芝草のとある茶房。そこに一際目立つ娘が腰掛けていた。娘は尚隆に授かった子。美しい娘に成長した。髪は蘇芳色。その赤とも紫とも取れぬ不思議な色合いの髪を無造作にまとめていた。と言ってもそこには娘なりの計算が入っていて、わざと下ろさせた後れ毛を丁寧に焼き鏝で巻きつけ緩やかな巻き髪を作っている。もともと緩いうねりのあるその髪が、再度巻かれる事によって美しい螺旋をつくり娘の華やかさを彩っている。瞳は紅玉。白く柔らかな肌に映える目の覚めるような赤が印象的である。
しかしその瞳は只今は沈みがちだった。先程から殆ど手を付けていない茶が、すっかり冷め切って僅かばかりの湯気も立たない。
「――何なのよ……私、一人舞い上がって馬鹿みたい……」
先刻の事。娘は同じく学生である男の頬を思いっきり引っぱたいてやった。生まれて初めての事であった。
思えば一月ほど前に、同級生である男から娘は声を掛けられた。自慢の髪をくるくる弄んで佇む娘に、同級生の男はこう話を切り出す。
「やぁ、君っていつもお洒落だよね」
見上げると、木漏れ日の中男は白い歯を見せて笑っていた。
「……あっ」
娘は一瞬目を見張った。当然である。その男を娘は何くれとなく遠巻きに見ていたのだから。男は同級生に友達が多く彼の周りはいつも明るかった。弓が得意で、いつも皆が息を飲むほど素晴らしい。娘はそんな男の堂々とした姿をこっそり見ているのが好きだった。娘はあまり人から声を掛けられる事がない。実はそれは、娘の実年齢より大人っぽい落ち着いた容姿が、他人から声を掛けられない雰囲気をかもし出しているからである。しかも数ヶ月に一度、父である尚隆と出かける事がある。尚隆は故あって、生きている年齢とは明らかに離れた年恰好をしている。周囲からは、青年に見えなくもないし、壮年に入りかけた男の落ち着きにも見え、何とも目を引く彼は、娘の恋人かも知れないと噂されていた。そういう経緯もあって、娘は『少し歳の離れた大人の男性を手玉にとる、妖しい魅力』という印象が強くなっていた。
自分がそんな風に見られているなど露とも知らない娘は、無口である自分に面白みがないから、誰も話し掛けてこないのだと思い込んでいた。さほど気にしてもいなかったが、こうしてめったに他人から話し掛けられないしかも前からその明るさが憧れだった者からの声がけに、娘は少々舞い上がっていた。
何度か話をするようになった。男の仲間にも紹介された。男とその仲間との会話を聞いているだけが精一杯で、自分から話す事は殆ど無かったが、憧れだったその場所に自分がいる事自体が、娘にとって喜びだった。
心華やかなままその一月は早々と過ぎていった。そして今日である。男を見つけた娘は、逸る気持ちをどうにか押さえつつ足早に傍に近付こうとした。そして聞いてしまったのである。
「――しかしお前はすげぇよな。とうとうあの子まで気さくに話せる仲にしちまって。こりゃ賭けは俺の負けだな」
男の傍で男の友達だというそばかすだらけの小さな奴がぼやいた。娘は何となく声を掛けるきっかけを見つけられないまま隠れるようにして様子を伺う。
「しかしお前も酔狂な男よ。俺が『あの女を口説き落とせるかどうか』なんていう賭けに乗りやがって」
そばかすの男が笑いながら袂から金銭を出そうとした。男はそれを見ながら少し苦笑いを浮かべる。
(それは……まぁ……こんなきっかけでもないと声を掛けれないから……。あの子は俺には眩しかった)
娘は少々気になる存在。
華やかであるのに誰も寄せ付けない娘は、男友達らの噂の的だった。
そんな時、『あの子を落とせるか落とせないか』という賭けが持ち上る。つい勢いでやると宣言したが、実際声を掛けるのは緊張した。
賭け等きっかけに過ぎなかった。
(ああ、そうさ。俺は、あの子と話がしてみたかった……)
そう一人静かに思い馳せる男。がしかし別の友達が
