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2004.5 初稿 

素材提供 篝火幻燈さま
禁無断転写

秘め事 第一話

初夏の朝。

爽やかな風が金波宮を吹き抜ける中、陽子と桓堆は剣術の稽古に励んでいた。

静寂の中、二人の息遣いと剣が触れる音のみがこだまする。

最初は互角だった。

だが次第に陽子の剣に、無駄な動きが多くなる。ただ闇雲に振り回す様な…。


カシャーン


ふいに陽子の手から剣が落とされると、彼女の喉元に、桓堆の剣が突き立てられる。

陽子は目を見張った。

桓堆の人を射抜く様な厳しい視線に、一瞬このままでは殺されると背筋がぞくりとした。

すぐに桓堆は表情を和らげると

「本日はこのくらいに致しましょう」

そう言って剣をしまい、陽子の落とした剣を拾おうとした。

「まだだ。私はまだ満足していない」

陽子は必死に訴えたが、桓堆はやれやれと言った表情を見せるとこう言った。

「道を極めるには、余分な念を持っていてはいけないと、私は思うのですよ。

花を生けるにしても、香を楽しむにしても、純粋にそれと向き合わねば、表面に現れてしまう

ものだと、考えますが、違いますでしょうか」

「しかし、私は没頭したいのだ。余計な事を考えぬ様」

陽子が帰ろうとする桓堆の後を追い縋る。

「隠せば隠すほど強くなる様では、如何しようもないでしょう」

桓堆は立ち止まり振り向くと、大きく深呼吸して言った。

「分りました。主上、私についてきてもらえますでしょうか。丁度気になる州が御座いまして、

主上にも見て頂こうかと」

「何。不穏な動きをする州が、まだ、あるのか?」

陽子に緊張が走る。桓堆はふっと笑みを零すと

「ございませんよ。ただ、私が主上を連れ出すには、こういうしかないでしょう。気晴らしも

必要です。一緒に、走りましょうか」




そうして二人はそれぞれの妖獣(のりもの)に乗り、金波宮を抜け、何処までも広い空を走る事

にした。

風が冷たく頬を打ち付ける。しかし、かえってそれが心地よい。

陽子は、一時でも今自分が抱えている辛い想いを、忘れるのではないかと思っていた。

その様子を、後から見つめていた桓堆は、溜息を零す。

『全く、一体如何したらいいんだ。主上には幸せになって頂きたい。俺が手伝えるものなら、

手伝って差し上げたい。いっそ 主上が俺を…』

そう考えた自分に、桓堆は殊更驚いた。

『何を考えているんだ、俺は』

陽子の今日の荒れ様の原因は、だいたい察しがつく。

ある男が、久しぶりに休暇を取っているからだ。

金波宮はまだまだ人材不足だ。官は寝る間も惜しんで働いている。

男も昼夜なく慶国の為、陽子の為に激務をし、ようやくそれをとる事が出来た。

陽子も二つ返事で男の休暇を許した。

だが、男が休暇を取った今日、陽子はおかしいのだ。

どこかそわそわして、時より苦渋に顔を歪めている。

台輔から陽子が何処かおかしいと聞いた時、桓堆は今まで巡らせていた思いが、確信をついて

いた事を悟った。

それだけ自分も陽子を見つめていたという事だろうか。

『俺など入る隙もありはしない』

陽子の背中を見、桓堆は自嘲気味に笑った。

『如何して、あの方、……浩瀚様なんだ』




陽子は風を受けながら、桓堆の心配りに感謝していた。

桓堆は、陽子が何に悩んでいるのか、あえて聞きはしなかった。それがかえって嬉しかった。

『言えるわけない。私のこの想い』

恋するまでは早かった。

浩瀚は政務について右も左も分らない陽子を、笑ったり、馬鹿にする事無く、一つ一つ丁寧に

教えてくれた。

陽子が少しでも楽になるようにと、自ら蓬莱の言葉を覚えてきた。

その様子を見るにつけ、陽子は浩瀚を、特別な感情で見てしまっている自分に気付いた。




以前、浩瀚とこう言った話をした事がある。

「主上、恋をなさいませ、人を愛する事を覚えて下さいませ」

陽子は如何いう事だと聞き返した。

「恋をするという事は、人にって大切な事だと私は思います。恋をすれば人に優しくして

いられる。人の痛みの分かる人間になる事が出来ます。何より心豊かになりましょう」

浩瀚はあくまで穏やかに、陽子に語りかけた。

その静かな声音が、陽子の心を掻き乱す。

「しかし、この国は、私に―女王に、恋愛はしてはならぬと言っているではないか」

