女と尚隆の子は気に入りの馬子がいて、いつでも彼について回っていた。この馬子、女の両親の頃から長く奉公している。尚隆とは初めから気が合い、子供の誕生も自分の事の様に喜んだ。
「俺は家族はいねぇ。それも人生さと諦めもしていたが、お嬢が俺を気に入っているのが相当嬉しいらしい。……ははっ、こんな感情も残っていたんだな。だが俺はあくまで使用人だ。こんなにお嬢のお近くに何時までもくっついているのは果たしていいものなんだろうか?」
女と尚隆の子が、三つの声を聞くか聞かないかの時。
突然馬子が尚隆におずおずと申し出た。尚隆は一瞬目を丸くしたが、人差し指を自身の鼻にあてがい小気味良く弾く仕草をする。そして暫く考えた後、口を開いた。
「お前には何かと世話になったからな。俺は構わないよ。娘が喜ぶんだ。あいつも、あいつの両親も、お前と娘を無理矢理引き剥がしはしないさ」
すると、背後より子供らしい良く通る声がした。
「じいじぃー。遊んでちょうだいっ」
尚隆と馬子は声のする方へ振り向くと、目じりの下がった顔をする。そうしてお互い顔を見合わせると、大笑いした。
「お前が、『じいじ』か。そりゃあ、いいな」
尚隆がにやにや顔をしていると、馬子はふんっと鼻をならした。
「老いぼれでも、他の奴らに
尚隆と馬子は娘の手を振り、寄り添う彼女に極上の笑顔を投げた。
それから二年後。 女と尚隆の子は、更に笑顔の印象的な子に成長した。
さてこの所、母である女は気が立っていた。やる事為す事が気に入らず、見るもの全てが女を怒らせるのに十分だった。女が家公として切り盛りしている店でも、彼女のいらいらは止まらない。
「ちょっとどうしてこんな簡単な事が出来ないの!」
今日も女の少々感情的な口調が飛び出し、「しっかりしてよね」と言い残してその場を去ると、使用人達は一斉にやれやれと言った表情になる。
「全くなんだって、ああもいらいらしてるんだい」
「俺らが何かしたっていうのかよ」
店に客がいない事をいい事に、一人又一人とぼやき始める。
「――この所旦那様と来たら、すぐ人の揚げ足とりみたいな事を言ってさ。間違いはいけないけど。何時までもねちっこいたらないのよ。こんなの前の旦那様なら考えられないわ。どうしちゃったのかしら」
一人の使用人の女が大きな溜息をつく。
「俺なんか『何なのよ、その眠そうな目は!』って言うんだぜ。俺の目が細くて目玉が小せぇのは、元々だっていうの」
違う使用人の男が、自身の目を指差し憤慨する。
「だはははは……。眠そうな目、ね。言い当てていておもしれぇな」
又別の使用人が口元を抑え笑っていたが、ふと真面目な表情になる。
「何かいらいらする事でもあるのかな」
暫く皆が無言でいると、ある使用人の女が話し出した。
「――そりゃあ、やっぱ、さ。いい人に構って貰えないからじゃなぁーい?」
その言葉に皆が顔を見合わせる。
「いい人って?」
「やっぱ、あれかな?」
「風漢さんだ、よな」
使用人らは、尚隆の事を「風漢」と呼んでいる。その名は、彼が下界に降りる際使用する通り名である。使用人らは彼が現在雁州国に住まいを置いている事は知っているが、彼の本来の仕事を知らない。女とは話し合いの末、尚隆だけが離れて暮らす事になっていると使用人らは聞いていた。仙籍に入っているようだから、おそらく雁州国の地方官吏だろうと話しているのだが、本当の所、一体何をやっているのか全く謎である。これについて、六太は半ば呆れ顔で溜息を零す。
「全く、無理やりな設定だな。他国の地方官吏が、しょっちゅう、国を超える事があるもんか。そんなに暇じゃねぇだろ、普通」
確かに女と尚隆の子が生まれた時、彼は日を置かずに柳北国の女の元へ来る事が多かった。彼の部下と言う、揚朱衡が急ぎ戻るようにと、何度も親書を送ってよこす位である。いくら落ち着いた国であるとは言え、職務怠慢も甚だしい。そこから、不信がられるのではないかと、六太は心配しているのである。だが、
