尚隆は娘に中に通され近くの椅子に座るよう勧められた。
「……ああっとこんな時にお客様用の茶がないなんて。ごめんなさいねお父様。そうそう、近所の人から美味しい果物を頂いたの。喉を潤すにはもってこいだけど。どうかしら?」
娘は殊更忙しげに家中を動き回る。落ち着かないのだ。尚隆はそんな娘の様子を注意深く伺っていたが、頃合を見計らって声を掛ける。
「なぁ、母さんの事なのだが……」
娘はびくっと肩を震わせた。抱えていた果物が、ごろごろと音を立てて転げ落ちる。
「連絡はしたくとも出来なかったのよ。お母様に聞き出そうとしても結局教えては下さらなかった。私はお父様が偶然お越しになるのを天に祈った。でも講談のように都合良くはいかないものね。お父様が現れる事はなかった」
娘は尚隆の目を一切見ずに早口で捲し立てた。
「お父様に責任がない事は分っている。でも感じずにはいられない。お父様遅過ぎましたわ」
最後の方は涙混じりになって娘は語ってしまった。
「……すまなかった」
尚隆はそれしか言葉が浮かばない事を歯がゆいと思う。それが天の導きであるとは言えなんと口惜しい事か。最後を看取らせて貰えなかったのは、老女の希望だったのだろう。
(しかし、それでも俺はあいつを見送ってやりたかった)
尚隆が憔悴している姿に、娘は、はっとした。
(こんなお父様、今まで見た事ないわ)
突然現れた父の姿に、思わずなじる様な言葉をぶつけてしまった。今まで燻っていた憤りを、悲しさを。しかし、それは尚隆とて同じ事。愛した女が突然目の前からいなくなった。その喪失感はいかばかりか。
「……ごめんなさいお父様。お父様もお辛いでしょうに」
娘は尚隆の傍に
「泣いても宜しいでしょうか」
潤んだ瞳で尚隆を見上げた。
尚隆は何も言わず娘の背中を擦ってやると、娘は安心したかの様に大声で泣いた。随分長く泣いていた。
どれ位二人はそうしていたのだろうか。気付けば日も暮れようとしていた。
「ごめんなさいなさいねお父様。すっかり付き合わせてしまったわ。……今日はお泊りになるのでしょう。ここでは本当に狭いかも知れないけれど。是非家に泊まって頂けないかしら」
「しかし、お前には家族がいるだろう。いきなりでは申し訳ないではないか」
「あの人なら気には為さらないと思うのだけれど。丁度山に入ってしまって今日は帰って来れないの。だから今宵は私一人。ね、お父様。そうして下さらないかしら。私、お父様とお話したい事が沢山あるわ」
尚隆もこのまま別れるのは忍びないと思っていた所だったので、娘の誘いに甘える事にする。
二人は簡単な食事を済ませ、先程食べ損ねた果物を食していた。と言っても、いろいろ思いが溢れ果物が喉を通らず剥かれた果物を長い事じっと見ている事になる。
「……あの……」
どちらともなく口を開いた。そして、二人はお互いの顔を見合わせる。娘は尚隆の瞳を見据えると、意を決したように話し出した。
「ずっと聞きたかった事があるの。……もう、教えて貰ってもいいと思うのだけれど」
(ついに来てしまったか)
尚隆は目を伏せた。恐らく今宵はっきりしなければならぬと心に決めてきた。だが、改めて娘から切り出されると緊張し出し心粟立つ。
(お前は俺の素性、母との経緯を受け入れてくれるだろうか。奇跡のような偶然が重なってお前が生まれた事を、理解してくれるだろうか)
「お父様は一体……」
余程娘は躊躇っていたのだろう。最後は喉がからからになり言葉にもならなかった。だが、皆まで言わずとも尚隆はわかっている。
(こいつには知る権利がある)
「俺と母の勝手で、今までお前には寂しい思いをさせてきた。だが、俺には俺の、あいつにはあいつの事情があった。そしてこうする事がお前の為にも一番いいのだと話し合ったのだ。それは分ってくれるな」
娘はこくりと頷いた。
尚隆は一つ一つを丁寧に言い聞かせるように、ゆっくり話を進めていく。だが核心部分にはどうしても触れられない。尚隆はまだ怯えていた。
(お願いだ。全てを知っても俺を否定しないでくれ)
すると娘が静かに話し出した。
「本当はね、このままでいいのかもしれないと思った事もあるの。どんな素性でもお父様はお父様だもの。でも、なんだろう。あんなにも愛していたのに、お母様がなぜお父様についていかなかったのか。それがどうしても気に掛かってしまうの。それを聞かない事には私は先に勧めない気がして」
