秘め事 第六話

翌朝、陽子は遠甫の講義を受けていた。

陽子が登極し、間も無く十年が近づこうとしている。

それでも陽子は、まだまだ教えて頂きたい事があると、時間を見つけては

遠甫の元を尋ねていた。

「今日は話に身が入っていないようじゃの。それでは、この時間、苦痛でしか

あるまいて。…止めにするかの?」

「あっ、いいえ、その。…申し訳、ございません。折角お時間を作って下さっていると

いうのに、私は」

「ほほっ、よいよい。こうして、陽子と話をする事は、儂の楽しみじゃから。

いくらでも、暇は作るが、今日の陽子はちょっと違うの。言って楽になるという事もある。

及ばせながら、この老いぼれに、こぼして貰えないだろうか?」

世話係の女官に茶を入れる様促し、遠甫は自身の髭に手をかけた。

「見れば、いつもよりさらに華やいだ様に見受けられるが、何か想いが通じたの

だろうか?のう、陽子」

湯気の立ち上る茶を啜ろうとした、陽子は、思わず吹き出しそうになる。

そうして瞳を濁らせると、遠甫の筋張った掌を見つめた。

まともに直視出来なかったといった方が適当か。

「いいえ。いいえ。何も、何も起こってはおりません」

消え入るほど小さな声で呟く陽子。

遠甫はちらりと女官を見やると、

「庭にでも出て、風にあたろうかの」

そう言って、陽子と二人きりになる機会を与えた。




「とうとう踏み込んでしまわれたか」

陽子の前を歩き、庭の草花を眺めていた遠甫は、振り向きもせず、そう言った。

「何時かはそうなるのではあるまいかと、考えを巡らせ気をもんでおったが、

…そう、か。とうとう、見つけたのですな、陽子の拠り所を」

しかし、そこは他人を蹴落としてまで、欲しがる場所ではなかった。

「私には無理だ。あの家族を不幸にして、私だけ幸せで在りたいとは思えないんだ。

だから、想いを止めたいと思う」

「ほうっ」

陽子の決意を聞きつつ、遠甫はまだ何かを陽子に求めようとする。

「陽子がそれで納得が出来るなら、問題は解決じゃの。これ以上儂が何か言う事も

あるまい。ただ、納得出来ればの話じゃが。だが、それで陽子は我慢できるのか?

これから、飽きるほどの長きに渡り、その決断と共に生きねばならぬ。

生半可な納得の仕方では、その内、ぼろが出ますぞ」

遠甫の見透かした鋭い視線に、陽子は怯えた。

そして、じわりと涙を浮かべると、せきを切った様に告白する。

「あぁ、私は何時でもそうなんだ。正しくあろうと、自分の本心をひた隠しに

してしまう。あなたの仰る通りです、遠甫。頭では分かっている。

あの人を不幸にしてはいけないと思っているのに、心がまだ落ち着かないんだ。

《奪え》《自分の欲望を追求しろ》と、あなたが聞けば、目を覆いたくなるほど

恥ずかしい事を、私は考えてしまう。知ってしまった快楽無しに、私は生きてこれるのか?

やっと見つけた拠り所を、離してしまって、私は孤独に耐えられるのか?

