それを察してか否か、女には分かる筈もないが六太は次の言葉を発した。
「だが、無理やりに押し進められた婚姻だったそうだ。相手の女はな、それがどうしても耐えられず、尚隆に己の身体を指一本触れさせなかった。あいつは、妻がいながら家族がいる安心感も喜びも知らなかった」
女は、息をのんだ。周りに人が沢山いるのに、尚隆は孤独だった。伴侶として信頼して欲しい妻でさえ、尚隆を拒否した。その孤独感はいかばかりなのだろう。
「でも、待って。あの人は、妻に指一本身体には触れなかったのよね?こちらと蓬莱はいくら世界が違うと言っても、夫婦の営みの無い所に、天は子を与えないでしょう?妻の連れ子でもなさそうだし。なんで、二人に子がいる事になるのかしら?」
女は不思議に思った事を何の気なしに六太に尋ねてみた。六太は目を伏せると、更に衝撃的な事実を述べた。
「子の父親は、尚隆の親父だったんだ。妻は尚隆の親父に陵辱された。蓬莱ではな。夫婦じゃなくとも、天に子を願わなくとも……その……そういう行為をしてしまえば、子が授かる事がある。妻は結局、自分の意思で、自分が愛する男に抱かれる事はなかった。そして妻は意に添わないのに結果的に尚隆を裏切る形となった。辱められ、自尊心もぼろぼろにされ……妻も可愛そうな人かも、な。……そこから先は詳しくは知らねぇが。尚隆はそれでも、妻や親父の裏切りも丸ごと受け入れ、子供を自分の子として育てようと決めたらしい」
「……」
「でもな。ぜーんぶ、無くなってしまった。戦いに敗れ、尚隆の治めていた国は壊滅しちまった。その時、妻も子も死んだ。結局あいつは一人きりになってしまったんだ」
女は、六太の話に言葉もなかった。尚隆は何と奇妙な悲しい経験をしたのか。
―寄り添ってやりたい―
そう女の心は叫んでいるのに、一方で押さえ込もうとするもう一つの女の心がある。知らず、女の目から涙が零れた。六太はそれを見ると、はっとした表情を見せた。
「ごめん。こんな事まで話したって悪戯にあんたを困らせるだけなのに。あんたはあんたの道を歩むと決めたのに。お、俺、馬鹿だな。でも俺は尚隆が好きだからさ。あいつが、自分の子をもうすぐ抱く事が出来ると喜んでいたのが、忘れられなくって。……あいつは家族に飢えていた。あんたと子供と作るこれからの未来を、それはそれは愛してやまなかった。俺は、これだけは伝えたかったんだ」
女は溢れる涙を抑える事が出来ないでいた。
(そこまで大切に想われても尚、私はあなたから離れようとしている。なんて身勝手な女なのか。でも私は気付いてしまった。下界の生活を全て捨てあなたの胸に飛び込む覚悟を、私は手放しに仕切れない。多分私は後悔する。延々とあなたに恨み言ばかり言ってしまう。そうしてあなたに飽きられる。そんな女には成り下がりたくはないの)
「……あの人の傍で。……あの人の望む幸せを。……私も一緒に作りたかった。でも無理なの。私は……私には……」
涙が止まらない女を見ながら、六太は何度も詫びた。
「ごめん。本当にごめん。あんたの気持ちは分かったよ。尚隆に伝えるから」
「いいえ。……いいえ。私の方こそ、こんな事になってしまって、申し訳ございませんでした。あの人に宜しくお伝え下さい」
女は深々とお辞儀をした。お互いに痛い位相手の心が分かるのに、どうする事も出来ない板挟みな感情に胸を苦しませながら別れて行った。
雁州国、関弓は玄英宮。
六太から親書を受け取った尚隆は、その内容を読むと一瞬眼光が強く光りそのまま固まってしまった。その様子を居たたまれない面持ちで見ていた六太だったが、意を決して尚隆に声を掛ける。
「……あ、あのな、尚隆。……あの人の決心は固かったぞ。ここはお前がその気持ちを汲んでやり、蒸し返してはいけない気がするんだ、け、ど……」
ばんっ!!
近くにあった卓子に親書を乱暴に置いた尚隆は、大声を張り上げた。
「なぜだ!どうして、こんな事になるんだ!」
高揚した顔の尚隆は尚も続ける。
「俺はどうなるんだ。俺の気持ちのやり場は、どこへ行けばいいんだ!」
そう吐き捨てると、奥へ入っていった。耳を澄ますと、がさがさと身支度をする音が聞こえる。
「……おい、行くのか?……行って、どうするんだよ」
「わからん。とにかく行かねば俺が納得出来ないんだ。これは俺にとって一世一代の事なんだ。このままで済まされるか。俺は漸く俺だけを愛してくれる女と俺の子供を傍に置く事が出来そうだったんだ」
―そう簡単に、諦め切れるか!―
尚隆は趨虞を使い雲海の上を飛び、急ぎ柳北国は芝草に向かう。
そして女の店へと訪れる。
前の様に堂々と入っていきたかった。しかしなぜか戸惑う自分を、尚隆はどうしてよいか分からなかった。うろうろと遠巻きに見ていると、女が店の外に出てきたので思わず物陰に隠れてしまった。そこから、女の様子を盗み見る。女は大事なお客を見送るのだろう。華軒に乗り込んだ客に、華やかな笑顔で挨拶を交わしていた。その顔は遠めに見ても理知的で華のある表情だった。華軒が出発した後、女は店の者にてきぱきと指示と飛ばす。そして店の奥へと入って行った。
尚隆は店を仕切る女を久しぶりに見た。活き活きとして美しいと思った。女が家公として、あの店を盛り上げ、店の者は女の為にと誠心誠意、尽力を尽くす。その関係がしっくりと上手く馴染み、店はいつでも明るい。
(俺はもしやあの店で一番輝く宝玉を、かすめ取ろうとしているのではないか?)
