女の父親の文書にはこう記されてあった。
最近柳北国ではどんな理由の者でも戸籍が簡単に売買されている生業があるという事。それは相手が大抵断らない事を踏まえ、かなり高額な金額を請求する事。それを取り仕切っているのは、どうやら柳北国官吏である可能性が濃いという事。
(本来なら、もっと確実に調べ物的証拠をこちらから用意して奏上すべき事かも知れないがご容赦頂きたい。劉王の公正なるご判断を期待する……か。これが、誠か否か。どちらにしても延王君の口添えもある事だし無視する訳にはいかないな)
確かに本格的に調べるにはあまりに確証が薄い。誤認ともなれば政にいらぬ混乱を招く為、どうしても慎重に為らざるを得ない。
(これは延王君の人となりを信じるほかないな)
露峰は考えを巡らした。
先刻利広が言っていた尚隆の印象は、彼になら命運をかけてやっても悪くはないと思わせる人物だという事だった。 つい数ヶ月前、利広は尚隆と出会っているが今もその思いは変わらなかったとも利広は付け足していた。露峰にとって利広は、信用の置ける人物である。利広が認めるなら尚隆という者のいう事を受け取ってやってもよいと、露峰は覚悟を決め始めた。
露峰は、目をじっと瞑って考えていた。そして宣言する。
「急ぎ、大司寇を呼べ。この件について徹底的に調べさせる。それから、冢宰にも、すぐに相談したい事があると申し伝えよ」
それからの、露峰の動きは速かった。
あっという間に裏で取り仕切っていた官吏を突き止め処分した。そして法の整備を早急に行う。それは人の心を巧みに汲んで尚且つ規律を乱さぬ様計算された法であった。厳しいだけでは限度がある。逆の肯定を上手く絡ませ国家が法によって絶妙な均衡を保つ様工夫されていた。更にその法が誠実に運用されているか監視する体制も整えた。その後柳北国は他に類を見ない法治国家に成長していくのだが、それは又別の話である。
数ヵ月後。尚隆の元に女の父親からの文書が届いた。それを読んだ尚隆はにやりと口角を上に向ける。
「そう……か。どうにか留まったか。危なげな国だと心配したが少しはましなのが玉座に座っているらしい。しかも意外にも対応が早かったではないか。……こりゃ化けるかもな。もう少しあの国はもつかも知れんぞ」
他国の事を気にかけるほど王は暇ではない。だが、柳北国は隣国である。万が一斃れる事あれば多少なりとも雁州国に負担がかかる。なるべくそれは避けたいものだ。
それに柳北国は、女が生まれ育った国。女が大切にしている者達が多く住まう国。そして女と尚隆の子が人生を歩む国である。
(いよいよとなれば、あいつ達だけここに呼び寄せる事も可能だが。……あいにく俺はあの国で他にも世話になった奴が大勢いるからな。やはり国自体が元気になってもらわんと……)
尚隆は文書を卓子し置くと、榻にどかっと横たわり徐に軽く腕を伸ばすと一人思いに耽っていた。それは、一つ何かをやり終えた心地良い充足感みたいなものだった。
(さて、いよいよ子供が生まれるんだ。会いに行かねばならんのだが……。問題はどうやって朱衡らを撒くかだな)
尚隆の心配事は目下それである。
尚隆が柳北国で行方不明になり、更に記憶障害となった為に発見が遅れてからほとぼりが冷め切っていない。容易く王宮を抜けれる状況ではまだないのである。
「夜がいいのか?いや、奴ら遅くまでここに居るからな。とすると早朝か?うーん決行時間も大事になってくるよなぁ」
「決行時間とは何ですか?」
尚隆が驚いて飛び起きると、そこには淡々とした表情の朱衡が資料を手に控えていた。
「お前いつの間に。ちゃんと声は掛けたのか?」
尚隆が憮然とした面持ちで朱衡をねめつける。
「当然でございます。聞こえていらっしゃらない様でしたが」
