秘め事 第五話

浩瀚はある決意を胸に自宅へと戻った。

浩瀚の妻は、これまでと変わらず朝餉を作り、浩瀚を迎え入れた。

本当はあまり食事は進まなかったのだが、せっかく彼女が用意したものだ。

少しでも口にしようと浩瀚は箸を進めた。

浩瀚はこれから話す事をどう切り出していいものか、考えあぐねていた。

何時もなら「お父ちゃまぁ」と言って飛びついてくる我が子が、今日はいない。

「…おはよう。あの子は、今日は如何した?」

何とか朝餉を胃に押し込み、浩瀚は先ほどから気になっている事を聞く。

「ええ、母の家に一晩泊まっております」

浩瀚の妻は、淡々と暖かい茶を器に注いでくれた。

「そう。…実は、お前に聞いて貰いたい事があるんだ」

「私も、あなたにお話したい事がございます」

そう言うと浩瀚の妻は、ゆっくりと茶器を置き、次には床に平伏(ひれふ)す形をとった。

その様子に浩瀚は驚いた。そして、浩瀚の妻の次の話に、浩瀚は言葉を失った。

「私はあなたを裏切ってしまいました。この罪は如何様にも受けましょう」

浩瀚は彼女の思いもしなかった話に、自分がこれから話そうとしていた事は、

すっかり吹っ飛んだ。

そして、眩暈が出そうになるのを必死に堪え、理由を尋ねる。

「如何いう事なんだ。裏切りとは何なのだ。一体何をしてしまったのだ」

「あぁ、あなた。私はあなたを愛しております。しかし、私はとんでもない事を。

もう、如何していいか…」

平伏したまま、一向にその場から動こうとしない浩瀚の妻。

浩瀚は彼女の傍へ駆け寄り、とにかく椅子に座って貰おうと抱き抱える。

そして、見つけてしまった。

浩瀚の妻の首筋の一番柔らかい所に、赤く刻まれた刻印を。

浩瀚の妻は、はっとして、それを思わず手で隠そうとする。

それを浩瀚が遮断した。

「虫にでも刺されたのか?…そうではあるまい。まさか、お前が犯した罪というのは

…そう言う事か?」

「私は、私は、なんと言う事を!」

浩瀚の妻は泣き叫んだ。




浩瀚は目の前にある現実が把握しきれずにいた。

信じられなかった。

この女はそういう事はしないと、理由なき自信が浩瀚にはあった。

しかし、自分だけを見つめていた妻は、二度と消えぬ間違いを、よりにもよって、昨晩、

犯してしまった。

『天は私に如何しろと仰っておられるのだ』

偶然と呼ぶには笑えない現実だった。

浩瀚も又、妻を裏切り、陽子と想いを交わしてしまった。

幸いにも妻は、己の告白で頭が一杯で、浩瀚の微妙な変化、それは少し髪が乱れ

額に数本垂れ下がっている事や、多少は残る汗や他の香の匂い等は、気が付かないでいた。

それを何処かほっと安心している自分が、浩瀚は滑稽だと思った。

そして、考える。

彼は、今日、浩瀚の妻に、別れてほしいと言うつもりだったのだ。

ならばこの状況、浩瀚にとって見れば、渡りに船ではないのであろうか。

こちらの事はこの際黙っていても、差し障りがない様な気がする。

卑怯だと言われようが、自分が不利になる事は、わざわざ話す事もあるまい。

不貞を働いた妻に愛想を尽かし、引導を渡す夫。

…そうだ、それでいい。

しかし、何故か拭えない疑問が、浩瀚の頭をもたげていた。

浩瀚は妻を大切にしてきたつもりだ。

妻も可愛らしい子供を設け、穏やかな生活に満足していたのではなかったか。

『私達はそれなりに上手くやってきたつもりだ。それは私の驕りだったのか?