尚隆は娘を見た。
目の前には、蘇芳色の髪を緩やかに纏め華々しい気配に満ちた娘の姿があった。母が涼やかな華であるならば、娘は豪奢な大輪の華。風貌は殆ど似ていないのに、凛とした佇まいが母を思い起こさせる。紅玉に彩られた瞳を真っ直ぐに向け、現実を真っ向から受け止めようと覚悟した女の姿。尚隆は深く息を吸い込むと、覚悟を決めた。
「では、全てを話そう。俺は、雁州国国主、延と申す」
娘は尚隆と母がどうやって出会い愛し合ったか、そして、どの様にして娘は生まれてきたのかを静かに聞いていた。というより、あまりの事に口を挟めなかったと言った方が正解だろうか。
(いろんな答えは想定していたわ。でもこんな事って……)
全てを話し終えると尚隆は、娘の顔を恐る恐る覗き込んだ。娘の反応に緊張する。随分の時間が過ぎただろうか。娘はぼそっと呟いた。
「一体私は何の為に生まれてきたのかしら」
「……」
「奇跡のような偶然とお父様は仰るけど、本来ありえない婚姻だったのでしょう。そして、私は生まれる筈のない子だった。それなのに……。私がここにいる意味は一体何?」
尚隆は暫く無言だった。しかし、娘の目を改めてしっかり見据え確認するように口を開いた。
「俺は、この世に意味のない事はないと思っている。俺が記憶を無くしたことも、そしてお前の母に会った事も、全てはお前を迎える為に予め決まっていた事だった。普通であれば俺はもう二度と自分の子供を望む事は叶わなかった。しかしお前を授かる事が出来た俺はお前が生まれた事自体が素晴らしい事だと思っている。この出会いをくれた天帝に心から喜びを伝えたい。お前に会えて嬉しかった。それがすべてだ」
「私に会えて嬉しかったと」
「そうだ。お前の存在こそが俺が俺でいられる糧だった。長い事生きているとな、どうにも悩む事がある。迷いに迷った時、お前と母の存在がどんなに心の支えだったか」
娘は感激のあまり胸がいっぱいになった。
こんなにも深く自分は尚隆に必要とされている。それが、今宵はっきりと感じる事が出来て嬉しかったのである。
「お前を傍に置きたいと願った事もある。しかし、それはお前の母が許さなかった。お前には当たり前の幸せをと。それだけが彼女の願いだった」
目を閉じれば母に大事に守られていた事を思い出す。
「……二人にとって私はかけがえのない存在だったのね」
娘はにっこりと笑った。
「ああ、そうだ。俺にはお前もお前の母も必要だった」
娘は十分な充足感に浸っていた。今まで埋まらなかった心の
(もう思い残す事は何もない)
天井から差し込む月明かりは、柔らかく、しかしいつもにも増して明るいものだった。
娘との別れ際、尚隆は改まった姿勢で娘の前に立った。
「もし、この先何か起こるようであれば、雁州国は玄英宮を訪ねて欲しい。悪いようにはしないから」
娘は黙って聞いていた。
「お前の事だ『今すぐ来い』と言っても聞かぬだろう。お前の母もそうだった。どうしても俺が必要になった時訪ねてくれ。お前の名を出せばいつでも会えるようにしておく」
娘はにっこりと微笑むと
「ええ、心に止めておくわ。どうも有り難う」
とだけ答えた。
尚隆はその答えに安堵する。
「きっとだぞ」
と念を押しそのまま趨虞にのって旅立っていった。
その後姿を見送りながら、娘は蘇芳色の髪を指でくるくる弄び始めた。瞳はどこか遠くを見ているというよりは、ぼんやりと画像を捉えているといった風である。髪を知らず弄ぶのは娘が考えを巡らす時の癖である。彼女が何を考え、何を決断しようとしているかは、彼女だけが知る所である。
尚隆が一人の女と深く関わりその女との終焉を迎えてから、季節は幾度も幾度も過ぎていった。その間にも相変わらず尚隆は自国の為に働き近隣諸国の見聞も忘れてはいなかった。
久しぶりに芝草に入って、街が異様に明るい事に妙な違和感を感じた。まだ日も明るいと言うのに
妓楼街ならばこんな光景もあるのだろう。だがここは、芝草の中心部。大通りである。街が活気付くのは悪くはない。だが、この明るさはどこか刹那的、享楽的な印象でしかない。
「この感じは嫌だな。……まさか……。そう、か……。とうとうこの国が」