…孤独が怖い。

一時でも寄り添う事を覚えてしまった私は、不安で堪らない。

どうすればいい。どう、納得すれば楽になれるんだ!」

そして、泣き崩れる。遠甫は、ただじっと陽子が落ち着くのを待っていた。

どれ位の時間が過ぎようか。

漸く静まり返ったのを見計らって、静かに話し出す。

「孤独とは、二つ意味があっての。

一つは社会から隔絶した《ひとりぼっち》の状態で、寂しく悲しい否定的なもの。

もう一つは、一人になる事で、自分らしくあるための、勇気をわき立たせ、

己の無限の力、その原動力を無意識に発酵させる肯定的なものとがある。

陽子が育ってきた環境は、あくまで儂の想像じゃが、協調性を大切にするあまり、

肯定的な方の意識が、あまり育たなかった様に思うのじゃ。

《孤独を楽しむ》という事に慣れていないのかも知れぬ。

だから、孤独と言うと、恐怖におののく。言いようのない不安が侵食する。

のう、陽子、孤独を楽しみなさい。これから飽きるほど長い間、健やかに生き続け、

生きる事が民の幸せにも繋がる陽子には、必ず必要な事じゃ」

遠甫の言葉が陽子の心に染み渡る。

「…孤独を楽しむ…」

「そう。《馴れ合い》はとても捨てきれぬ、ぬるい薬湯の様じゃ。一度知れば、

そのあまりにもの心地よさに、なかなか出てこれまい。しかし、これは危険な事じゃぞ。

一緒に志を高めあえればいいが、間違えば、共倒れになる。一方《孤独を楽しむ》事は、

常に自分と向き合える。本当の心の声を聞き、人とは違う本当の自分の考えを持ち、

決断する力を与えてくれる。

儂はな、陽子。そなたには、まず、《孤独を楽しむ》事を覚えて欲しい。

その為には今回の事、流して貰えはしないだろうか?」

遠甫の話は、陽子の心に刺さっていた刺が、はたはたと抜かれる様な感覚だった。

「これで納得が出来る。私は強く生きられる」

陽子はそう呟いた。

「陽子。浩瀚との出会い、浩瀚と想いを交わした事を、後悔してはなるまいよ。

それが、あって初めて今の陽子がいる。浩瀚と出会った時期が遅かった等と、

詮方なしな事も思うでないぞ。陽子が大きく成長するには、必要な事だったかも知れぬ」

「遠甫、私がどうして浩瀚と、その…」

「これでも儂は人よりも、ちいとばかり長生きなものでな。多少の事は想像がつく。

これも、日頃、孤独を楽しんでいるからかも知れぬの」

遠甫は髭を整えながら、密やかに笑う。

その穏やかな様子が、陽子には有難い。

「有難うございます」

陽子は自然と(こうべ)を垂れた。




遠甫との話を終え、陽子はある者に会うべく、回廊を歩いていた。

途中、桓堆とすれ違う。

「桓堆。浩瀚を見かけなかったか?」

「只今、浩瀚様とは、今後の軍の整備についてお話を受けておりました。

冢宰府にいらっしゃるのではないでしょうか?

