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2004.6初稿

素材提供 篝火幻燈さま
禁無断転写

秘め事 第二話

『気付けば既に落ちていた。

あれほど心に(たが)をはめたのに。

自分の部下があなたの隣にいただけで。

それさえも許せぬ自分がいた。

「私には愛する家族がおります」

そう言って、あなたを遠ざけたのではなかったか?

他の者に想いを寄せればそれでいいと、そう決めたのではなかったか?

しかし私は気付いてしまった。

私は見事、落ちてしまった』


『なぜこんな事になったのだろう。

初めてあなたを見た瞬間、紛れもない強い王気をあなたに感じた。あぁ、慶は必ず復興すると、

思いを巡らすだけで身震いがした。

しかし現実は、あなたの足を引っ張る者もいて、おろおろするあなたを見るにつけ、

「お守りせねば」と硬く誓いを立てる様になる。

あなたから罷免を言い渡された時は驚いたが、なぜか落胆しなかった。

あなたなら必ず分かって下さる。驚くほどしっかりした確信を、あなたに抱いていたのだ。

あなたから身に余る光栄を授かった。私はこの職務を、私のすべてをかけて全うする事にした。

それが慶の為であると・・・。

・・・・・・。

慶の為?

私はそれだけでここにいるのか?この言いようのない想いを突き止めるのが、恐ろしかった。

だから自ら断ち切った、・・・筈だった。

しかし、私は見事、落ちてしまった』




「お父ちゃま。僕ね、先生に褒められたの」

夕餉の刻、息子は息を弾ませ浩瀚に話をした。

「ほう、一体何を褒められたんだい?」

少しの酒を嗜みながら、浩瀚は息子に笑いかける。

本日のもやもやした気持ちは拭えぬが、息子の笑顔は浩瀚の心を幾分楽にさせる。

「うん、あのね、実はねぇ・・・。ねぇ、お母ちゃま、あの書付、今お父ちゃまに見せて

いいでしょう?」

「そうねぇ、ちょっとお待ちなさいな。今は食事中。あなたの大事な書付が汚れちゃいけない

でしょ。早くお食べなさい。その後、ゆっくりお父様にお見せすればいいから」

妻は穏やかな笑みを浮かべると、浩瀚の杯に酒を満たす。

「ちぇ。・・・でも、そうだね。後にするよ。お父ちゃま、待っていてね」

息子はそう言うと、残りの食事を口に運んだ。

こういう一時はほっと安心する。

息子の屈託のない表情は、政務で疲れた浩瀚の心を元気付ける。 

よく、子を育てる事は、天帝からその人が試されていると言われている。

夜になると、子供の魂が抜け五山に飛び、天帝に親の報告をする。そして、死して後、報告に

従って人は裁かれると、昔から言われてきた。子を立派に育てる事が、人にとって道を修めると

いう事らしい。しかし浩瀚はそれだけではないと思う。確かに子を育てるという事は手がかかり、

金がかかる。しかし、それに変えがたい大事な暖かい物を、子供はくれる。

それは例えば、早朝。まだ目が覚めぬ息子を見つめる時。

瑞々しい桃の様なその頬は、この世の穢れを一切知らず、ただ一途に父を慕っていると安心

しきった表情を見せてくれる。

たまに遊んでやる時の、父を尊敬し教えを請おうと見上げる熱い(まなこ)を感じ取る時。

期待を裏切らない様にと一生懸命努力する自分がいて、それはなかなか心地がよい。

浩瀚は子を育てる喜びをお与え下さった天帝に、心から感謝していた。




夕餉も終わり、息子は一枚の書付を浩瀚に見せる。

それには息子による文章が、伸びやかな文字で書き綴られていた。内容は、家族の事。

国をよき方へ導く事に全力を尽くす父が、大好きだという事。

父となかなか遊べぬのは少し寂しいが、母が優しく自分を包み込んでくれるから、待って

いられるという事。

大きくなったら父の様な立派な官吏になって、景王様をお守りしたいという事。

「本当に、よく書けた文だな」

浩瀚は目頭が熱くなった。

「えへへ・・・。僕ね、景王様をお守りしたいんだ。だって、お父ちゃまがお認めになって

おられる方だもの。きっと素晴らしい王様なんだ。景王様ってどんな人?」

「・・・」

息子の言葉に浩瀚は躊躇する。今、あの方の事を語れば、私はどこまでも熱く語ってしまう

だろう。そこから、何か気付かれるかも知れない。浩瀚は自分の想いが隠しきれるかどうか心配

だった。だから出来るだけ手短に言う。

「それは尊敬に値するお方だよ」

その浩瀚の答え方を、妻は政務の疲れによって、言葉少なげになったのだと察し

「ほら、お父様はお疲れのご様子。もう、寝なさい」

そう息子を臥牀へ促した。




二人きりになった房室。沈黙の時間が二人を包む。最初に破ったのは妻だった。

「そう言えば、皆様はお元気?確か禁軍には桓堆様がお見えだったわね。私、あの人には本当に

世話になったのよ。ほら、あなたにあらぬ疑いがかけられ、逃亡生活をしなければ