「よっ、この女泣かせ。あーあお前みたいないい男に俺も生まれたかったよ」
「そうだな、結局お前ばっかりいい思いをしてさ。あの子は彼女にしちまうし、賭けは一人で勝っちまうし……」
傍でたむろっていた男の友人が、袂から金銭を渋々出しつつ口々に言い合う。それを見ている内、男は自分が今まで思っていた事とは別の感情が動き出す。
それは薄っぺらい自尊心。ただその場で皆に羨望の目で見られたいと思うだけ。誰も声を掛ける事に戸惑っていた娘が、今は自分の彼女。憧れの娘が意外にも簡単に自分になびいた。それは男の優越感を最高潮に満足させるのに十分だった。そして男は、ついに調子に乗り言葉を滑らせる。
「なっ。俺に不可能はねぇよ。そりゃ最初は戸惑ったけど、賭けには勝ちたいからな。頑張ったぜぇ、俺」
周りの男等がひゅーと囃し立てる。その空気感に男は惑わされもう口が止まらない。
「あの子、男慣れしてそうかと思ったのに。俺が迫ったらガチガチに固まちまって。ありゃあ見掛け倒しのお子ちゃまかもしれないよ」
それから娘との事を、面白おかしく得意げに話し出した。だが運が悪い事に、娘は丁度その場に居合わせてしまった。娘は、自分が賭けの対象にされた事、男が自分の事をまるで物のようにこけ落とす様子に失望する。
ばっちーーーんっっっ
気がつくと娘は、男前に立ち男の頬を平手打ちにした。
「……すっげぇ……」
誰かが小さく呟いた。周りはあっけに取られている。娘は踵を返すと、視線を動かさないまま嫌にゆっくりとその場を後にした。叩かれた頬を抑え固まっている男と、何か言いつくろいたいが声が出ない周囲は、この有様をただ眺めているだけである。男はこの日、自分の思慮の浅はかさ故に、二度と取り戻せない事をしてしまった事を後悔するのだった。
茶房では、様々な民が茶を楽しみ、語らいを楽しんでいた。勿論中には面白みとは遠く離れた深刻な話題もあるだろうが、娘は周りが全て幸せそうで、今この場で悲しいのは自分ひとりであるかの様な錯覚に陥っていた。娘は溜息を一つ落とす。そしてぽつりと呟いた。
「――好きだったのに。話し掛けられて嬉しかったのに。こんな事って……」
思い返すとじんわり涙が滲んでくる。娘は、ささっと手で目頭を軽く押さえた。
その頃、娘の様子を遠巻きに見ていた二人組が、何やらひそひそ相談していた。
「おい、お前。あんな別嬪そうそういねぇよ。声、掛けてみないか?」
「しかし、何とも綺麗過ぎて声が掛け辛いな。お前行ってこいよ」
「え?無理だよ。鼻であしらわれたら、俺凹むかも知れない。でも、いい女なんだよなぁー」
横目でちらちら娘を見ていた二人組だったが、その直ぐ傍を颯爽と通り過ぎた韋駄天がいた。そして娘に二言三言話し掛けると、肩を抱き茶房を出て行こうとする。二人組はその様子をただ指をくわえて見ているだけであった。二人組の視線に気付いた韋駄天は、不敵な笑みを浮かべるとこう言い放った。
「悪いな。こいつは俺の女だ」
「あんな風に言ったら、誤解されたかもしれないわ。ねぇ、お父様」
娘は苦笑いを浮かべ隣の韋駄天を見上げる。
「間違いではないであろう?お前は俺の大事な女だ」
しれっと言ってのけるその韋駄天は、娘の父、尚隆その人であった。娘は今まで気にも留めていなかったが、今日は尚隆の言葉が嫌に耳につく。
「自分の子だとそうはっきり言えばいいのに。何かあえて含みを持たせた言い方だったわ。……その……お父様?」
娘は見上げた目線で尚隆に聞いた。
「お父様は私がお父様の子だと思われるのが迷惑なの?」
「そんな訳がないだろう!」
尚隆は慌てて否定した。
「でも今日改めて思ったの。お父様、努めて私を他人の様に振舞っていない?」
「それは……だな。俺には俺の事情があって……」
と、尚隆が言いかけたが、ふいに六太のにやついた笑いを思い出した。
――尚隆。お前『雁州国国主に娘あり』という事が広まると、後々面倒だからとか何とか上手い事言っていたよな。でも、