そんな事を考え始めた頃、後ろから声を掛けられた。
「あぁ、風漢さん!風漢さんじゃねぇですか?やっと戻って来られたんだ?いやぁ、あんたを旦那様も俺らも、待って、待って、待ち侘びたんだから。……ところで何やってるんですかい?早く店に帰りましょうよ」
それは記憶を無くし世話になっていた頃から仲良くしていた、馬子だった。
「お、おう。久しぶり。元気そうだな」
慌てて尚隆が答えると
「あっ、なぁーんだ。照れちまって入れねぇとか言うんですかい?風漢さん、意外にかわいいねぇ。いいよ。いいよ。呼んできてやるから。旦那様、旦那様ぁ」
大声で呼ばれ、尚隆は隠れる事が出来なくなってしまった。そのまま引っ張られる様に、店に連れて行かれてしまう。
「旦那様、風漢さんが、戻って来られましたよ」
女は一瞬、身体を硬直させてしまった。目の前には、会いたくて、しかし自ら会う事を拒否した男が、立っている。女は暫く言葉もなかったが、落ち着きを取り戻すと、こう言った。
「外へ。お話しなければならない事がございます」
尚隆と女は里木の前にいた。
そこには、二人が子を願い、すくすくと育っている卵果がある。
「ねえ、大きくなったと思わない?」
卵果を見つめながら、女は話す。
「ああ……そうだな」
尚隆は女の傍で掠れた声を発する。二人は暫く無言だった。尚隆は何か話したいと思っていたが、きっかけが掴めない。隣で女がいやに落ち着いているのが、気になって仕方がなかった。
(なぜ俺から離れようとする?お前は俺を愛してくれているのだろう?)
競り上がる想いが尚隆の胸を掻き毟る。ふいに女が口を開いた。
「人にはその人が生涯かけてやり遂げなければならない天命があるわ」
女は里木に歩み寄り、自分達が結んだ帯に手を触れる。
「そして、どんな障害がそれを阻もうとも、結局は天命から逃れる事が出来ないし、そうしたくない己がいる事に気付くのよ」
「……」
「今、あなたは王である自分を、私の為に捨てきれる?
尚隆は目を伏せた。
今更考えるまでもない。
雁州国は尚隆を必要としている。
そして尚隆もその思いに報いなければならないと、そうする事が自分の生きている証だと思っていた。
(王でいる事が、俺の存在意義)
そして、尚隆は目を開いた。
目の前には、寂しげな、しかし凛とした女の姿があった。
「哀しいけど……そういう事よ。私も店の家公である自分を捨てきれない。あそこは一つ一つ積み上げていった、私の居場所なの。あそこに行けば、自分を必要としてくれる人がいる。その思いを大切にしたいし、それこそが、私が私でいれること」
尚隆は何も言えないでいた。女の心が分かるから、それでも自分の願いを果たそうとは、到底思えない。
愛しているから。
女の天命を自分の勝手で侵したくはない。
相手が、自分らしくいる為に。
己が己でいる為に。
二人の間を乾いた冷たい風が吹き抜けた。卵果は僅かながら風を受け揺れている。尚隆は、すくすくと大きく育つ二人の卵果に手を触れた。
「俺がこの子を連れて行く……とは、言ってはならぬのだな?」
「……ごめんね」
女はその隣で、静かにそしてきっぱりと言い切った。
「いや慣れているさ」
尚隆は目を伏せてこう言った。
「人生、思うままにならない事は、多々あるもんだ……」
女は尚隆の手を隠す様に、その上から手をかけた。
「なんで私が預かりたいかは……あなたはもう気付いている筈よ」
尚隆はふっと息をはいた。
「あぁ、そうだな」
雲海の上にいるのは、ほんの一握りの人間である。大多数は下界で一日一日を必死に生きている。限りある時間の中で。己の人生を最大限に開花させようと。この大多数の民が、国を支えている。王や役人の為に、民があるのではない。民の為に、王や役人は存在している。
「私があなたを訪ねて雲海の上に行った時、あそこは冬だというのに穏やかで過ごし易かった。凄く驚いたわ。でも、生まれながらにあそこで暮らしていれば、あれが当たり前だと思うのでしょうね。それが、私には不安なの。この子には、あそこが全てだと思って欲しくない。民として、当たり前の幸せを、喜びを。私の全てを持って、授けてあげたいわ。だからどうか、私が預かる事を許して下さい」
女は向き直ると、尚隆の瞳を真摯な面持ちで見つめた。尚隆は女の肩に手をかけると、自身の懐に招き入れそっと抱き寄せた。女は尚隆の胸に顔を埋めると、口籠った声を発した。
「身体は遠く離れていても、心が通じているとお互い思えるなら、私達は紛れもなく幸せな家族よ。この土地で私は命ある限り、あなたの幸せを願っている。こんな家族の在り方でも、私はいいと思うのだけど」
そうして上向き、尚隆を見ると、精一杯の作り笑顔で、そっと片目を瞑る。尚隆はふっと優しい表情になると、抱く腕に力を込め、しみじみと話した。
「天が俺達を引き合わせたなら、俺は天に感謝しなければならないな。お前と出会えて嬉しかった。お前と過ごした時間は、何にも変えがたい俺の宝物だ。そして、俺はお前のお陰で父になる。もう、叶う事もあるまいと諦めていた、父にな。有難う。本当に、有難う」
女は、尚隆の匂いを身体全体で受け止め様とした。
(忘れない、この香りを……忘れない)
この日尚隆と女は、二人が願った卵果の前で、お互いに新しい道を、家族の在り方を誓い合ったのだった。