秘め事 第四話

浩瀚の妻が目を開けると、見慣れない堂福(かけじく)供案(かざりだな)が設えてある、一室にいた。

『あら、嫌だ。どうも、眠っていたみたい。でも、如何して…』

ぼんやりと考えながら、浩瀚の妻は背筋が冷えていくのを感じた。

数刻前、妻はある男との再会を果たした。

幼い頃よく遊んでいた、幼馴染の様な存在。

男は人懐こい気性で、最初は固くなっていた妻も、自然と昔の話等で

盛り上がったのを覚えている。

久しぶりに気楽な気持ちになった。

めったに飲まない酒を楽しんだ。

『そして、私は、まさか、そんな…』

浩瀚の妻は急いで自分の衣服の袂を確かめた。

『大丈夫。恐れていた事は、何もない』

確証はなかったが、直感的にそう思った。

安心したのか、浩瀚の妻は、自分の額に水で冷やされた手巾(てぬぐい)がのせてある事に気が付いた。

それを手で抑えながら、重い体をそっと起き上げる。

窓辺には、あの男が、月明かりを肴に、酒を飲んでいる。

男は紀州で射士をしていると言っていた。

射士とは、州夏官で、貴人の身辺警護が主な仕事である。

青白く照らされた男のよく引き締まった身体から、普段より鍛錬を積んでいるで

あろう事が予想される。

男はちらりとこちらを振り向いた。そして、目を細めると

「あぁ気が付いた」

そう言って、椅子から立ち上がった。

「あの、私…」

「安心して。君が心配する様な事はしていないから。君が急に気分が悪くなった

みたいでさぁ。悪いとは思ったんだが、このまま放って置く訳にもいかず、近くの舎館(やどや)