そのすぐ後に娘の母である女の、からかい半分の恨み言も思い出す。
――そりゃあ周囲に『娘』と思われるより、若くて別嬪の『いい人』って誤解された方があなたは心地いいでしょうよ。全くあまり調子にのらないで下さいませね――
尚隆はちっと舌打ちをした。
(あいつらの当て擦りはあながち間違ってもいない。悔しいけどな……)
丁度大輪の芍薬のような人目をぐっと引き付ける娘を誇らしく思う。そして隣で肩を抱く自分を、羨望の眼差しで見ている周囲の視線が堪らない。
(しかし今まで何も言わなかった娘がそんな心配をするとは……)
尚隆は訝しげに隣に控える娘を見た。
その日の夜、久しぶりに家族全員揃ったからと尚隆はゆっくり語り明かしたいと意気込んでいたが、娘は
「……ごめんね、お父様。ちょっと気分が優れないの」
と早々に自室に籠ってしまった。意気消沈の尚隆に、妻である女は
「お茶でも入れましょうか?」
と、たおやかに笑った。
女はすっかり家公としても一人の女性としても、円熟味のある貫禄のついた者へと変貌を遂げた。その女がゆっくりとした手つきで茶器を暖め茶葉の用意をし出す。尚隆はその様子を目を細めながら眺めつつ、ぽつりぽつりと呟きを零す。
「今日の昼もな『自分達は人からどう見られているのか』等と言い出すし。あれもいよいよもって色気づいた。そういう事なのだろうか?」
「あらあら、とうとう言われてしまいましたか。だから調子にのるなと言ったでしょう」
女はわざと眉をひそめる素振りを見せたが、直ぐはんなりとした笑みを浮かべた。
「いずれにしても、それだけ大きく成長したという事なのでしょう、あの子も。……まだこちらに滞在なさるのでしょう?それまでに、一度ゆっくり話せる時がきますとも。何だかんだ言っても、あの子はあなたが好きなのですから」
そう言って、用意した茶を尚隆の前に差し出した。
次の日、尚隆は昔からの友人に会うと言って出かけていった。その者は、以前女の家で長く馬子をしていて、今は女の好意によって隠居しひっそり暮らしているという男である。娘もこの元馬子には大変世話になっていた。
元馬子は、尚隆の顔を見るとしわくちゃになった顔を綻ばせた。
「ああ風漢さん。久しぶりだねぇ。相変わらず男前なこった」
「お前も元気そうで良かった」
尚隆は年老いても
「なぁ、最近のあの子をどう思う?」
尚隆がそう漏らす。
「あの子って……お嬢の事ですかい?そうだねぇ、お美しくなって。大人にもなって。嬉しいとも思うし、昔が恋しいと寂しい事も正直ある」
元馬子は遠くを見る目つきをした。
「だが年頃になればいろいろ思う事もあるさ。それをやきもきしているのが、娘を持つ親の苦労なのかも知れないし、楽しみでもあるんでしょうよ」
「……お前、偉く分ったような言い草だな」
「そうだな。俺は家族はいないから分らないと言えば分らない。これはな、大旦那様が仰っておられた。あんたと旦那様の一連の出来事を振り返り笑っておったわ。もういい思い出だと目を細めていたお顔。あれは忘れられないなぁ」
大旦那とは女の父親である。彼は少し前、皆に見守られて亡くなった。
尚隆は思い出していた。娘が生まれる時、女の父親とじっくり語り明かした事を。女の父親は、女をそれは可愛がっていたが、だからと言って女を己の手の内に縛るつけるという事も無かった。
元馬子は自身の腰を徐に軽く叩きながら続けた。
「――こう思うんだ。何も無理して全てを聞き出してやろう、わかってやろうとしなくて良いと。あの子にはあの子の世界がある。ただ、それを父親は見ていてやればよい。元気が無いのであれば、さり気無く勇気つければよい。女の子を持つ父親は、そんな程度でいいんだろうよ」
それから彼は、思いっきり伸びをして、にやりと笑った。
「話したくなったら、きっと話してくれるさ」