素晴らしきかな人生 十八話


 芝草には大層大きな館第(やしき)がある。そこで一人の使用人の男が庭の草毟りをしていた。吹き出る汗が目に入るようで、使用人は立ち上がり目を細める。
「――ちきしょう。今日も暑くなるなぁー。」
 使用人はついでに腰を思い切り伸ばし、館第の門を見た。この門の左右には繊細な透かし窓を持つ擁壁(へい)が巡らされている。表からこの透かし窓を通して中を覗くと園林(ていえん)の美しさが角度によって変化する。天神加護を願う大きな照壁(かべ)が立ち、色鮮やかな色彩の美しさを知らしめる。この門構えでこの館第の繁栄の大きさを示していた。
 使用人は故郷を離れ転がる様にこの地までやってきた。流されるまま身の振り方を、人に預けているうち、この家に家生として拾われた。まだ雇われて幾日も立ってはいないが、規則正しい時間に食べ物を口にした事が久しぶりだった使用人は、一応今の生活に満足はしている。
(見るたびに、この館第の荘厳さに圧倒されるよ。へへっ、これならおまんまに食いはぐれる事は無さそうだ)
 ふと目を凝らすと、騎獣をつれた男が何の躊躇も無く門を潜るのが見えた。騎獣をつれた男は一見すると軽装である。地味な色目の衣装に身を包んでいた。隣に控える大きな騎獣は使用人から見ても立派な顔立ちをしていて、いかにも高価な物だと分る。
 使用人は男の様子に暫し見惚れていた。威風堂々とした姿は、己とは違う人種の者だとはっきり分ってしまう。
「おい、新入り。お前何をぼさっとしてるんだ」
 立ちすくんでいた使用人はいきなり肩を叩かれ、殊更大きく肩を震わせた。
「へっ、へぇー、すんません。……あの、えーと」
「ああお前、風漢さんを見るのは初めてかい?」
 肩を叩いたのは、先輩の使用人であった。
 騎獣を連れた男は、『風漢』と名乗っている尚隆。尚隆は自身の仕事を済ませ、昔から世話になっているこの館第へ滞在に来たのだった。先輩使用人はなぜか得意げに続きを語る。
「男前だろう?ああして、たまにここへお立ち寄りになるんだ」
 使用人二人が尚隆の姿を眺めていると、彼はこちらの様子に気付いたのか立ち止まり左手を高々と上げた。
「よう。又、寄らせて貰ったよ」
 先輩使用人は深々とお辞儀をし、つられ、新人使用人も慌ててそれに倣った。
「あいつは、いつもの所か?」
「へぇ」
「そうか」
 尚隆は快活な笑みを浮かべると、騎獣をつれて園林の奥へと向かっていった。その後姿を見送ってから新人使用人は溜息をついた。
「いやぁー。流石お嬢だ。あんな男前の『いい人』がいるんだものな」
「何言ってんだぁ、お前。あれはお嬢の父親だ」
 それを聞いた先輩使用人は空かさず言葉を挟む。
「へ?……ええっっっ」