朱衡は悪びれもなくしれっと言うと、尚隆の元へ進み寄る。
「何か善からぬ事でもお考えですか?……そうですね。例えばここから脱出する計画とか」
尚隆は心落ち着け様と飲もうとした水を零しそうになる。それを面白そうに眺めた朱衡は
「ご心配為さいますな。あの娘の所へは近日中に行ける様、私共も考えてございます。現にこうして、資料に目を通して頂くだけにしておきました」
と言って尚隆に自身が持っていた資料を渡した。
「先方とも連絡をとり、卵果が十分熟した頃を教えて頂く手筈になっております。ですから尚隆様、どうか私共の言うとおり数日は政務に没頭して下さいませ。留守はしっかりお守り致しますから」
尚隆は目を見開き朱衡をまじまじと眺めると、今度は手を口にあてがいくつくつと喉を鳴らしながらこう言った。
「……悪いな。朱衡」
「突然いなくなるよりましだと、判断したからです」
照れ隠しなのだろうか。朱衡は視線を逸らし早口で喋る。尚隆はまだにやにやと笑いながら
「では、仕事を致しますか」
と大袈裟に資料を開いて読み込んでいった。
数日後。尚隆と女は卵果の目の前にいた。二人で手を添えて自分達の卵果をもぎ取る。それを大事に持ち帰ると、実を軽く石で叩いてひびを入れた。これは早く生まれて来いという、常世独特のおまじないの様なものだった。
「いよいよなのね」
女が逸る思いを胸に抱きしめ、小さく呟く。
「ああ、いよいよだ」
尚隆も沈重な面持ちで、来たるべき時を迎えようとしていた。
一晩たち、二人で卵果の様子を見に行くと、見事二人の卵果は崩れ中から液体ともつかない半固体状態の溶液に包まれた赤子が大声を出して泣いていた。その赤子が一瞬泣き止み女と目を合わそうとする。
女は興奮で震えが止まらなかった。
「……目があったわ!私の事、見てくれたわ!」
尚隆はそんな女の肩を抱き、自身も聊か粟立つ心を抑えつつ話す。
「ほらしっかりしろ。急ぎ身を綺麗にせねばならんだろう。誰か。すぐに湯を運んでくれ」
程なくして使用人が湯桶にたっぷりと湯を張り、赤子を身奇麗にする準備を整えた。
「旦那様、後は私供が……」
使用人でも古参の者なのだろう。痩せてはいるが風格の漂う一見すると気難しい印象のある女性が、日焼けしぎすぎすした両手を差し出し家公である女の手元から赤子を受け取ろうとする。しかし女はこのままでは忍びなく感じていた。
「……あの、あのね。お願いがあるの。私に赤子を綺麗にさせてくれないかしら?」
「……しかし、それでは……」
古参の使用人の細長い顔に、どうしたものかと考える戸惑いの表情が見えた。生まれたての赤子を身奇麗にするのは使用人の仕事。美しく整った状態で家公にお渡しするのが最良の勤め。古参の使用人は今までそうとしか教えられてこなかったので、家公である女の申し出は、はたして受けていいものかどうか判断に躊躇するのだった。
途方にくれた顔をしている古参の使用人に、みかねた尚隆が口添えをする。
「家公の我侭だ。許してやってくれ」
皆が一斉に尚隆に注目し、そして直ぐ使用人同士で顔を見合わせた。暫くして古参の使用人がおずおず申し出る。
「……では、私供も必ずお手伝いをさせて下さいましね」
「ええ、ええ、有難う。本当に有難う」
女の顔が一気に華やぐ。それを見た古参の使用人も、先程とは打って変わってにっこりと人好きのする笑顔を浮かべた。そして腕まくりをし、ぱんぱんっと両手を二度叩いて周囲の気合を入れる。
「これ、旦那様に
そうして独房は、俄かに活気付きだした。
「俺は、何をしたら良いのだ?」
尚隆が明るい調子で、話に加わろうとすると
「ああ、風漢さんはそこでゆっくり為さって下さいな。申し訳ないけどここは女手の方が助かるから」