陽子は、芽生え始めた己の心を悟られぬ様、慎重に話し出す。

「その様な事、誰も決めては御座いません。ただ…皆、不安なのです。正直申し上げまして、

予王は台輔への恋慕、それが終焉の引き金になった。しかし、あくまでそれはきっかけに

すぎません。もう前から予王は、宮殿では浮いた存在になっていた。周りがそうさせたのです。

彼女に取ってみれば、己の半身である台輔だけが、心の拠り所であった。予王はただ台輔に、

自分を受け止めて欲しかった。ともに喜びも苦しみも分け合おうと言って欲しかった。

しかし、台輔でさえ予王に『頑張れ』としか言わなかった。…一人で頑張る事に疲れた予王の

最後は、それは悲しく、悲惨なものでした」

浩瀚の顔に後悔の色が窺える。

「しかし主上の周りは違う。主上を見守って下さる方が沢山いるではございませんか。

…どうぞ、恋をなさいませ、主上。人を愛する素晴らしさを体験して下さいませ」

陽子は、もうどうにかなりそうだった。

己の気持ちを受け取って欲しい相手が目の前にいる。恋をせよと、たきつけている。

喉がからからに渇き、言葉を発するのも苦しくなってきた。

それでも陽子は口を開かずにはいられなかった。

「浩瀚。…私は、…私は…」

翠玉の瞳が潤み、浩瀚を見つめる。

しかし、その瞳は一瞬の内に暗く濁る事になる。


「私も愛する家族があればこそ。政務をこなせていると思っております」


上から冷水を浴びせられた様だった。陽子は胸の動悸が止まらなかった。

もう、浩瀚が何を喋っているのか、陽子には耳に入らなかった。ただ

『話さずにいてよかった。もう話すこともあるまい。これ以上は踏み込めない』

そう頭の中で繰り返すのみだった。




ある朝、浩瀚が奏上書を持ってきた。そして話を切り出した。

「最近、宮殿も落ち着いて参りましたので、暇を頂きたいと思っております」

陽子のこめかみが、ぴくりと動いたが、そのまま奏上書に目を落とし

「そうか。いろいろ苦労をかけたからな。

お前の仕事の殆どは、私が不甲斐ないせいだからだ。奥方も寂しい事だろう。

…ゆっくりするといい」

抑揚のない声で話をした。顔を上げれなかったのだ。


『私はどんな顔をしている?』


浩瀚が休暇を貰う事は当然だ。

だが、そうすれば愛する家族の元へ行ってしまう。それを思うと陽子の心はざわつくのだ。

「有難う御座います。ですが主上、妻は気にしておりませんよ。主上がお越しになって、

慶は確実に良い方へ向っております。それが妻は嬉しいと。きっと素晴らしい方なのだろう

から、その手伝いが出来る私は幸せ者だと、そう申しておりました」

陽子は奏上書の一点のみを、何度も何度も繰り返し目で追う。

そうしないと冷静でいられないのだ。

「…どうしてそう言い切れる?私はお前を、麦州侯から罷免した事があるではないか」

「そう、ですね。あれは確かに驚きました。ですが、今私はこうして主上のお傍に

お仕えする事が出来る。それでいいじゃありませんか。それに、確かにあの時は、逃亡生活と

なりましたので、表立っては動けませんでしたが、その分ゆっくりと家族の時間を持つ事が

出来ましたよ。なにせ、同士が私たち家族を、それは大事に匿ってくれたのでね」

そう浩瀚はにっこり笑い掛ける。

その顔を陽子はちらりと見ると、もう一度奏上書へ目を落とす。

『あんな優しい穏やかな顔をされてしまっては、何も言えなくなるではないか』

叶わない―陽子はそう思った。それでも思いは止められぬ。

『こんな恋なら、知らないほうがよかった。私は心が豊かになるばかりか、自己嫌悪にばかり

陥る。それとも、所詮、王は孤独でなければならないのだろうか。誰かを拠り所にしては、

いけないのだろうか?』

そう思うと目頭が熱くなった。




陽子と桓堆は麦州の州境の小高い丘の上にいた。

「主上、こちらをどうぞ御覧下さいませ」

陽子が眼下を覗くと、見渡す限りの緑だった。作物の穂が立派になびいている。

陽子はそのあまりの美しさに息を呑んだ。

「美しいでしょう。ここも前は荒廃していた。だが今は少しずつ昔に戻りつつある。

これ、すべて主上のお陰でございます」

桓堆は陽子より一歩下がった位置に控え、そして静かに話を切り出した。

「私の話を聞いて下さいませんか。いや、独り言と聞き流して頂いても結構です。