連れて来てしまった。…さて、気がついた事だし、俺は帰るよ。君は今日はここでゆっくり

眠るといい」

「待って」

何故止めたのだろうか。浩瀚の妻は自分がとった行動に驚いた。

ただ、この異様に大きく膨れ上がる寂しさの渦に飲み込まれるのが、ひどく

恐ろしかった。

「お願い、一人にしないで」

男は目を丸めたが、すぐに何事もない表情に戻すと、

「水でも飲む?」

と言って、水差しの水を差し出した。

酒はひどく喉が乾くものなのだ、と浩瀚の妻はこの時思った。

水を口に含むと、食道に、胃に、冷やりとした感覚が伝う。

そうして浩瀚の妻は少しだけ落ち着くと、改めて自分の行動を恥じた。

『私はこの人に一体何を求めているのだろう。私のこの気持ちは一体何なのだ。

浩瀚様は私を大切にしてくれている。それは十分過ぎるほど分かっているのに、

まだ足りないと言うのか。

私と浩瀚様がなかなか二人の時間が取れぬのは、彼が忙しいからだ。

それ以外に理由はない筈。

一生懸命自国の発展の為に尽くす浩瀚様を、私は妻として守り立て、じっと

待たねばならぬのに…』

刹那、浩瀚の妻は己の唇に、ふわりと酒の香りの残る男の唇が重ねられた事に、

衝撃を感じた。

逃げ様と身をよじったが、男の手が浩瀚の妻を捕らえて離さない。

「…」

数秒の出来事だった。

浩瀚の妻の唇が解放されると、押し殺した低い声が聞こえた。

「そんな顔をするなよ。そんな目をするな。…歯止めがきかなくなってしまう」

気付くと、男が俯いて拳をぎゅっと握り締めている。

『あぁ、彼も今、自分の行動を恥じているのだ』

そう思うと、浩瀚の妻はひどく申し訳なく感じた。

「君はもう他の人の奥方様なんだ。そう自分に言い聞かせてきた。なのに、こんな所で

偶然再会した。君は前よりも魅力的な女性になった。もう抑え切れなかった。

声を掛けずにはいられなかったんだ。…でも、信じてくれ。ただ話をしたかっただけだ。

こんな事がしたかったんじゃあない」

男の様子を見て、女の中で何かが弾けた。

「一人で後悔しないで。罪は私も同じ。あなたに何かを求めてしまった。

夫がいるのに、息子がいるのに。人が羨む様な穏やかな家庭。

それを持てた私は十分幸せよ。それは分かっている、分かっているのに…」


『この寂しさは何なのだ』


男は驚いて浩瀚の妻を見る。

そして何かを決心したのか、おずおずと手を差し出すと、浩瀚の妻の手を包み込んだ。

「俺で君の気持ちが少しでも楽になるなら、…手を貸そうか?」




臥牀の上に二人は横たわっていた。

『今、私は、とんでもない事をしている』

浩瀚の妻は、そう考えると、小刻みに震えた。

覚悟を決めた筈なのに、男の日焼けしたよく引き締まった胸板を目の当たりにすると、

身体が堅くなる。

男は浩瀚の妻の様子を見て、彼女の両目を右手全体で覆い、自身の顔を近付けると、

耳元で囁く。


「目を閉じておいでよ。顔は彼と違うから」




それは、女がこれまで知るどんな日をも凌ぐ、熱い汗と息遣いだった。

自分がしている事への罪悪感が、さらに浩瀚の妻の気持ちを高ぶらせる。

慣れ親しんだ指とは違う、男の指の動き。

しかし男なりに丁寧に愛してくれる事に、浩瀚の妻は何時しかほっと安堵の気持ちが

広がっていく。

『これが仮初であろうとも、すべてが泡となって消え様とも、今、確実に私は

寂しさから逃れられている』

目を閉じると感覚が研ぎ澄まされていく。

そして浩瀚の妻は聞いてしまった。男の切ない一言を。

「好きだったんだ。ずっと忘れられなかったんだ」

思わず目を開けると、男の右腕が見えた。

薄くともはっきり刻まれた、幼い頃の傷跡。

『あぁ、そうか。そういう事だったんだ』

浩瀚の妻は男の積年の想いを感じ、涙が零れる。

『ごめんなさい。あなたの想いを、こんな形で利用してしまった。

そして浩瀚様、私はあなたを心から愛しているのに、裏切ってしまった。

自分の寂しさを満たす為に。こんな愚かな私を、あなたは一体如何思うだろう』


―もう、今までの様にはいかない―


悲しいほどの現実に、浩瀚の妻は両手で顔を覆い、ただただ涙するのだった。




陽子は自分の想いを持て余し始めていた。

忘れよう、消し去ろうとするのに、想いは増幅するばかり。

一時は、想う事を止めなくともよいと諭された事もあった。

しかし行く宛てのない想いを抱える事の、なんと辛い事か。

その上、想い人は、自分を避けている感がある。

『如何してこんな事になったのか』

気付けば浩瀚は、何時も陽子の傍にいた。

陽子よりも遥かに沢山の人生経験を積み、物事の良し悪しを見極める目に長けた男は、

それをけしてひけらかす事無く、常に陽子を庇い、陽子の影になって支えてくれていた。

そんな浩瀚を陽子が惹かれない訳はなかったのだ。

陽子は悩んだ。このまま思い続けてもいいものだろうか。

しかし彼の表情、彼の声音、彼の仕草、それを見ているだけで、想いが溢れて

押し潰されそうだった。

『もう耐えられない』

陽子はこの秘めた想いに一応のけじめをつけなければいけないと、思い始めていた。




ある日、いつもの様に、浩瀚は正殿にて陽子に政務について報告をする。

一通り終えた後、陽子は覚悟を決めた。

「浩瀚。お前に言っておきたい事がある」

だが、その先は浩瀚の静止によって阻まれた。