 新人使用人は思わず素っ頓狂な声をあげた。その様子に満足した先輩使用人。自身の顎に手をやりながら話をした。
「そうさ、風漢さんは旦那さまのいい人なのさ。何でも他国のお偉いさまらしいからな、旦那さまとはお暮らしできねぇそうだ。でもな仲が良くてな。俺はかーちゃんとここで世話になっているけれど。本当に羨ましいもんだ。…ほれ、最近旦那さまお体が弱くなってきているだろ。お出かけもなかなかされなくなった。お知り合いの方々もとんと少なくなってきたからねぇー。こうして、ちょこちょこ風漢さんがみえるのは気が晴れるもんだと、俺は思っている」
「旦那さまと、あのお方がねぇ」
(分っちゃいるんだが、どうも見た目がなぁー、収まりが悪いんだよな)
 この館第の家公は、肌はもっちりとした白肌だがその顔にはしっかりと年齢とともに増やされた皺が深く刻み込まれている。
「歳とっているんだもの。それ位当たり前でしょう」
と、よく肥えたおなかを揺らし笑っている。歳の割には豊かな暗緑色の髪を、美しく結い上げ、店の切り盛りは彼女一人で為されていた。
 新人使用人は思わず家公と尚隆が並んだ所を想像し、そしてにやついた。だが、そのにやついた顔も、先輩使用人の次の話で一気に曇る。
「もうすぐ、旦那さまも六十を迎えるからねぇー。どうやらすぐの納室は無いらしいが、旦那さまがお亡くなりになったら……。俺らも身の振り方を考えないと」
 新人使用人は、目が点になった。
「え?え?ここの家財は、お嬢が引き継ぐんじゃぁないんですか?」
「普通はな、そうなると思うだろ。だがな、旦那さまはそれを拒否しているし、風漢さんもお嬢もそれは納得済みなのだそうだ」
「……旦那さまは家財を国に帰す。あのお方もお嬢もそれは承知……」
 新人使用人の頭は混乱しだしていった。


 本来、民は六十を迎えると土地も家も国に返し里家で暮らすようになる。それ以前に貯えた財だけは伴侶に残す事が出来る。これは夫婦が作った財として国が認めているからである。どちらか一方が死ねば一方に財だけは残るが、残された者も死ねばそれは結局国に帰さなければならない。
 が、これをまともに行っている豪商は殆どいない。報償と称して、伴侶若しくは子供に、店や家財を与えてしまうのだ。そうして、無一文になった元家公は、大抵孝行な親近者が養うという体裁を整え死ぬまで自分の館第に残る事が多い。


これは常世(ここ)で生きる者らにとっては、至極当たり前の手順であった。だから新人使用人は、主が決めた『土地も家も、返せる物は全て国に返す』という決断に動揺を隠せないでいたのだった。
(安泰だなんて言っていたけれど。そうか、それじゃ拙いじゃないか。旌券は旦那さまが預かるって渡しちまったし。たしかあれ、もう使えないようにする為に割ってしまうんじゃなかったか?食わして貰えるならそれでいいと、安易に渡しちまったけれど。この家無くなったら、俺どうする?)
 新人使用人の表情がにわかに虚ろになっていった。すると、先輩使用人はにやりと笑った。
「ああお前、心配するな。儂らの旌券はまだちゃんと残っている。他の家はさ、逃げたりしねぇとかいう約束で、旌券は割るもんだけれどな。でも旦那さまはそうはしなかった。きっと随分昔から今回の事をお決めになっていたんだろうよ」
 先輩使用人は、日に焼けたごつごつした腕を思い切り大きく伸ばした。そうして筋張った首をこきこき鳴らす。
「しかしなぁー、儂ら使われている事に慣れてしまったから。今後の事を思うと、確かに少々不安だな。それにここは割りに居心地が良かったから。……とにかく、だ。この館第が国に渡った暁には、儂らは旌券を返して貰って新しい身の振り方を考える事になる。お前もそれは肝に銘じて置けよ」
 ぽんと背中を叩かれそのまま去って行った先輩使用人の後姿を見送りながら、新人使用人は又、腰を屈めた。短いながらも青々とした草の匂いが鼻につく。新人使用人は、黙々と草を毟り始めた。毟りながら、土地を与えたれたばかりの頃を思い出す。あの時もこうして、草を毟っていた。だが、その心は希望に溢れていた筈だった。
(妖魔の襲来で着の身着のままここまで流されてきたけれど。あそこは……俺の故郷は……落ち着いているんだろうか)
 新人使用人は、置いてきた筈の望郷の念をこの時初めて感じていた。