…主上、そのお持ちになっておられる文箱は?」

「うん、浩瀚が落としていった物だ。大事な物だからな、届けようと思って。

そうだ、桓堆、先日はいい気晴らしになったよ。有難う。又、連れて行ってくれるか?」

「…え、えぇ。結構ですとも」

陽子が何時もと様子が違うのを、桓堆は見逃さなかった。

「主上、何かお決めになったのでございますね。」

すると陽子は、切ない顔をしながら答えた。

「お前にはすべてお見通しなんだな。あぁ、そうだよ。私なりの答えだ。

…桓堆には悪いが、私は想う事を止めにするよ。これから、あの人を特別な目では見ない」

予想してもいない答えだった。

あれだけ、想いが溢れて苦しそうだった陽子が、その想いを絶つと言う。

それがどれほど苦しい事なのか。

しかし、目の前の陽子にそれに対する迷いというものがない。

桓堆は、陽子の強い精神力に言葉もなかった。


『やはり、この方は俺とは違うのだ。俺はあなたの足元にも及ばない』


慶に新王が立ったと聞いた時、これで慶は安定すると思った。

しかし、何も変化が起きない事に、何より桓堆の尊敬する者を罷免するという、

呆れた決断に失望した事もあった。

『王が代わっても、又、同じなのか?このまま慶は荒れたままなのか?』

そんな時出会った男勝りな少女に、桓堆はどれだけ勇気付けられたか。


「行動を起こさねば、何も変わらない。自分のしている事は間違ってはいない」


少女の内から輝く気というものに、引き寄せられた。

そして、魅了され、忘れられなかった。

『俺はこれを特別な感情、…そう、つまり、恋と思ってしまったのではないか?』

内から輝く気は、王だけが持つ事を許される、王気だ。

生き生きとこの少女の回りを包む、王気を目の当たりにして、心奪わぬ者はいない。

『そんなあなたに、俺は悪戯に触れてはならない。ただ、あなたに俺のすべてを

かけるのみ。俺が大切に思う慶の、玉座を天から授かったあなたの為に』

「さようでございますか。あなたが決めた事だ。私はあなたの考えには何も言いませんよ。

すべては、あなたの思うままに」

そう言い残し、桓堆はその場を去っていった。




「浩瀚。今、いいだろうか?」

陽子が扉の前で告げると、暫くして浩瀚が扉を開いた。

「実は前にお前がこれを落としていって。大切な物だろう。無くしてしまっては

いけない物だ」

陽子は、持ってきた文箱を浩瀚に渡す。

浩瀚はおもむろに文箱を空け、中身を確認する。

「…これを、ご覧になりましたか?」

文箱に入っていた書付に目を落としたまま、落ち着いた声で浩瀚は話す。

その様子を眺めながら、陽子は二人にとって重大な言葉を紡ごうとした。


―共に恋には溺れられない―


しかし又も浩瀚によって、陽子はその言葉を言わせて貰えなかった。

「主上、私からお話させて頂けませんか。」

浩瀚は陽子の瞳をじっと見据えると、静かに、だが重い声音で話し出した。

「一度しか申しません。私は恋に落ちた。初めて、身体も心もすべてを独占したい相手に

出会いました。

あなたを、お慕い申しておりました。

一度はすべてを捨てる覚悟もしました。しかし、私にはどうしても、まだ、

捨てられない者達がいる。

あなたを愛している。だが、あなたの愛は受け入れられない。

勝手な私をどうか許して下さい」

陽子は涙が零れた。

浩瀚は共に棘の道に進もうと決めた時も、言えば大きな責任を背負うであろう言葉を、

自ら被ろうとした。

そして、今、決別の言葉を発している。

言われるより、言う方が辛い。ましてや、想いが通じていれば尚更だ。

愛しているのに、想いを止めなければならぬ。

そのきつい言葉を、彼は身を切られる思いで口にする。


―すべては陽子がこれ以上傷付かない様にする為―


それが伝わるから陽子は泣けてくる。

「私が、私が、こんな感情を持たなければ、浩瀚に辛い思いをさせなかった。

私が、悪いのだ」

「それは違う。あなたがどう思おうとも、私は何時かあなたとの恋に落ちた、

そう、思います。だから、どうぞ、ご自分を責めないで頂きたい」

浩瀚は、涙を必死に堪える陽子の肩を抱こうとして手を伸ばし、そして止めた。

そのまま一歩下がると、膝をつき礼をとる。

「あなたを《未完の華》だと思っておりました私を、どうかお許し下さいませ。

恋をすれば人間的にも大きく成長し、華開くだろう等と、私はなんと見識の浅い、愚弄な事を。

あなたは違う。

あなたは、もうそこにいるだけで十分に輝く事が出来るお方。

ご自分で悩み、苦しみ、そこから解決策を見出し、喜びに変える事の出来る立派な華で

ございます。さぁ、慶の沢山の民の為に、その輝きを、愛を、お与え下さいませ」

陽子は、浩瀚のその態度で、これから自分と浩瀚が接する位置を察した。

『ならば、私は…』

陽子は凛とした表情を見せる。

それはもう、恋に悩み苦しむ少女の表情ではない。

一国を統治する、王の顔。

「分かった」

陽子は一言そう告げ、礼をとる浩瀚の前を、静かに歩き出した。




陽子の気配が感じられなくなると、浩瀚は立ち上がり、残された書付と、文箱に

目を落とす。


「大切な物だろう。無くしてしまってはいけない物だ」


陽子の一言が思い出される。

『そう、私には大切な物。この秘めた想いを手放さなければならぬほど、

無くなっては困る物だ』

浩瀚は書付を丁寧に折り込み、官服の袂にしまい込んだ。


























































































































































































































































































































































































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2004.7.初稿

素材提供 篝火幻燈さま
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