尚隆はそう呟き、そして重く暗い表情になった。芝草に到着し直ぐ様子を見に行ったのは、尚隆が愛して止まない者の住む家だった。しかしそこは誰もいなかった。近くの者に様子を聞くと、皆、一様に知らぬと言う。だが、ある老人が興味深い証言を残した。
「昔、大きな
尚隆の心に脱力感が襲う。
(あれは初めから、俺の前に現れないつもりだったのだ)
「……は、ははは。あいつといい、その娘といい。俺の前を通り過ぎた女というのはどうして、こうも……」
後の言葉はもう言葉にならなかった。何も知らされず失った、言いようもない喪失感。空になってしまった家の前に佇み、尚隆は一人途方にくれるばかりだった。
次に尚隆は、雁州国との
その茶房は尚隆の他に客は一人もいなくて、主人も暇を持て余していた。
「なぁご主人よ。もし差し支えなければ、一杯付き合って頂けないだろうか。独り身の長旅故、こういう風に食事をとる事はさほど気にも留めていなかったのだが、流石に飽きが来た所だ。ご主人の仕事の邪魔なら無理にとは言わないけれど。勿論ご主人の分も勘定は払うよ」
尚隆がそう申し出ると、主人は少し悩んだ末返事をした。
「実の所客が来たのは、あんたが久しぶりだったんだ。それまでここは開店閉業みたいなもんだ。どうせ待っていても客は来ないし。まぁ、いいでしょう。店は終いだ」
そうして入り口に立てかけてあった看板を下げた。
主人は呑むと饒舌になるらしい。お陰で尚隆は、知りたかった情報をある程度拾う事に成功した。
「――全くさぁ、ここの
少し頬を上気させ、主人は泣きつく様に尚隆に語った。どうやら誰かに聞いて貰いたかったらしい。
「ほう、この国の刑役はそういう事はしないと評判だったのだが。……変わるもんだな」
尚隆が返事を返すと、主人は、ふんと鼻を鳴らして残りの酒を煽った。
「昔なんざぁもう忘れちまったよ。確かにあの頃は良かったと思う事もあるけれど。俺はさぁ今日は今日の事しか考えたくねぇの。――本当だよ。近頃じゃ、雁国の国境近くの虚海に妖魔まで出るって言うしさ。いろいろ先を思うと気が滅入って嫌だね」
「何?それは本当の事か?」
蒸した肉をつついていた尚隆は、ぴたりとその箸を止める。それまでどちらかというと退屈そうにしていた尚隆の眼光が明らかに鋭くなった。その豹変に主人は慄いて
「……ああ、そうらしいよ。実際見てないから何とも言えないけれど。あそこへ行って無事返ってきた奴はいないって……誰かが言っていた気がする」
と、おどおどとした声音で答えた。
「そうか、それは拙いな」
尚隆は人知れず呟くと
「ご主人。いろいろと世話になった。勘定は置いておくよ」
そう言って卓子に金を置き立ち上がった。主人は尚隆が置いた金銭の額に驚く。
「お客さん、いくらなんでもこんなには貰えねえよ」
「いや、いろいろと役に立つ事を聞いた。その礼だ」
尚隆は快活に言うと、颯爽と茶房を出て行った。
茶房を出ると、尚隆は地面に向かって独り言の様に呟いた。
「……おい。すまないが、直ぐあの主人が言っていた事を確認しろ。本当に高岫に妖魔が蔓延っていれば、そのまま雁州国へ戻ってくれ。そして
「御意」
地面から尚隆にだけ聞こえる大きさの声が響いた。
「俺も後を追って一旦そっちに戻る。それからは……分っているだろう?」
その言からも分るように、尚隆は、はやる気持ちを押さえ切れない。一旦戻るが、すぐにでも柳北国へ戻り調べたいと言いたげであった。地面から響く声の主も、尚隆の様子は察しているようである。暫し沈黙後
「……努力はしてみましょう。
と、聊か困った声音が地面に響いたかと思うと、その後は何事もなかったように地面は元の静寂を取り戻していた。
尚隆は今度は本当に自分に言い聞かせるように、独りごちた。
「さて、ここにもそう長々と居れなくなったのは明白だな。帰れば又慌しくなる」
おそらく茶房の主人が語っていた事は間違いないだろう。そうそうに雁州国へ戻って後の備えをしなければと、気を引き締める尚隆だった。
そして、拠点としている
「こんなところで会うかなあ」
「こんなところだから会ったのだろう。――久しいな、利広」
それは尚隆にとってあまりに古くから親交のある男であった。
2006.8初稿