張り切って仕切りだした古参の使用人が手をひらひらと振ってみせた。尚隆はおどけて笑うと、肩を殊更高く上げる仕草をしその様子を静かに見守る事にした。
「――ほぅら旦那様。左手の親指と薬指を一杯伸ばして人差し指と中指の四点でお子の頭を支えるんですよ。……そうそうお上手でございます」
女を優しくいたわる様に、古参の使用人の声が掛けられる。女の白い指先に、赤子の小さいながらもしっかりとした重みを感じる。
(これは命の重みだ)
女は感動に打ち震えていた。そしておぼつか無い動きではあったが、心を込めて赤子の身体を手巾で丁寧に拭っていた。湯気が立ち上り、沢山の人間が集い、独房は熱気に包まれている。だがそれはけして不快なものではなく、尚隆は喜びに包まれたその様子を目を細めて見ていた。
―この子に、当たり前の民の幸せを―
尚隆は考えていた。小さくても、ささやなながらでも、この上ない喜びが
この赤子にも……そして……。
尚隆の心に不意に郊祀で幾度も出会った雁州国の民が現れた。自分に対して、惜しみない賛美と期待に満ちた表情をくれた、名も知らぬだが尚隆にとって大切な者達。
(俺の所の民はくさらず喜びを見つけて活きているだろうか?俺はそれを助けてやれているだろうか?)
「俺は、俺で、自分のすべき事を邁進していかねば、な」
そう言って尚隆は改めて自身の居ずまいをゆるりと整えつつ女の生き生きした表情を楽しんだ。
すると尚隆の傍らに人影を感じた。
見ると、落ち着いた様な何かを吹っ切った様な面持ちの女の父親であった。
「――正直、私は心配していたのですよ。娘が独りで子を育てると言う事に。私は、あれには……娘には殊更弱いものですから、余計な事まで思い巡らす」
女の父親は、目線を女に向けたまま、ぽつり、ぽつり言葉を発す。
「娘は、最初にして最大に忘れる事の出来ない男に出会ってしまった。もう娘はそこいらの男では満足出来ない」
尚隆も目線はそのまま、しかし、ふっと表情を和らげた。
「あいつは一生添い遂げる可も不可も無い男に出会う前に、妖魔に心を食われてしまった……とでも言いたげでございますなお父上」
「まぁ、そうとって頂いても構いませんよ。何せあなた様は、私が思いもしない大物だった」
くつくつと、尚隆は喉の奥で笑いをかみ締めている。女の父親も、漸く尚隆と目を合わすと、
「今宵は、娘を持つ父の戯言とお許し下さいませ」
と深々と頭を垂れた。
女の父親は使用人が直ぐに用意した椅子に腰かけると、遠慮がちに尚隆の様子を眺めた。
前に会った時は、記憶が失われた風来坊としてだった。しかし女の父親にとって、尚隆はもう遠き天上人である。本来なら直接話をする事叶わぬ相手に、彼はどう対応してよいのか、恐れ戦いていた。そんな己を奮い立たせて、女の父親は話す。
「あなた様と強引に婚姻させた事、あれは良かった事なのかどうか私は迷いに迷いましてね。結局、あなた様と娘が離れて生きるという選択に、複雑さを隠し切れませんでした」
「……」
「しかし娘のあの表情を見て、私も考えが固まりました。『これで良かったのだ』と。どうですか。娘の誇らしげな匂いたつ位の『母』の表情を。あの赤子を全身全霊愛で満たそうとしている娘の顔を。……思えば数奇な
女の父親は椅子から降りると、尚隆の前で平伏する。
「……お、おい、何を為さるのだ、お父上」
尚隆が慌てて椅子から腰を浮かすが、女の父親の強い視線がそれを制した。
「お約束致します。娘とあの子の幸せの為に私は協力を惜しまない事を」
女の父親の固い誓いを目の当たりにし、尚隆は彼の思いをしっかりと心に刻み込んだ。
湯につかり身奇麗になった赤子を、女は満足げな表情で抱いて尚隆の下へと歩んでいった。細心の注意を払って、ゆっくりと尚隆に子を手渡す。赤子は十分に潤いを含み、柔らかく、暖かかった。尚隆は、何とも暖かいものが胸に広がっていくのを感じていた。