「それ以上は仰いますな」

「如何して!浩瀚は如何して、そうはぐらかすんだ。もう、私は自分を偽る事が出来ない。

苦しいのだ。これは浩瀚を悪戯に困らす事になるだけなのは知っている。

けれど、もう、私は、駄目なんだ」

陽子は、泣きそうな様子で必死に訴えた。

実は、浩瀚も思い悩んでいた。心に改めて誓いをたて、陽子を近づけまいとした。

しかしそうまでして、止め様とすればするほど、あの至極の瞳が忘れられない。

緋色の髪に絡められるが如く、浩瀚の心には陽子が侵食していった。


『これまでか』


浩瀚は恐る恐る陽子の肩に触れると、次は意を決した様に、己の懐に招き入れた。

「主上。これから、私達が踏み込む世界は、必ず誰かを傷付ける所でございます。

そのお覚悟は出来てございますか。一度入れば、もう後戻りはきかぬ。

それでも、よろしゅうございますか」

「うん、分かっている。分かっているが、もう、止められないんだ」

陽子は泣きながら、浩瀚にしがみつく。

「お気持ちは分かりました。ですが、お願いがございます。

今、主上が仰ろうとなさった言葉は、この浩瀚に言わせて頂きたい。

それは私達にとって罪を背負う言葉になる。罪は少しでも私が被ればよい」


―共に恋に溺れましょう―




浩瀚は己の懐に入れた想い人が、かたかた震えているのを知った。

「…恐ろしゅう、ございますか?」

陽子は、思わず身体を硬くした。

浩瀚が今までになく艶やかな声を発している事に戸惑っているのだ。

「は、初めてなんだ」

「何が?」

聞いたとて何か変わるわけでもないのに、つい言葉にしてしまう。

「こうして男の人の胸の中にいる事が…その…初めてで。私は、そういう事には

疎かったから…」

『なんて暑いんだろう、ここは』

浩瀚の熱がじりじりと陽子の心を溶かそうとする。

陽子自身も身体に熱を帯び、立っているのがやっとである。

浩瀚はそんな陽子の顔を上向かせる。

「もう一度お聞きします。お覚悟は宜しいか?」

陽子は返事をする代わり、瞳をそっと閉じた。

その姿に、熱によって漂う甘い香りに、浩瀚の何かが完全に外された。

浩瀚は陽子に口付ける。

最初は軽く触れるだけの口付けを。

そして、陽子がうっとりと、唇が開かれるのを見計らって、そっと口内に進入する。

陽子は本当に初めてなのだろう。又も身を硬くし、緊張の色をみせている。

ふっと、浩瀚は唇を離すと

「大丈夫。私にすべてをお預け下さいませ」

と言って、抱く腕に力を込めた。

陽子は小さく頷くと、今度は自ら浩瀚の唇を奪う。恐る恐る、しかし確実に。

陽子に唇を触れられただけで、浩瀚の胸は高鳴った。そして、思う。


『あぁ、私はついに恋をしてしまった。あなたに踏み込み、どんどん溺れて行く』




牀榻まできて、陽子はこれから始まる事への、訳のわからない不安に思わず、

両腕を抱いた。

浩瀚はあえて何も言わず、後ろからその小さな肩に腕を纏わせ、少し緩んだ官服に

手を差し入れる。

陽子はぐっと目を閉じて、浩瀚の次の行動を待っている。

もう片方の手で、浩瀚は陽子の官服を器用に緩めていくと、重厚感のあるそれは、

どさりと音をたて、陽子の身体から剥がれ落ちた。

そうして、そのまま陽子を牀榻に倒し、浩瀚も又、するすると自身の官服を脱いでいく。

牀榻に広がる緋色の髪、引き締まった身体、浩瀚を頼りなげに見る翠玉の瞳、

どれも、浩瀚が初めて心から欲しいと願ったものだった。

『しかし、それは生涯適わぬと決めていた。それが、今、手に入る。

あなたを我がものに出来るなら、この先待ち受ける苦悩も喜んで引き受けよう』

その時、浩瀚はただ、目の前にある甘美な果実にも似た想い人を、貪り尽くす事だけ

考えていた。

『出来るだけたっぷりと。すべての想いをあなたの為に…』

先ずは、香りたつ首筋に舌を這わす。それだけで陽子の身体は跳ねた。

すかさず浩瀚は、形のよい胸のふくらみを、円を描く様に掌で弄ぶ。

「…ん、んふぅ…あっ…」

思わず出てしまった、己の艶やかな声音に、陽子は、はっとし、唇をかみ締めた。

その様子を浩瀚は見逃さない。

「…我慢、なさいますな。あなたのお心のままに…自由に。

…私に、その声を、愛しくてたまらない声を…」

言うが早いか、浩瀚はぴったりと閉じた陽子の両脚に手を割りこませ、

蜜で潤んだ中心を撫で上げた。


「お聞かせ下さいませ」




陽子が目を覚ますと、浩瀚はすでに身支度を整え、傍らに控えていた。

先ほどの、けして荒々しくはないが、深く、優しい、情愛に満ちた彼とは打って変わって、

そこにはいつもの、冷静で静かな浩瀚の姿があった。

浩瀚は何か思いつめていた様で、陽子が目を覚ました事をすぐには把握出来ないでいた。

「浩瀚?」

陽子が問い掛けると、浩瀚はこちらに気付き、ふっと笑みを零す。

「お目覚めでございますか?」

「あぁ…うん。そのう…浩瀚?」

思い出すと恥ずかしいのか、顔を隠そうと、陽子は衾褥をたくし上げる。

そんな陽子がかわいいと思う。そして、改めて心に決めた。


『私は、けじめをつけなければならぬ』


それは、浩瀚にとって、心に重い鉛の様にずっと抱えたものだった。

浩瀚には妻や子がいる。

その幸せは、出来れば無くしてしまいたくないものだった。

だから、己の浅ましさを呪い、踏み止まろうとし、陽子を故意に遠ざけ様とした