そんな尚隆であったが、近頃は殆ど姿を現さない。それを使用人達は、女が尚隆に飽きられたと根も葉もない噂を立てようとしているのであった。
「本当に風漢さん、最近お見かけしないよね。一時は月に一回は、旦那様とお嬢に会いに来てなかったか?一体どうしちまったんだろう」
使用人の男が腕組みして考えをめぐらす。すると空かさず別の使用人の女が口を挟んだ。この女、良く働くのだが、下世話な話が何より好き。よく男女の仲である事ない事話題にしていた。
「だからそれは、やっぱり旦那様が風漢さんに構って貰えないからよ。風漢さん、いい男だからねぇ。なかなかお忙しいかもしれないよ」
「又、お前は、そんな事を言って……」
別の使用人が彼女を嗜める。下世話好きの女はからから笑うと
「まぁ、それはおいといても、旦那様だって只今女盛り。好きな男の足が遠のくのはお寂しいし、いろいろ気を揉むだろう。だから、ねぇ……やっぱり……」
女が含んだしたり顔をすると、そこへ馬子に連れられた女と尚隆の子が現れた。その紅玉の瞳はぐっと見開かれ、使用人達の様子を伺っていた。蘇芳色の髪が緩く波打ち、桃の様な潤いを持った柔肌を、更に引き立たせている。立ち尽くしている女と尚隆の子の傍らで、馬子は慌てて他の使用人達を嗜めた。
「馬鹿っ、お前ら、お嬢の前だぞ」
先程まで面白がっていた使用人らも、はっと青ざめ、一様に口を噤む。女と尚隆の子は黙っていた。暫くして「じいじ、行こうっ」と馬子の衣装の袖を引っ張った。
「……あっああ。お嬢、何卒、旦那様にはご内密に……って、いてぇ!!」
「お前は!一言余計なんだよ」
慌てて情けない事を滑らす使用人の男の頭を、別のもう少し年季の入った使用人が思いっきりはたく。女と尚隆の子は、馬子に連れられその場を後にした。使用人らはそれを後味の悪い面持ちで見送る事になる。
馬子と、女と尚隆の子は、外へと出て行った。店の外は、流石、芝草の中心に位置しているからか。人が適当に往来し、そこそこの賑わいを見せている。前を見たままずんずん歩く女と尚隆の子を、馬子は居たたまれない気持ちで見つめていた。
(……全くあいつらときたら、好き勝手な事を言いくさりおって)
馬子ちっと舌打ちをし、女と尚隆の子を、どう扱おうか考えあぐねていると、不意に蘇芳色の髪が揺れ紅玉の瞳にじっと見つめられた。
「お嬢、どうした?」
馬子は一瞬面食らったが、努めて陽気な顔を見せた。
「じいじ。お母ちゃまはお父ちゃまのお姿が見られれば、怒ってばっかりいないの?」
突然の質問に、ひやりとさせられた
「うえっ、ええ……。そればっかりじゃねぇですけど……。……そうですねぇ。多少はあるんじゃないかなぁー」
言いながら馬子は「しまった」と天を仰いだ。
(これでは、あいつらの意見に同調したみてぇじゃねぇか)
「……でも、でもですぜ。旦那様は、只今お忙しいご様子。それは間違いねぇんだ。だから、一概にそればっかりとは言い切れねぇ。あっ、お嬢。聞いていますか?」
必死に後の言葉を喋っては見るが、女と尚隆の子は「ふーん」とばかりに目線を前方に送った。そして小さく
「……雁州国って遠いのかな……」
と呟いてみたが、慌てて言いつくろっている馬子には、その言葉は耳に入らなかった。
渦中の人物である女はというと。新しく獲得した玉泉について、担当の初老の使用人と相談をしていた。
元々柳北国は材木の流通の方が盛んであって、玉泉は極限られた土地しか産出されない。しかしその土地元々の地質というのだろうか。ここでしか出来ない玉も確かに存在しているのも事実。女はそれを自分の手腕で、もっと広く世に広めようと日々努力していた。
「――で、相手は何て言ってきているの?」