納得が出来ない。彼女に何が起こったんだ』

浩瀚は恐ろしいほど落ち着いた口調で話をした。

「とにかく、座りなさい。そして、茶を飲むといい。しかし落ち着いたら、

話してくれるね。お前が何故そうしなければならなかったか」

目を腫らし、肩を痙攣しながら浩瀚の妻は、震える手で器を手に取る。

彼女はカタカタ揺れる器をどうにかこうにか持ち、ゆっくり茶を口に運ぶと、

大きく深呼吸した。

そして、ぽつり、ぽつり、話し出す。




「あなたはお気付きでしたか?

私がどんなに寂しく、心が満たされていなかった事を。

あなたと私とはなかなか二人の時間が取れなかった。

それはあなたがお忙しいから。

でも、短い時間でも、あなたの確かな想いが感じられていれば、私は満足だった。

なのに、私のほしい想いをあなたは与えてくれなかった。

あなたはお優しいお方。

どんなに激務で疲れていようとも、良き夫でいてくれた。

でも、私は気が付いてしまった。

あなたは良き夫、良き父を演じていると。

あなたは私に一度たりとも、心を開いて下さいましたか?

愛していると心の中心からほとばしる想いを、私に感じて下さいましたか?

あなたの愛情表現は何処か他人行儀だった。

私を見つめて下さる目も、その奥では違う所を見ている。

私を愛しむ指先も、そこに熱い情熱を感じない。

昨日私はある男と出会いました。

その人は私をずっと想い続けていたと言っていた。

あの人は私を真っ直ぐ見てくれる。

あの人は私を全身全霊で愛しんでくれる。

私は昨日初めて、心から誰かに愛されていると感じたのかも知れません」


言われて浩瀚は、じっと俯くしかなかった。

「言い当てられている」そう思った。


『お前には今まで一度も激しい愛染(あいぜん)(むさぼり愛する事。煩悩)を感じた事がない』


嫌いではない。だが、これと言って胸がざわつくほど、惹かれる事もない。

しかし、彼女の穏やかさ、大きな優しさが、政務で疲れた浩瀚の心を幾分癒してくれた。

今はそれでいいと思った。

長い時間の中、何時かは彼女を心から欲する日もこよう。

そうして二人は夫婦になった。

しかし、何時までたっても、浩瀚は彼女に対して激情する想いを抱けない。

だが、家族としては最高の人物である。

浩瀚は浩瀚の精一杯で彼女を大切にしたつもりだった。


『きっと私はそういう感情が稀薄なのだろう』


浩瀚はそう自分に納得をつけていた。

しかし、陽子に出会って、それが間違いであると気付いた。

あんなに淡白だった自分が、陽子を思うだけで、胸が熱く滾る。

陽子をこの腕に抱き、陽子の唇を奪い、すべてを自分の物に。

自分にこんな感情がある事に浩瀚は驚いた。


『私は初めて、本当の恋を知ったのかも知れぬ』


浩瀚の妻は、浩瀚の微妙な心の動きを、なんとなく感じてしまっていたのだろう。

だから、妻として大切にされている筈なのに、どこか心が満たされなかった。

そして、それが何なのか知らぬまま、人知れず苦しみ、そしてその苦しみから

逃れ様と罪を犯してしまった。

『すべての責任は私にある』




二人の間には沈黙が続いた。浩瀚がその沈黙を破った。

「それで、お前はこれから如何したい?」

酷く意地の悪い質問だと思った。だが、浩瀚には他に言葉が見つからなかった。

妻は瞳に涙を溜めると、嗚咽交じりの声でこう言った。

「でも、一時は満たされても、後に残るのは空しさだけだった。

声が違うの。指が違う。身体の体温が違うの。

あなたじゃないと、私は駄目。

あなたが私を心から想ってくれなくても、いいの。私は、あなたしか!