事もあった。

だが、もう覚悟を決めた。

陽子と共に恋に溺れるなら、はっきりさせなければいけない事がある。

「主上。もう少しあなたのお傍におりたいのですが、もうすぐ夜が明ける。

流石にこの状態を女官に見られるのは、憚られますので、お先に失礼致します」

それを聞いた陽子も、夢見心地から、一気に現実に引き戻された気がした。

「あぁ、そうだね。私も、着替えないと。何か変わった事があったと、女官等は

気付くだろうか?」

真剣に悩む陽子を見て、くつりと浩瀚は笑う。

「如何でしょう。私は女官ではございませんので、お答えしかねますが。

…そうですねぇ、窓を空けて、空気を入れ替えては如何でしょうか」

「空気の入れ替えかぁ。でも、如何して?」

「この部屋には、甘い香りが漂い過ぎております。かく言う、私も、その香りに

又も酔いそうでございます故、少しでも消し去るのが宜しいかと思われますが」

と冗談とも本気ともつかない事を言う。陽子はなんだか可笑しくなり、密やかに笑う。

それを見た浩瀚は、陽子の唇を奪うと、

「では、失礼致します。もう暫くゆっくりお休み下さいませ」

と、その場を出て行った。




浩瀚が出て行った後、陽子はゆっくりと身体を起こし、小衫を羽織った。

そして、言われた通り、窓を開けて、新鮮な風をその頬に受けた。

火照った身体を冷やしながら、今宵を振り替える。

確かに、陽子の想いは浩瀚に通じた。

そして、浩瀚もそれを受け止め付き合ってくれるという。

嬉しかった。もう、これまでの様に悩まずともよい。

浩瀚は陽子の傍にいつまでもいてくれ、すべての愛を、優しさを与えてくれる。


『私は幸せを手にしたのだ』


カサカサッ…

紙が吹き飛ぶ様な微かな音を聞いて、陽子は振り向いた。

そして、小さく折りたたんだ書付を、陽子は見つける。

それを拾うと、先ほどまで嗅いでいた想い人の香が移っている。

「浩瀚の物だ。何だろう」

陽子は広げて読んでしまった。そして、雷に打たれた様な衝撃が走った。


   父は僕達の国をよくする為、毎日一生懸命働いています。

   そんな父は、僕の誇りです。

   又、父がお認めになっている、景王様も尊敬します。

   僕は大きくなったら、父と共に景王様のお傍で、お守りしたいです。

   父が、全力をかけて、そうしている様に…。


子供の字なのだろう。伸びやかな字で書かれた書付には、父を尊敬し、母を愛し、

景王が大好きだと語ってあった。

陽子はなんとかそれを読み返しながら、次第に身体がガタガタ震え出した。

先ほどまでの、幸せな充足感は、もう微塵もない。

代わりに、大きな闇―これは、後悔なのだろうか、罪悪感なのだろうか。

いずれにしても、抱えきれない冷えた思いが、陽子の身体を包み込んだ。

『私の覚悟とは一体なんだったのだ。

自分の苦しみから逃れる為に、分かった気に無理やりしていただけではないか。

私が浩瀚とこれから歩む道は、この暖かい家庭をバラバラにする事だったのだ。

浩瀚は知っていた。これが、どんな罪になるのかという事を。浅ましいのは私だ。

自分の想いを遂げる為に、とうとう浩瀚を引きずり込んでしまった。

私はなんと愚かな事をしてしまったのか』


『浩瀚を愛している。愛した男が、これから辛い棘の道を歩こうと覚悟を決めた。

私は痛い思いをすればいい。だが、浩瀚は…私の愛する男には、その様な所に

踏み込んでほしくない』


しかし、陽子はもう知ってしまった。愛する人と過ごす、魅惑的な甘い世界。

「私は如何すればいい?」

陽子は、捨てるには忍びない己の欲望と、芽生えってしまった自責の念の狭間で

頭を抱え込んでしまっていた。



























































































































































































































































































































































































































































































































































































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2004.7.初稿

素材提供 篝火幻燈さま
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