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2004.7.初稿

素材提供 篝火幻燈さま
禁無断転写

秘め事 第三話

王の私室である、正寝は、その正殿―長楽殿を中心とする幾多の建物郡によって構成

されている。本来であればそこに臣下は立ち入る事が出来ない。

しかし浩瀚は、彼が冢宰を拝命されてから、ここへ入る特免を賜っていた。

それは、こちらの(まつりごと)に、当時あまり詳しくなかった陽子に、いろいろと伝える為で、

陽子から是非そうして欲しいと言うたっての希望である。

そして、治世がどうにか落ち着きつつある現在も、この事は通例になっていた。

「・・・という事になりますので、こちらに関しては後ほど又、ご報告致します。本日は、

以上で御座いますが、何かございますか?」

いつものように、浩瀚からの報告を受けていた陽子だったが、浩瀚の話が終わった後も、

彼の顔を、滑らかに動く唇を見つめていた。

「主上、何か気に掛かる事でもございますか?」

陽子の視線をふわりとかわし、浩瀚は持っている資料を整えている。

「・・・えっ、いや、特には、無い。お疲れ様。下がっていいよ」

陽子は浩瀚にそう言葉をかけたが、彼女は浩瀚の次の言葉を期待していた。

政務の話を終えた後、浩瀚は何時も何か話をしてくれる。それは政務とは関係のない、

取り留めのない内容なのだが、この一時が、陽子をほっと安心させる。

しかし、この日は違っていた。

「では、失礼致します」

そう浩瀚は告げると、さっさと後ろを向き、入り口の方へと歩いていくのだった。

「・・・あっ・・・」

陽子は、思わず声をあげた。

しかし、別に引き止める理由もなく、彼女はそのまま浩瀚を見送る。


バタンッ


扉が閉まり、浩瀚が出て行ったのを確認して、陽子は全身の力が抜ける様な感覚に

襲われた。それは大きな脱力感。そして、心に例え様のない不安が侵食していく。

『私は、浩瀚に対して何かをしたのだろうか?こんな事は初めてだ。いや、別に

これといって変わった事は何も起きてはいない。しかし、何だろう。今日の浩瀚は違って

いた。何か、これ以上近づくなと言われた様な。私を、避け様としている様な』

―避けられている。

そう考えて、ぞっとした。

『嫌だ。それだけは、絶対に嫌だ』

陽子は拳をぎゅっと固く握り締めた。




『その瞳は私の心を惑わせる』

正寝の扉を閉めると同時に、浩瀚は張り詰めた緊張を一気に解き放つ。

『見つめられるのは辛い。しかし、私は平静を装わねばならない。そして、平静のまま、

あなたに一定の距離を保とうとしている。なんと、難しい事か』

浩瀚は、すでに陽子に心奪われた自分を認識している。だが、それを突き進めるには、

障害が多すぎる事を知っていた。

彼には自分を慕ってくれている妻がいる。可愛くてたまらない息子がいる。

その穏やかな幸せを無くしてまで、突き進む想いではあってはならない。


『私は恋はしない』