…主上、人を愛するという事は、実は苦しい事が多いのかもしれません。

自分がいくら想っていても、想いが通じぬ事もある。それでも人を愛する事を止められない」

陽子は、桓堆には振り向きもせず、眼下に広がる風景を見続けていた。

桓堆は、陽子の引き締まった背中を、愛しむ様に眺めた。

『俺がその背中を抱く事が叶うなら、あなたを一人にはしないのに』

しかし目の前にいる想い人は、別の者を想い苦悩している。

桓堆は、出来るだけ淡々と喋る様努めた。

「止められぬなら、止めなければよい。想う権利は誰にでもあるのではないかと、私は

考える事にしたのです。確かに苦しい事が多いのかもしれない。ですが、その人を想う事で

自分は満たされる。気持ちが届かなくとも、その人と話しをするだけで心豊かになる。

それが人を愛するという事なのでしょうね」

陽子はじっと桓堆の言葉に耳を傾けていた。

『桓堆は私の悩みを知っていた。それでもなお、問いただそうとはせず、自分の話の様に

仕立てて、私を励ましてくれているのだ。今はその気持ちがありがたい』

陽子は桓堆の言に隠された、別の意味を知る由もなく、ただただ感謝していた。

「そう、だな。人を愛する気持ちを無理に止め様とするから、心が痛むのかもしれない。

想うだけなら許されるよね」

陽子は心に少しの光明が差し込んだ気持ちになった。

すると背後より、聞き覚えのある家族の声が近づくのを、桓堆は察知した。

『浩瀚様だ。うかつだった。ここは浩瀚様も気に入っている場所だ。来ないという保障は

無かった』

陽子はまだ気づいていない。桓堆は慌てた。

「主上、お寒くはございませんか?そろそろ宮殿に戻らないと」

「まだ、いいだろう?」

「長く宮殿を留守にする訳にもいかぬでしょ。さっ、早くお乗り下さいませ」

と言い終わらぬうちに、桓堆は陽子を無理やり引き連れ、すぐさまそこを後にした。




「あなた、如何かされましたの?」

柔らかな妻の声を聞き、浩瀚は、はっと我に返った。

「あぁ、別に、なんでもない」

浩瀚は空を見ていた。二人が飛び去った空を。

目を逸らす事が出来なかったのだ。

陽子と桓堆が二人でいる所を目撃した時、浩瀚は息の詰まる様な衝撃に、眩暈を起こしそう

だった。

『如何したんだ、私は』

心に芽生えた、ぐるぐる渦巻く獰猛な龍。今にも口から飛び出し、襲わんとする想い。


『そうなって欲しいと、自ら望んだのではなかったか?』


浩瀚の理性が、必死に龍を、押さえ込もうとする。陽子はまだ未熟な華だ。

大輪の華を咲かすためには、恋が必要だと、浩瀚は思っていた。

『しかし私では、手助けをしてやる事が出来ぬ』

浩瀚が陽子の気持ちを、知らなかったわけではない。

だが、それは尊敬の念を、恋と勘違いしている事に過ぎない。

それに浩瀚には、優しい妻も、かわいい息子もいる。


『この幸せは、壊したくない』


つい先日、陽子に家族を持っている事を、告白した。陽子がこれ以上、自分に想いを寄せる事が

なくなる様に。家族がいる事等、どうでもいいと言えばそうなのだろう。

そんな事とは関係なく、恋愛をする事だって可能だ。しかし、陽子はそれが出来ない事を、

浩瀚は気付いていた。

『私はそれを利用した。深みに嵌る前に、主上も、そして私も』

陽子が浩瀚を忘れ、他の者を愛してくれればいいと思っていた。

しかし、それは己の慢心による戯言なのではないだろうか?

『そうは言っても、主上は私から目を離さない。目を離さない限り、私は何もしなくとも、

家族を主上の愛を受けていられる。…なんと、浅ましい男よ』

「お父ちゃま、草笛を作ってくれるって約束したじゃないか」

浩瀚のすぐ傍で、小さな息子は罪のない笑顔を見せている。


『妻に不満はない。

息子はかわいくて仕方がない。

今、この日常が幸せである。

それで十分じゃないか。

他に何を求めている?』


「ねぇ、お父ちゃまったらぁ」

小さい手が、浩瀚の腕をかわいらしく引っ張る。

「あぁ作ろう。よく響く草笛を作ってやろう。お父ちゃまは、なかなか上手いんだぞ」

浩瀚は、息子の頭を撫でてやると、草むらの中へ入って行った。

それをこの上もなく優しい表情で見守る妻。


『どうか、このままでいる事を許して欲しい。

私は家族を愛している。

そして、あなたを、それは密やかに…』