老女はこの所、身の回りの整理をよくする様になった。一時はずっと一人で暮らすつもりなのかと思われた娘も、漸く一生を添い遂げるに足る相手を見つけた。折角ここまで大きくした店をなくすのは忍びないとしつこく迫る同業者もいたが、これは老女が昔から決めていた事。使用人にもその心積もりをするように言いつけたし、必要であれば紹介状もこしらえた。買い足す内うず高くなった書籍を、一つ一つ丁寧に取り出しては埃を払う。古いからこそ漂う何とも言えない書籍の香りと供に、昔店を守り立てようと必死だった熱い思い出が甦る。老女はぱらぱらとめくっては読み耽り書籍の整理は一向に進まぬが、それも又楽しいものだと思っている。
今日も老女は、奥に積み上げられた書籍に手をかける。すると古ぼけて色が黒く変色した木片が落ちてきた。老女はそれを拾い上げ、そして一瞬目を見開いた。木片は何か記してあるようだが、それはもう見えにくくなっていた。だが老女はこの木片に覚えがあるのだ。
「……あらあら、これを又見る事になるとはねぇ」
老女は木片の感触を丁寧に確認する。
「これをとっさに隠した時、私は既にあの人に惹かれていた……」
老女は木片を胸に当てた。木片は老女が愛した男の旌券。これを隠してその先どうするか等、あの時は考える余裕も無かった。ただ、これさえなければ束の間でも男の傍に長くいれると思った。
結局、男には男の老女には老女の生き方があり、実際傍にいる事は僅かだったかもしれない。しかし、老女は自分が選んだ人生をわりに面白かったのではないかと思っている。
「そのきっかけが、これなのだろうねぇ……」
老女はふっくらした柔らかい笑みを浮かべ目を閉じる。
こんな事があった。ふらりと立ち寄った尚隆と雑談をしていた時の事。その日は蒸し暑い日で、何気なく老女が
「こう髪が長いと頭が蒸されているみたいで、余計に暑苦しいものよ」
と笑った時だった。
暫く腕組みして聞いていた尚隆がぱっと明るい顔になると、いきなり宣言したのだ。「お前の髪を洗ってやる」と。老女は目を見開き、そして首をふった。
「何を当然言いだすんだい」
「いや、天気がいいし。……暑気払いだ」
そして、近くに控える使用人に沢山の湯を用意して欲しいと頼んだ。老女以下使用人はほとほと困り果てた。女性の髪を男性が洗うなんて事は今まで無かったからだ。動けないでいる使用人に尚隆が
「妙な頼みだというのは重々承知している。ここでは再三に渡って俺の我がままを通してきた。しかし、もうこれ以上の我侭は言わないから」
と、両手を合わせて姿勢を低くする。そして老女の顔を縋るようにそっと盗み見る。老女もどうして良いか分らなかったが、尚隆の揺ぎ無い瞳を見てはぁーと盛大に溜息をついた。
「……そう、ね。あなたは一度言い出したら聞かないものね。ええ、いいでしょう。ただし髪だけよ。身体は……」
と、ここまで言いかけて老女ははたと言うのを止めた。
(流石にこの老いぼれの身体は無いわよねー)
きめはかろうじて細やかだが、たるんでしまった肌。長年貯えた脂肪。自分が言いそうになった言葉が至極恥ずかしくて老女はあたふたとし、尚隆と目があった。尚隆は、老女の様子を面白そうににやついた表情で眺めながら片目を瞑った。
「いや。お前さえ良ければ俺は一向に構わんが。いっそ二人で湯浴みでもするか」
「ば、馬鹿っっおっしゃい。ふざけ過ぎですよ。いい、いいです。髪だけで結構だわ」
顔を真っ赤にして否定した。
外には急遽榻が置かれることになった。
「その肘掛に頭を預ければいいだろう」
言われるまま老女は榻に身を預けた。
「……ちょっと窮屈になったわね、ここ。ああそうだわ。私も歳だからね。たっぷりとここに脂肪が、ほら」
老女は自身の出っ張った腹を指差し、ころころ笑った。老女は尚隆に髪を触られるこの状況に、酷く緊張しているのだろう。が、それを尚隆に気付かれたくはないと、何でもない事のように振舞おうとしていた。
「どれ」