…めちゃくちゃな事を言っているのは分かっている。あなたを裏切っておいで、

なんと虫のいい話を。

でも、お願い。私を少しでもいいから見て。心を開いて頂戴。私はあなたと

これからも一緒に歩んで生きたいの」




浩瀚の妻は思い出していた。明け方の出来事を。

浩瀚の妻がのろのろと目を覚ますと、男が背を向け、静かな寝息を立てていた。

浩瀚の妻は寝ていると分かっていて、小さな声で話し出した。

「私はあなたに激しい愛を頂いたわ。それで私は一瞬救われた気がしたの。本当よ。

でも、すぐにさらさらと消えていってしまった。そして、残ったのは空しさだけ。

ごめんなさい。あなたとこうなってしまってから、私は自分の想いを認識してしまった。

やはり、私にはあの人だけ。これからあの人にどう思われようとも、

この想いは止められないの」

男は微動だにして動かない。

「さようなら。あなたに会えた事、後悔はしない。でも、もう二度と会わないでしょう」

すると掠れた声が聞こえた。

「君は多分夢を見ていたのでしょう。俺達の間には何もなかった。ただ、昔話に、

はながさいて、遅くまで話込んでしまった。それだけだ。さようなら。

会う事はもうないだろう。…君の幸せを心から願っているよ」

男は背を向けたまま、こちらを見ようともしない。

男のその姿、その言葉に、浩瀚の妻は胸が締め付けられた。

「ごめん。ごめんなさい」

彼女は、男の背をふわりと抱きしめると、すぐ舎館を出て行った。




「どうか、お傍において下さいませ。私は、あなたが、あなただけがすべてなの」

食卓に突っ伏してすすり泣く彼女を見て、浩瀚は複雑な思いが交錯した。

このまま、ならぬと、お前とは暮らせぬと言ってしまえば、浩瀚はなんの障害もなく、

あの方―主上のお傍へ行ける。

しかし、肩を震わせ消え入りそうな浩瀚の妻に、目が釘付けになる。


『このままお前を残しては行けない』


『お前はよき妻でいてくれる。よき母でいてくれる。私はそれにすっかり甘え、

それが当たり前になって、お前の真の熱い情熱に気付かないでいた。

お前は私を疑いもせず愛してくれていた。愛ゆえに自分の本心をも隠してしまった。

《もっと自分を見てほしい》《もっと心を開いてほしい》

そんな鬱積した想いを持て余し、ついに罪に落ちてしまった。

そして、黙っていれば事が済むかもしれぬのを、あえて私に告白した。そうまでして、

お前は初めて己のすべての感情を、私にさらけ出した。

それはどれだけ勇気のいる事だろう』

浩瀚は改めて妻をまじまじと見つめた。

そして、ぞくっとした感情が起こる。


『お前はこんなにも色気のある女性だったか?』


涙に濡れる瞳が美しい。

必死に浩瀚に縋る、妻の唇が愛しい。


『こんな状況で何を思うのだ、私は』


陽子を愛している。自分でも驚くほどの激しい愛染を陽子に感じる。

しかし、長年連れ添ってきた妻の、慣れた身体の温かさ、肌の柔らかさが、

忘れられない。


『何ということだ』


浩瀚は己の心の動きに頭を抱え込んでしまった。


『…捨てられぬ…』


優柔不断と笑えばいい。意思のない男だと蔑めばいい。

しかし浩瀚は、今、ようやく、妻を正面から受け止められた気がしているのだ。

なのに、このまま二人の関係を終わらす訳にはいかない。

まだ、妻を残して次へはいけないと、浩瀚は思い始めていた。




すると入り口から

「ただいまぁ」

と、元気のいい息子の声が聞こえてきた。

「お父ちゃまお帰りなさい。あっ、お母ちゃま、如何したの?まさか、お父ちゃまに

いじめられたの?」

「違う、違うのよ。あの、これはね…」

浩瀚の妻が一生懸命取り繕うとする。

その様子を浩瀚は、じっと眺めていた。

そして、ある決断をする。

「お母ちゃまは、お前が一晩いない事がとても寂しかったらしい。お父ちゃまも、

昨日は留守でな。お母ちゃまは、それはそれは辛かったそうだ。

だから、これからお父ちゃまは、ずっと傍にいるから大丈夫だと伝えていた所だ」

それを聞いた浩瀚の妻は、はっと顔をあげると、次には又泣き出す。

息子はおろおろ困っている。


『あぁ主上、やはり私は…』


浩瀚は己に初めて芽生えた愛染よりも、長年連れ添った労りの深さを選ぼうと

していた。



























































































































































































































































































































































































































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2004.7.初稿

素材提供 篝火幻燈さま
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