女は椅子に腰掛け、手摺に手をかけそこに顎を乗せると、初老の使用人の顔を見やった。
「……」
彼は、言葉を躊躇っているのだろう。一瞬目を泳がす様な仕草をみせたきり黙っている。その様子を見た女は、苦虫を噛み潰した表情をし、顎を乗せていた手を離し親指を口元に持っていって爪を噛む。
「ふん、大体察しがつくわよ。おそらく今よりもっと条件をよくしろと、そう言ってきたのでしょう。全く相変わらず何かって言うとすぐにごねてくるわね、あそこは」
女のいらいらの原因の一端はこれであった。思えば、新しく獲得した玉泉は女にとって考え深い所でる。尚隆が雁州国の国主と知り自分が雁州国へついていくかどうか迷った時。時同じくして新しく目をつけていたこの玉泉を、取り仕切っている者との交渉が上手く運んだ。結果的には、それが女を柳北国へ留める要因にもなったのである。それ故、この地は簡単に手放したくないし、ここから産出される玉は特別な思い入れがあった。
「何とかならないのかしらねぇー」
女は居ずまいを正し爪を噛んでいた手の指を無意識に弾く仕草をする。静まった独房で、指で弾いた音のみが淡々と聞こえる。
「――恐れ入りますが旦那様、ここはもう暫く様子を伺った方が宜しいかと……」
「様子を伺いすぎて、他にかすめ取られたらどうすんのよ!あそこを狙っている他業者は他にもいるわ」
おずおずと申し出た初老の使用人の意見に被せる様に、女の聊か語調のきつい言が飛び出す。きゅうとうなだれた初老の使用人を見て、女はすぐ罰の悪そうな表情を浮かべた。
「……ごめん。そうね、慌てて思慮の乏しい判断をすれば、後で取り返しのつかない事になる。もう少し策を練ってみましょう。何、相手もこちらの出方を待っているだろうし。少しは絆もあるだろうから、それを活かさないと、ね」
ほうっと女は息を吐ききると、精一杯の作り笑顔を初老の使用人に投げた。
すると、周囲が俄かにばたばたと煩くなりだした。
「なにやら外が騒がしいわね」
女が独房を出て、一人の使用人を呼び止める。
「一体どうしたっていうのよ。何か問題でも起こって?」
「あっ、旦那様。これは、そのう……あのう……」
呼び止められてた使用人はというと、女の顔を見るなり明らかに言いよどんだ表情になり、目を白黒させる。その様子を不信に思った女が更に詰め寄ると、使用人は観念した様にうなだれた。
「……お嬢が、見当たらなくなりました」
その頃尚隆は、芝草の昔滞在した事のある大きな
尚隆は以前女と出会う前ここを見つけた。芝草の中心街に位置し、何かと使い勝手がいい為気に入ってはいたが、この頃は女の家に直接行く事が多かったので、足が遠のいている。
先日偶然、その宿館の店主に会った。趨虞を連れて泊まる相手は店主にとって紛れもない上客。店主はなせ最近自分の宿館を使ってくれないのか、今回滞在するなら是非とも自分の宿館を使って欲しいと、尚隆に詰め寄る。断わり辛くなった彼は、結局そこに泊まる事になった。
(まぁ、かえってこの方が動き易いという事もあるしな。女の家は悪くはないのだが、一人で気ままに出づらいというのが難点だ。他に見聞がしたくとも、つい、あいつとあの子の事で時間を使ってしまう。……まったく。家族を持ったら持ったで、こんな事で気を回す事になるんだな)
「こんな事を思えば、天よりお諌めがくるな」
尚隆は自嘲気味に笑った。
その宿館から、数軒離れた所にとある茶房があった。尚隆はそこを何気なく立ち寄ったのだが、ここに出入りしている翁が、大変興味深い遊びをしていた。最初は冷やかしのつもりだったがとにかく遊びの内容が面白く、以降連日その茶房を覗いては、翁とその対戦相手の動向を観戦しているのが楽しくなった。そして、それでは気持ちが治まらなくなりつつある自分を、心のどこかで感じていた。