そう、心に決めた。




その日、浩瀚の妻は、久しぶりに堯天の市井にきていた。

浩瀚の息子は、彼女の両親の家に一泊する事になった。

「僕だって大きくなったんだ。お母ちゃまが、いなくても平気だよ」

そう胸をはって明るく家を出て行った息子を、浩瀚の妻は眩しく見つめたものである。

『本当に、素直で、大きく成長した』

のんびりと市井を見て回り、息子に合いそうな衣服や、浩瀚に使ってほしい筆を買い求め、

彼女は少し遅い昼食をとる為に飯堂(しょくどう)に入った。

出された湯菜(しるもの)をじっと見つめながら、浩瀚の妻は思いを巡らせる。

浩瀚との時間がなかなか取れない彼女にとって、息子はかけがえのない存在だった。

浩瀚は仕事が忙しく家にいる事が少ない。それを息子は不満に思っているかも知れない。

その頃、浩瀚の妻は、息子の胸の内が心配だった。




だが、先日、息子が書いた書付ををみて、浩瀚の妻は涙した。


   母はどこまでも優しく、僕を包んでくれます。

   だから、僕は、父がいなくとも寂しくないです。

   でも、父はお寂しいかも知れない。

   僕が、母を独り占めしているから。

   父が大好きな、優しい母。

   僕も母が大好きだ。


『あの子はこんなにも真っ直ぐに、私とあの人を見ていてくれ、信頼している。

それに引き換え、私はどうだろう』

正直、浩瀚の妻は寂しかった。

確かに浩瀚は彼女を、妻として息子の母として尊重してくれる。それを浩瀚の妻は

身体全体で受け止め、幸せを感じていた。

『私は幸せな筈・・・』

それなのに、時より襲い掛かる、言い知れない気持ちは何なのだ。

浩瀚が妻を求めてくれる時の、浩瀚の瞳の奥。自分を見ている様で、どこか上の空の様な

曇った視線。

『ねぇ、あなたは私を必要としてくれているのよね?私はこのまま信じてもいい?

・・・寂しい。

大切にされているのに、何故か寂しい』




「おい、おい。早く口を付けないと、せっかくの食事が台無しだぜ」

突然後ろから声を掛けられ、浩瀚の妻は驚いた。

「あの、あなた・・・」

見ると、人好きのする明るい表情の男が、浩瀚の妻を見下ろしている。そして、弾かれた

様な笑顔を見せると、急に喋り出した。

「やっぱりそうだ。君に間違いなかった。俺だよ、俺。ほら、小さい頃、よく一緒に

遊んだ・・・」

「・・・」

「あっ、ごめん。いきなりだもんな。そりゃあ、驚くよな。でも、俺は君がここに

来てから、ずっと君を見ていた。声を掛けようかどうか、迷ったんだ。しかし、どうにも

懐かしくってさ。どうしても君と話がしたくなった。あのさ、君は覚えているかい?

小さい頃、俺と君が遊んでいて、野犬に襲われそうになった事・・・」

「・・・とりあえず、座りませんか?」

一気に捲くし立てる男に、圧倒されながら、浩瀚の妻は、ようやくそれだけ男に伝えた。

本当は少々困っていた。

いきなり声を掛けて来たと思ったら、知り合いだという。

本当にそうなのだろうか?