ならなかった時」

桓堆という名前を聞いて、私の心は無性にざわつく。

「桓堆様は本当におやさしい人よ。私が心細くならぬ様、いろいろ取り計らってくれた」

更に続ける妻の言葉に、どうしようもなくいらいらする気持ちが沸き起こる。


『桓堆。あいつは、あなたをどう思っているのだろう?』


「もう、仕事の話は止めないか?」

そう言うが早いか、浩瀚は妻の腕を取ると、自分の懐に強引に招きいれた。

そして、抱き抱えると、そのまま二人の臥牀へ連れて行った。




「あなた、お疲れじゃぁなかったの?」

臥牀の中、優しい妻の胸の中で、浩瀚は目が覚める。

「ん?如何して、その様な事を聞く?」

浩瀚はその柔らかな感触を顔全体で確かめながら、口籠(くごも)った声を発する。

「えっ?・・・あの・・・なんとなく・・・その。いつもとは、あなた・・・違っていたから」

言われた言葉に、浩瀚は、はっとする。

『お前は何かを気付いたか?』

浩瀚は思わず顔を上げて、妻の様子を見ると、彼女は顔を赤らめ、もじもじしている。

「最近、忙しそうだったでしょ。言ってはいけないと思っていましたが、やはり少し寂しかった。

あなたのお傍にいれるこの休日を、どんなに待っていた事か。でも、あなたにとって見れば、

やっと身体を休む事が出来る時間。きっと、あなたはお疲れだろうと思っていましたの。

だから・・・こんな、・・・こんなにも、あなたの愛を感じる事が出来て、私は幸せで

ございます」

妻は先刻の浩瀚との甘やかな時を思い出したのだろう。

耳まで赤くなり、しかし満足しきった、華の様な妖艶な笑顔を見せる。

その姿を見、浩瀚はほっと胸を撫で下ろす。そして先程までの時を振り返る。

確かに今日の浩瀚は違っていた。何かを振り切りたい様に、だが増殖する想いをぶつける様に、

妻を激しく求めてしまった。


『何故、あそこにあなたと桓堆が一緒にいたんだ?』

『一体何を話していたんだ?』

『あなたは、私以外にあの笑顔を見せるのか?』


己の浅ましい想いが溢れる度、浩瀚は妻に口付けを落とす。その首筋に、胸の膨らみに、細い腰

のくびれに・・・。妻の身体には、浩瀚の付けた赤い刻印がいくつも残されている。

浩瀚は起き上がると、近くにあった小衫を妻にふわりとかけてやる。

「風邪をひくだろう。おかけなさい」

そして自分も小衫を羽織ると窓辺へと向かった。

『妻は何も気付いていなかった。己のすべてを私に託し、愛を、安らぎを与えてくれる』

以前はそれを当たり前に感じていた。空気の様になってしまった妻との関係に甘え、鈍感に

なってしまっていた。しかし、浩瀚は己に別の感情が芽生え始めたのを確信してしまった今、

改めて妻の優しさに胸を突かれる。

『あなたへの想いに気付いてしまってから、妻をより恋しいと思うなんて』

いっそ妻に何も感じなくなればよかったのにと思う。

だが妻に対する後ろめたさが、彼女を大切にしようと、その小さな肩を守りたいと思ってしまう。


『なんと勝手な男よ』


「あの子が言う様に、あなたがそこまで真剣にお仕え出来る景王様とは、本当に徳の高いお方

なのでしょうね」

いつのまにか妻は浩瀚の傍らに立ち、彼に水の入った玻璃の器を渡す。

妻から景王の話を出され、浩瀚は胸がひやりと冷えた感覚になる。

しかし、普段と変わらない表情に戻すと

「そう、だな。魅力あるお方だ。慶はきっともっとよくなるだろう。お前や息子によりよい国で

暮らして貰うためだ。少しの無理は厭わないさ。ただ、お前達には寂しい思いもさせている

だろう。すまない」

そう言って浩瀚は渡された水で喉を湿らせる。そして、もう一口、口に含むと、妻の顎を

くいっと上向かせ、冷えた己の唇を、妻の珊瑚色の唇に合わせる。

浩瀚の口内で生暖かくなった水が妻の口に流される度、妻は酔わされていく。

「・・・私はお前を大切に思っている・・・」


『偽りは、ない』


「えぇ」

と頷く妻の、月明かりに照らされた澄んだ視線に、浩瀚の心はちくりと痛む。




『落ちてはならぬと自分に箍をはめ、あなたを悪戯に傷つけた。

にもかかわらず、あなたが桓堆と一緒にいるのを見ただけで、私は激しく動揺した。

と、同時に落ちてしまった。

・・・恋に、落ちてしまった。

落ちたのだ、自ら望んだ事じゃない。

しかし、私はこれ以上溺れてはならぬ。

それが、どんなに甘美な誘惑で、私の心を取り込もうとしようとも。

かくなる上は、私はあなたに対して恋はしない。

《恋をする》と《恋に落ちる》とでは、意味が違う。

恋をすると言うは、己の意思で行動を起こす事。

そんな積極的な事を、私はしてはならない。

妻を捨てきれず、あなたにも惹かれている。

こんな、こんな、勝手な私をどうか・・・。

どうか、捨て置き下さいませ』


『主上、私の愛しい人』