尚隆は覗き込もうとして老女に頭を小突かれた。
「余計な事はしなくて宜しい」
「はい、はい」
尚隆がおどけた表情で老女に返事をすると、老女はなぜか笑いが込み上げてくる。そして、何となく緊張も解けたようにゆったりと肘掛に頭を乗せ目を伏せた。
ざぁ……。ざぁ……。
髪に水の流れ落ちる音が静かに聞こえてくる。頭皮に瑞々しい水の流れる度に、その心地よさが老女の心を軽くする。
「男性が女性の髪を触るだなんて、ありえないとかなり吃驚したけれど。なかなか気持ちのいいものね。ねぇ、あなたはこんな事しょっちゅうしていたの?」
「そんな訳がないだろう。お前が初めてだ」
尚隆は老女の髪を救い上げ、指で丁寧に梳いた。
「そう……。それにしても、あなたが起こす行動には毎回驚かされるわ。そして、私はそれに振り回されてばかり」
しっとりと絡みつく暗緑色の髪を指先に感じ、尚隆は自信ありげに語りかける。
「それが良いと、ここまでついてきたんだろう?」
それを聞きながら老女は
「否定は……出来ないわねぇー」
尚隆は老女の髪を弄びながら、彼女の顔をしげしげ眺めていた。確かに皺も刻まれて入るが、その肌は白い陶器の様。
(はるか昔、お前がこのように仮眠を取っていた事があった。そして、俺はその肌に触れたいと思った)
遠い記憶が甦る。
記憶を失い不安の中、老女の存在がどんなに大きかったか。
(この髪も……)
尚隆は水分を含み更に黒く艶やかになった暗緑色の髪に香油を落とす。一層滑らかに滑る髪を丁寧に丁寧に梳き上げ水を流した。
「……お前の髪はあいも変わらず美しいな」
吐息まじりに尚隆が呟くと
「そう?随分と毛が細くなったものよ」
幾分照れたのだろうか、老女は頬を赤らめた。
「いや、それでもお前の髪は魅力的だ。……悪いな。暑気払いにかこつけて実はお前の髪を思う存分触れたいと思った」
水が老女の頭皮を滑り落ちる。その冷ややかな刺激とともに、尚隆の言が老女の心をどんどん溶かしていく。まだ老女が恋を忘れなくてもいいのだと思い起こさせる。尚隆が作り出す瑞々しい世界に身を委ね、老女は久しぶりに自分が恍惚の中にいる事を感じた。
「あなた変わってるわ」
瞳を伏せたまま、老女はしみじみと口を開いた。
「それが良くて、ここまでついてきたんだろう?」
もう一度繰り返す尚隆の言葉に、老女は瞳をゆるゆると開く。そこに映るのは、どこまでも威風堂々としている尚隆の姿。
(そう。私が心奪われた……)
老女はたおやかな笑みを浮かべこう返した。
「そうね。『あなたが良くて』ここまでついてきてしまったわ」
「――本当に変わった人よ。あの人は。そして、誰よりも優しい……」
老女はこの頃、尚隆を想うと涙腺が緩む。胸を軽く締め付けられた感覚に陥るが、それはけして不快なものではない。思えば尚隆がここによく来るようになったのは、つい最近の事である。老女にも女の盛りがあったが、その頃彼は殆ど顔を見せる事がなかった。
「あの頃の私が一番輝いていたと自分でも思うの。なのにあの人は、忘れた頃にしか構ってくれない。確かにこの暮らしを決めた時覚悟した事だったけれど。酷い男と正直思った時もあった」
黒く変色した旌券に老女は小さく語りかける。誰にも告げる事のなかった彼女の本音。うず高く積まれた蔵書の奥、老女は旌券を愛しくなぞる。
「会えぬ寂しさを忘れさせてくれたのは、全てを捧げ大事にしてきた店と、傍にあった娘の存在。これがあったから私は私でいる事が出来た」
頭に
「娘が幼い頃。あの人を迎えに、一人で雁州国へ行こうとした事もあった。あの時は娘にいらぬ心配をかけていたと、本当に心が痛かったものよ。……結局私は娘に教えられる事が多かったかもしれないわねぇ」
忙しかったけれど充実していた時代も過ぎ、気がつけば自分も歳を取った。知り合いも少しずつ少なくなる現実を目の当たりにすると、いいようもない哀しさが胸を突く。
日々は特に何が変わる訳でもなくゆるゆると過ぎていく。
穏やかなのに何故か哀しい。