(これが、これが、俺の子……)
女は覗き込むと、自身の人差し指を赤子の小さな手に近付けていった。すると赤子は無意識のうちその指を握り返した。
「……見て。……ほら、この子が……私の指を握ってくれているのよ。……しっかりと、この、小さい手が。……ほら、ほら……」
とうとう女は涙交じりの声となり、尚隆や女の父親に必死に説明していた。
「ああ、そうだな」
尚隆は言葉少なげに、心に広がる思いを味わっていた。女の父親も何度も何度も頷いている。赤子を囲んで皆は胸の奥から突き上げる暖かくも心地よい優しさに包まれていた。
当然ゆっくりする事も間々ならず、尚隆は次の日玄英宮へと帰る事になった。
女が赤子に乳を飲ませている間に、尚隆と女の父親は談笑をする。
「そう言えば、先日はお手数をお掛けした」
尚隆が声を掛けると、女の父親は途端に慌てふためいた。
「あ、あの様な大それた事、今でもどきどきしております。劉王から親書が届いた時は、それはそれはがちがちに震えまして。……しかし、これで良かったか?私は、みすみす困っている者の手段の方法を、一つたってしまったのではないかと思いまして」
「……まぁ、あれのお陰で、私も柳北国民になれたのでしたな」
尚隆が付け加えると、女の父親はかぁっと顔を赤らめた。
「もうそれは、言わないで頂けませんか」
尚隆は面白そうに愛想のいい笑顔を浮かべていたが、ふっと真顔になるとこう言った。
「世の中どこまでも清廉潔白と言うのは、悲しいかな難しいものではないだろうか。これにどこで折り合いをつけるかがその国の明暗を分ける。あの一件以降のこの国の改革を傍観して感じたが、劉王はなかなかその辺りをわきまえている。俺でも、あそこまで細部に目の行き届いた法令が敷けるかどうか正直不安だ。とにかくあの王なら他にいい方法を見つけるでしょうよ。ご安心下さいませ、お父上」
尚隆は正直驚いていた。
女の父親の文書で概要は知っていたが、実際目にしてその法の整備が余りにも良く整えられていたからだ。
つい先日ここにいた時は、可も不可もない印象だった。下手すると危なげにも見えいつまでもつ事やらと冷視していた所もあった。しかし現在は違う。
(これなら、王は玉座に寝ていても、勝手に前に進むかも知れぬ)
尚隆は思っていた。
(その豹変振りが、気味悪くもないのだが。……まぁ、いいだろう。とにかく助露峰という人物侮れないな)
黙ってしまった尚隆を案じ、女の父親が声を掛ける。
「どうかされましたか?」
尚隆は意識を戻すと何事もなかったかのように微笑した。
暫くして女が赤子を抱いて現れた。
「お待たせ致しました」
尚隆はもう一度しっかりと赤子の姿を目に焼き付ける。
「昨日は幸せだった。そして俺は俺の道を、お前はお前の道を、誇りを持って歩く事が大事だと、改めて認識した。離れていても俺達は家族だ。お互い遠い地ではあるけれど。俺はお前をこの子を想っている。だから寂しがるな」
尚隆がきっぱりと告げると、女の髪をくしゃりと撫でた。赤子は腹が満たされ満足しているのだろう。ころころとあどけない笑顔を見せている。
尚隆は趨虞に飛び乗ると、趨虞はふわりと地上から浮き空高く上がっていった。その後姿に女は一抹の寂しさを感じたが、すぐに抱いた我が子との希望ある明日を夢見て、凛々しくも華やかな笑顔で尚隆を見送った。
独り言
…と、いう訳で、とうとう原作にも謎のお人とされる劉王、助露峰を登場させたばかりか捏造致しました。
「帰山」での尚隆・利広の見解を、強引に話の中にねじ込んでみたり。遊び過ぎですか?…ですね。何分愛ゆえの戯言です。平に平にご容赦下さいませ。