だが、男は立ったまま浩瀚の妻と喋っていたので、どうも多少注目を浴びる結果になった

様である。

彼女はそれが恥ずかしくなり、この場を納めるべく、そうしてしまった。

男は、はっとして周りを見、小さく詫びた。

「えっと、・・・ああ、そうだね。重ね重ねごめん。俺、君に会えた事が嬉しくってさぁ、

周りが見えなくなった」

「いいえ、こちらこそ。ちょっと、びっくりしていますが。それで、私と小さい頃

遊んでいたって・・・」


浩瀚の妻は昔の記憶を辿ろうとする。

「そうそう、俺と君の所に、野犬が近づいてきた。君は怖がっていたなぁ。俺の服の袖を

ぎゅっと掴んでいた。そっとその場をやり過ごせばよかったんだけど。あの時は上手く

いかなくって」

不意に、浩瀚の妻は思い出した。

小さい頃、近所の少年と遊んでいて、野犬に襲われそうになった事を。

いきなり襲い掛かる野犬に、少年は立ち向かっていった。そして、自身の右腕を噛ませ、

「逃げろー」

と、叫んだ。

幸い、少年に大きな怪我はなかった。少年がたまたま着込んでいた衣服が分厚く、助けに

なった。それでも、少年には、野犬に噛まれた傷跡が右腕に残ってしまった。

「あなた、あの時の、少年・・・」

浩瀚の妻は目を丸くする。

「やっと、思い出した?ほら、あの時の傷、今でもうっすら残っている」

男は躊躇なく右腕を見せた。

そこにはうっすらではあるが、生々しい傷跡が刻まれていた。

浩瀚の妻はそれを見ると、なんとも言えない申し訳ない気分になる。

「あなたが、私の知り合いである事はよく分かりました。そのう、この傷の事は、本当に、

ごめんなさい」

「いいよ、別に。俺、男だし。それに、今は感謝しないとな。これのお陰で、君に信用

してもらった。この傷がなかったら、まだ君は俺を受け入れてくれないだろ?突然女に

声を掛ける、不信な男だって」

男はおどけて片目を瞑ると、

「あぁ、分かって貰ったら、安心して、喉が渇いたなぁ。そうだ、こんな偶然は滅多に

ないんだ。酒を頼もう。おーい、冷たいのを頼むよ」

そう言って、店員に酒を注文した。

『可笑しな男』

浩瀚の妻はそう思った。

急に話し掛けられたと思うと、どんどん自分の事を話していって、とうとう座り込んで

しまった。男の物怖じの無さに、浩瀚の妻は戸惑ったが、一人でいても碌な考えを

していなかったので、幾分気が紛れるかもと思った。

「しかし懐かしいな。確か、官吏の妻になったと聞いたけど」

男に対して少し安心したのか、浩瀚の妻は少し緊張を解いて話をしだした。

「えぇ、息子が一人おります」

彼女に取ってみれば、精一杯普通に話をしたつもりだ。しかし、男には不満の様である。

男は大げさな溜息を落とすと、くしゃりと笑いかけた。

「あの、さぁ、いきなりで、そりゃあ驚いているだろうけれど、もっと、砕けて話して

くれないかなぁ。俺、畏まった言葉だと、余計緊張するし」

そう男に言われて、浩瀚の妻ははっと口を手で覆う。

そう言えば、こうして浩瀚以外の男性と話をするのは随分久しぶりである。意識せずとも、

ついつい、言葉が硬くなってしまった。

浩瀚の妻は、暫く次の言葉を探すと、意を決した様に言葉を繋いだ。

「・・・じゃあ、えーと、あなたは今、如何しているの?こうして見ていると、私と

年恰好は変わっていない様ね。という事は、仙籍に入っているの?」

男は、浩瀚の妻が自分に心を開いた様に思え、それが嬉しくて、満足そうな

顔をする。

「うん、まあね。俺は紀州で射士(しゃし)をしている。今日はたまたま休みでさぁ、探し物も

あったから、堯天まで出てきていた」

男は酒をくいっとあおる。

「ところで、君の旦那様は、何をしているの?」

「えっ、夫は・・・今は、冢宰をしている・・・」

浩瀚の妻は何故か声が小さくなってしまった。

いっそ男が唯人であればよかったのにと思う。そうすれば、余計な事を考えず話が出来た。

何となく浩瀚の妻は、居心地の悪さを感じてしまっていた。

「冢宰。すごいな、それは。おや、待てよ。前に麦州侯で在られた方だよね。当時から

有名だったよ。ああ、そうだ。切れ者で、物事の見極めに長けているお方だと聞いている。

へぇ、あの方の、奥方様なんだ」

男は目をきらきら輝かせていた。

これは夫を―浩瀚を認めていて、尊敬しているという目だ。

浩瀚の妻はそれが誇らしくもあったが、同時に、せっかく忘れかけそうになった寂しさが

込み上げてくる。

『そう、私は有能な官吏の妻。それを、満足しなければいけないのだけれど・・・』

浩瀚の妻が少し曇った表情をするので、男は気になった。

「ん?如何した?」

男に顔を覗き込まれ、浩瀚の妻は急いで作り笑顔を作る。

「ううん、何でもないの。そうだ、私も少しだけ、お酒を頂こうかしら?なんせ、あなた

とは何年かぶりの再会ですもの。改めて乾杯しましょうよ」

浩瀚の妻は、先ほどから浮かんでは消える不安から逃れようとしたのか、単に

この偶然過ぎる再会を祝おうとしたのか、とにかくめったに飲まない酒を、飲む事にした。

そして、小さな宴が始まった。