尚隆が毎日食い入るようにそれを見ていたのが、翁は気になったのだろう。それまで相手にしていた男を、さっさと負かすと、面白そうににやにや笑って尚隆に話し掛けた。
「これ、そこのお前さん。良かったら儂と一つ遊んで下さらぬか。見た所、お前さんは飲み込みが早い様に思える。最初は遊び方を教えてやるから……どうかね」
誘われた尚隆の眼光が幾分光ったかにみえた。舌の先で唇に湿りを加えつつ翁を見据える。
「へぇー、いいのか?爺さん。見た所その遊びなかなか奥深いな。見ているよりやる方が遥かに面白そうだ。お手合わせ願えるか」
翁はごつごつ筋張った肩を軽くゆすりつつ、くつくつ笑いながら、目で尚隆に向かい側に据わらせるよう促す。尚隆は所定の位置に腰を落ち着けると
「何日か見ていたからな、少しは理解しているつもりだが。簡単に確認させて貰えないか」
と、白い歯を見せつつ快活に答えた。
尚隆と翁を挟んで目の前には、規則正しく区切られた線が引っ張ってある丈夫な用紙がおいてあった。
「――時に、お前さんは碁は嗜むかい?」
その用紙の上で先程まで動かされていた玉を徐に整理しながら、翁は聞いた。
「ああ、少しは」
「……ほほほっ。そんな気がしたよ。あれもあれで面白いからなぁ。じゃが、あれは簡単に言えば『陣取り合戦』みたいなもんじゃ。こちらは、そうじゃなぁ……この玉。こいつを儂に取られぬようにする。そんな遊びじゃよ」
翁は一際目立つ玉を尚隆に見せた。それには大将を意味する言葉が刻まれていた。
「玉にはなぁ、それぞれ幾種類かの文字が刻まれておるんじゃよ。玉に刻まれた文字にはそれぞれ意味があり、それを『こま』と呼ぶ。これをな儂とお前さんを挟んで、ある一定の法則で並べる。それで儂とお前さんが交互に『こま』を規則にのっとった動かし方をし、敵陣を崩していく。まぁ、ざっと言えばこんな遊びじゃ。さて、各『こま』の動かし方の規則じゃが……」
翁は一つ一つ丁寧に『こま』の動かし方の規則を教えてやる。
「――ああ、いかんいかん、その『こま』は斜めには動かせぬ。前後左右に一歩ずつじゃ。だがこの文字の『こま』は、斜めに2歩動ける。そうそう。……ああっと、駄目じゃろうが。途中に『こま』があれば飛び越すことは出来ないと言ったばかりじゃないか」
「だが爺さん。この飛び越す『こま』は味方の『こま』じゃねえか?なら別に飛び越しても構わんだろう?」
尚隆が軽く憤然とした態度をとるが、それも意にかんせずといった翁は、正しい『こま』の動かし方を、実際に示してみせる。
「自分の『こま』だろうが、相手の『こま』だろうが、そいつを無視して先は進めぬよ。今この『こま』は身体をはってこの陣地にいるんじゃ。それを軽く見てはならん」
「爺さん……」
尚隆は翁の言う一言一言がなぜか気にかかった。こんな光景を遥か昔、自分は体験していた様に思う。
――ああ、若。その様に指してはなりませんぞ。気持ちは分かりまするが、もう少し待つ事が得策かと。将棋も兵法と同じ。
その昔、尚隆に蓬莱で生きていた頃。瀬戸内の風を頬に受けのんびりと将棋を指した思い出。遊んでくれた老翁は、尚隆が生まれ落ちた家小松家に、古くから遣えている家臣で、尚隆を何くれと無く気にかけてくれていた。
(あれは実益を伴った遊びだった。懐かしいなぁ)
尚隆は、良き思い出に目を細める。だがすぐに目を開き腹に力を据えた。勝負に気合いは必須である。
(ここで似たような遊びに出会うとは。微妙に違っているが、似た所も多々ある。爺さんは俺が全くの素人と思っているようだから、そのままにしておこう。相手を油断させるにはもってこいだし。勝算は必ずある)
「さぁ始めようか、爺さん」
尚隆が良く響く声で言うと、翁は
「ほほほっ……始めよう、始めよう。まずはお前さんからどうぞ」
と皺としみが多い手を尚隆に指し示し、小首を微妙にかしげた。
2009.6.改稿