そう感じていた頃、尚隆が頻繁に現れるようになったのだ。そして必ずと言っていいほどすっかり外見が変わった自分に対して愛を囁いてくれる。
「こんな婆さん相手に……ね。本当に変わった人よ」
老女の瞳から涙が溢れる。
老女は知っていた。これが尚隆の優しさなのだと。女盛りの頃は多少彼女の周りも賑やかだった。待てども来ない男など捨て置き、我の所へ是非等と言い寄る男性がいた事もある。店を一人で切り盛りしている、眉目秀麗な女家公。それが彼女の評判であった。しかし時が過ぎ、彼女の容姿に変化が見られると評判の内容も変わってくる。店の評判は相変わらずだが、そこに色めきたった噂は見る見る少なくなっていった。年齢を重ねれば当然の事と分ってはいても、見向きもされぬ事は寂しい事。尚隆はそんな彼女の思いを承知しているのではないかと老女は考えるのだった。
尚隆の訪問は老女の心を活気付かせてくれた。いつ見ても快活な韋駄天であるその青年から発する気配が、老女の心をときめかす。こんなにも自分が女だったのかと認識せずにはいられない。そしてそう思う事を止めなくていいのだと尚隆は教えてくれた。
「本当に優しい人……」
老女は毀れる涙を止められないで、ただ忍んで泣いた。
尚隆を想い泣いたのだった。
暇を見つけては老女の所へ足繁く通う事にしていた尚隆だったが、つい先日は仕事の段取りが上手くかみ合わず、久しぶりに日を置く事になった。
漸く仕事から解放され、急ぎ柳北国は芝草に向かう。慣れ親しんだ館第に行こうとすると、その館第は硬く門が閉ざされていた。
「……どういう事だ?」
尚隆がいぶかしみ
「あんた、この館第に用だったのかい?」
「ああ、そうだ。ここの家公に会いたくてな」
「そりゃぁ無理だ。ここの家公はお亡くなりになったよ。主の遺言通り、近くこの館第は国のものになっちまう。勿体無いよな。俺なら是が非でも残そうとするのに。娘がいたんだ。そいつに全て流すよう画策すればいい。全く偉い様の考える事はよく分らんよ」
尚隆は男の最後の方の話など耳に入らなかった。
(来るべき時が来た)
受け入れる覚悟はとうに出来た筈だったが、やはり実際身に起こると心が苦しさで潰れそうになる。
(しかしなぜ知らせてくれなかった)
「大丈夫かい?
押し黙っている尚隆に男が声をかける。
「…ああ、悪かった。そう、か、ここは、もう、誰もいないのか」
「近くに娘が住んでいる筈だ。あんた場所は知ってるかい?」
これまで娘の居所は、あえてこちらから聞かぬ事にしていた。だが、このまますごすご玄英宮に帰る訳にはいかないと尚隆は思う。
(会わねば。会って話ねばならない)
「すまないが。娘がいるという居所を教えて貰えないだろうか?俺は家公と古くから付き合いがある。娘も俺は知っている筈だ」
男は尚隆を上から下まで舐めるように見渡した。
(確かに身なりのいい服は着ちゃぁいるが、この男のいう事を間に受けて、教えてしまっていいものだろうか)
「あんた、娘に近付いても何も出やしないよ。ここの家公は本当に全てを国に返還しちまった。娘は自分に見合った稼ぎだけで生活しているそうだ」
金目当てだったらさっさと帰りな、そう言おうとして男は尚隆の表情を見、彼を取り巻く気配にたじろいだ。
(こいつは、そんな事眼中にないという目だ。ただひたすらに、娘に会いたいと請う瞳)
男は少し考えた。
(……まぁ、教えたからと言って、俺に非が掛かる訳じゃないんだ。素直に教えてやっても構わんだろう)
男は娘の居所を尚隆に教える事にした。
「恩にきるよ」
尚隆は男に令を述べると、颯爽と趨虞に乗って立ち去った。
尚隆は小さな集落のとある家の前にいた。うろうろ様子を伺っていると、尚隆の気配を感じたのか、家の中から声が聞こえた。
「家の人に御用なのでしょうか?あいにく今、留守なんですよ」
尚隆には聞き覚えのある愛しい声。尚隆は声を発しようとしたその時。
「……お父様」
入り口の扉が開き、息を呑む娘の姿があった。