 尚隆はつれていた騎獣を、館第に遣えている馬子に渡した。馬子は
「相変わらず、綺麗な顔をしてるねぇ。風漢さんの趨虞は」
と、丁寧に丁寧にその毛並みを撫で上げた。
「俺ここに奉公する事になって、何がびっくりしたって、趨虞を触る事になる事だったなぁー。こんなの稀も稀だもの。でもさ、ここでの俺の師匠だった爺様がいろいろ教えてくれたお陰で、こうして近付く事が出来る様になった」
 馬子の視線がふと遠くを見る目つきになる。
「……あの男が亡くなって、もう何年経つかな」
 尚隆も趨虞の硬い毛並みを撫でながら、人知れず感傷に浸る。あの男とは、この館第では何かと風漢と気の合った男だった。出会った頃は、この館第での馬子をしていて、やはりこうして、自分の連れた趨虞を預けているうち、親しくなっていった。ぶっきらぼうで、だが心温かくて。尚隆の娘、館第ではお嬢と呼ばれているが、彼女にも『じいじ』と慕われ、男も娘を良く可愛がっていた。
「人として生きてりゃぁ、こういう事は順番だって言うのは分っちゃいるんだけれども。……やはり、悲しいもんですね」
 ぼそっと呟く馬子に、尚隆は返事をしなかった。馬子も風漢が何か返してくれるのを期待していた訳ではない。二人は暫く趨虞を撫で、その毛並みから伝わる生暖かさで心の何かを慰めようとしていた。
「……所で、あいつがいつもの所にいると聞いてきたのだが」
 尚隆が努めて快活な調子で話を切り出すと、馬子も元気よくそれに答えた。
「ええ、多分いらっしゃる筈です。最近は気分もいいようで、この辺りを少し散歩する事もあるんですよ」
「そうか。では、顔を覗きに行こう」
 そう言うと尚隆は趨虞を馬子に任せて、館第の奥身近な者しか入らない場所へと進んでいった。


 尚隆は目の前の柔らかな風体の老女を暫し見つめていた。老女はゆったりと椅子に腰を落ち着けて、天井から差し込む日の光の下で本を読んでいた。静かで穏やかで。見ると、大きく切り出した玉が光を反射して一層の輝きを放っている。
(これを昔、俺はぼうっと眺めている事があった。自分が何者か知らずにどうしてよいか考える事も出来ずに)
 尚隆はここに拾われた時を思い出す。
(お前は颯爽としていて、だが少々可愛い所もあって。……俺に優しかった。途方にくれてこの玉を見ている時、お前の存在がどれだけ心の拠り所になった事か)
 尚隆は自然と目を細める。と、こちらの様子に気付いた女が、徐に本を閉じ尚隆に声を掛ける。
「あら、又来たの?なんだか最近は頻繁にここに寄ってくれるのね」
 尚隆は老女に近付いた。老女は照れくさそうに眉を寄せるが、やはりその口元は綻ばせていた。
「今、お茶の用意でもしましょうね」
 茶杯(ゆのみ)に茶を注ぐ老女の、ふっくらとしただが皺の深く刻み込まれた手を尚隆はじっと見ていた。
「嫌だねぇー。こんな婆さんになってしまった手を繁々見られると恥ずかしいものよ」
 少し張りの失った、だが静かで落ち着いた声音が耳に心地よく尚隆は目を伏せる。
「お前は会う度に魅力的な女に変貌するからな。俺はここへ来るのが本当に楽しみだ」
 言われた老女の手が、ぴくりと脈打つ。
「また。本当にあなたはお上手なお方。お世辞と分っていても嬉しいわ。あり難く貰っておきます」
 頬を幾分上気させながらも淡々と老女がそう返すと、尚隆は
「どうとっても構わないけれど。俺がお前に会う事が何より楽しいのは本当の事だ」
 そう言って、やんわりと笑った。


「直ぐの納室は止める事にしたんだな」
 尚隆は茶で喉を潤すと、話をし出した。
「ええ、まぁ。あなたとの話し合いは、いろいろ考えるいい機会になったわ」
 老女は居ずまいを整えると、徐に手を組みながらそう答えた。
「私は六十になったら直ぐにでもと思っていたのだけれど。国がお決めになった事でしょう。それを全うするのが当たり前ではないかと思っていたから。中にはいるのよ。これまで培ってきた財を、みすみす国に取り上げられるのは口惜しいと思う強欲な奴等が。私はそんな風にはなりたくなかった」
 老女は真っ直ぐな視線を尚隆に投げ、こう語った。
「だがそれはお前の都合。お前は遣っている使用人らの旌券を返すから後は好きに生きるがいいと言ったが、いきなりでは使用人らも吃驚する」
 揺るぎの無い凛とした視線に、尚隆は挑むように返す。
「うん、実際あなたに私のやる事は自己満足を満たしているだけで使用人らのこれからを丸投げにしていると言われた時は意気消沈した。天の言われるとおりにしているのになぜって」
 老女は思い出すもの憎憎しいのだろうか。眉をしかめて話をした。それを尚隆は気付いているのかいないのか、彼の様子からは推し量れない。だが尚隆は腕を組みゆったりと椅子に深く腰掛け話を続ける。
「大抵の豪商の家は、何だかんだ理由をつけて、家財ごと、そして館第に遣えている家生ごと、親近者が受け継いでいく。それは法のすり抜けだとお前は俺に詰め寄った。だがそのお陰で安心していられる家生がいるという現実も見なくてはいけない」
「一時は己の信念を曲げて全てを娘に渡そうともした。そう報償と称してね。でも、あの子が望んでいるならまだしも、無理矢理押し付ける訳には行かないでしょう」
 老女は、ほうと息を吐ききった。今度は尚隆の眉が僅かに歪む。
「ああ、あれにも漸く好きな男が出来たんだってな。確か木材を切り出す仕事をしているとか」
 娘は成人した後、与えられた土地に自分が暮らしていけるだけの作物を作って生活していた。そして気まぐれに母の店の手伝いをしたり、時には国の事業の助けに自ら参加する事もあった。本人は一人身の気楽さが心地よく一向に身を固める素振りを見せなかったが、最近漸く一人の男性を伴侶に選んだらしい。男はある州の治水工事の手伝いに自ら志願した際、一緒に働いた男だった。

――お父様みたいに派手じゃないけれど。……ううん、派手じゃないから一生彼と添い遂げようと決めたのかも――

言った、娘の言葉が胸に響いて仕方が無い。
(あれ)は母の数奇な運命をどう見ていたのだろう?)
 尚隆と関わってしまったが故に得られた大きな喜びと、同時に失った当たり前のささやかな幸せ。娘が何を思って自身の伴侶を決めたのか。それを推し量るのだけはどうしても出来ないし、したくもないと考える尚隆であった。
 尚隆が意識を遠くに向けていると、老女の悪戯をする子を諭すような声が聞こえてきた。
「やっと、身を固める気になったのですよ。邪魔しないで下さいませね」
 見ると、老女が軽く尚隆をねめつけている。
「そんな事するものか」
と、尚隆は返した。だが、少し黙って不敵な笑みを浮かべる。
「まぁ、今の所は、な」
 それを見て老女は大笑いをした。つられて尚隆も笑い出し二人はころころとひとしきり笑った。
 暫くして老女が真面目な表情で口を開いた。
「いろいろ思う事はあるけれど、一応はねこの様にさせて貰う事に致しましたよ。あなたが言うように不安がる者も出るでしょう。でも、だからこそ直ぐの納室は控えた。皆には自分がいいと思う道を決めればいい。それがどう転ぼうともそれは自分で決めた事……」
 尚隆は老女の顔を見た。老女は一応の納得をつける事が出来たのか、さばさばとした表情である。目じりの深い皺を更に深く刻むように、目を細め笑っていた。
(全く……この女らしい)
 尚隆は、老女の姿を眩しく見つめた。

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2006.8初稿
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