秘め事 第七話 

陽子と浩瀚が、それぞれの想いに鍵をかけてから、十数年経った。

「お父ちゃま」と可愛らしく駆けていた息子も、立派な青年に成長した。

「本当にいろいろありましたが、大きくなって。もうすぐ成人し、独立致しますわよ、

あの子は」

夕餉を終え、片付け物をしていた浩瀚の妻は、浩瀚に話し掛けた。

「あぁ、そう、だな」

手元の書籍に目を落としながら、浩瀚は返事をする。

そして、彼は数刻前の息子との遣り取りを思い出す。




「お父様、僕は唯人として民と混じり、生活する事にするよ」

息子の将来の考えに、浩瀚は拍子抜けした。

息子は十分に官吏になる実力がある。それを、如何して捨てるのか?

「お前は、慶国の官吏となり、私を助けるのではなかったのか?」

「うん、それも考えたけど。あのね、こう思うんだ。お父様が上級官吏となって、

もう数十年にもなる。お父様は、活きた民の声を聞きたいと思わないかい?

書類の上だけ、官吏の頭の中だけの政では、その内、下界との温度差が出てくるよ。

僕はね、唯人として暮らし、お父様に下界の様子をお聞かせしたいんだ」

息子なりに、慶をよくしようとしている、その志に浩瀚は感動した。

「お前は立派に私を助け、景王をお守りしようとしているのだな」

浩瀚は、袂に何時も大事にしまっている書付を出した。

時の流れですっかり変色したそれは、子供らしい伸びやかな字で、家族の事について

書いた物。浩瀚にとって大切な物のひとつだった。

息子は、浩瀚から「景王」と言う言葉を聞いて、少し自嘲気味な笑みを浮かべる。

「…じつは、さ。それ以外にも理由はあったりして」

「どういう事だ」

「うん、あのね、僕はまだ《お子様》なのさ。だから、お父様と景王様の、

愛をも超えた深い結びつきを目の当たりにする事に、まだ抵抗があると言うか、

何と言うか…」

「…何を言っている?…」

息子は知らないはずだ。

かつて浩瀚が想い苦しんだ事柄について。

「別に、隠さなくてもいいよ。それなりに納得はつけている。

特に、何か今までの生活に不満があった訳じゃないし。お父様は、それは大切に

僕等との時間を過ごしてくれた。でも、僕も男だからね。お父様の別の秘めた想いを

なんとなく察してしまったらしい」

浩瀚は言葉もなかった。

あの一軒以来、妻とも息子とも、今まで以上に優しく穏やかな気持ちで接する事が出来た。

ただ本能のままに愛するとは違った感覚。

家族愛とはこういうものかと、浩瀚は思っていた。

「あっ、ごめん。悪戯に困らせるつもりはなかったんだ。お父様を尊敬している。

景王も嫌いじゃないよ。でも、少しだけ、距離を置かせて下さい。

もっと冷静に見つめる事が出来るまで」

「お前に、そんな気持ちを持たせてしまったなんて、父親失格だな。

でも、分かってほしい。父は、お前もお前の母も愛している。今もだ」

「分かっているよ。だから僕は、僕のやり方で、お父様と景王をお助けするよ」

言うと、息子はかつて自分が書いた書付を見つめて、照れ隠しなのだろう、

「下手くそな字」と、笑っていた。そして、こうも語った。

「自分の気持ちが、溶けて何にも感じなくなったら、官吏になる試験を受けるよ。

その時は明らかに僕の方が、見た目、おじさんかもしれないね」




片付けも終わり、浩瀚の妻は茶の用意をすると、ゆっくりと椅子に腰掛けた。

「あなた、私はあなたと家族をもてた事を幸せに思います。

あなたは私に沢山のものをくれたわ。それはもう抱えきれないくらい。

今まで本当に有難う」

「何だ、もう別れるみたいな言い方だな」

浩瀚は冗談のつもりで返事をした。すると

「そう。私達、もうこのあたりで、別の道を歩きませんか?」

浩瀚は手にしていた書籍を危うく落としそうになった。

「お前はいつもびっくりする事を言う。何故、今、別れるんだ?」

「息子も小さかった頃、私はあなたに頼りっきりの性格だったわ。依存していたと

言ってもいいかもしれない。だから現状に不満を持ち、あなたの気持ちが分からない、

寂しい等と思っていた。でも、この頃思うの。私は知らない内に、あなたの心を

縛り付けてしまったのではないかと。息子を楯にとり、妻という位置を最大限に利用して、

あなたの想いを独占してしまった」

そこまで言って妻は茶を一口啜る。ほうっと落ち着くと、柔らかな笑みを浮かべた。

「あれから私も強くなりました。少しは一人で前を歩ける様になったと思うの。

だから、どうか、あなたの愛を、あなたが送りたいと思うその相手に」


「すべて注いで差し上げてはいかがですか?」


浩瀚は思わず笑ってしまった。

それは泣き笑いに近いだろう。

「息子といい、お前といい、如何して、そう、私の家族は…。しかし、私はお前達に

気を使わせてばっかりだな。全く不甲斐無い」

「いいえ、あなたは立派なお方。私は今でもあなたを愛しています。でも、だからこそ、

あなたには、あなたらしくあってほしい。残念ながら、私ではあなたの心を、

完全には満たす事は出来なかったけれど、でも、もう、なんだか、それも、悔しいと

思わなくなった。時間は不思議ね。長い夫婦生活の間に、想いが溶けて、交わり、

こなれて、他では得る事が出来ない思いを私は貰った。だから、もういいの。

ねぇ、あなた。もうそろそろ、あなたはあなたの為に時間をお使い下さいませ。

あなたはもう、自分の心に正直になってもいい筈よ」

浩瀚は椅子から立ち上がると、妻の傍へ歩み寄った。

そして膝をつき、妻の手をとると、その手の甲に口付けを落とした。

「私は他の誰よりも幸せだった。お前という伴侶を得て、素直な息子に出会えて。

私はお前達を心から思っているよ。心からお前達の幸せを願っている」

「有難う、私も心からあなたの幸せを願っています」

明り取りの炎がゆらゆらと、揺らめき、二人はなんとも言えない穏やかな空気に

包まれているのを感じた。




陽子に呼び止められ浩瀚は、回廊を歩くのを止めた。

急ぎ資料をある場所に戻さねばいけないのだが、主のお声掛けとなれば、

無視する訳にもいかない。

「どうかされましたか?」

にっこりと表情を和らげる浩瀚。

「うん、聞きたい事があって。あっ、ごめん。急いでいるな。

それ、半分持とうか?」

「心配には及びませんよ。しかし、そうですね。歩きながら話す失礼をお許し頂ければ」

「あぁいいよ。気分転換をしたかった所だし」

そういって、二人は歩き出す。

「あの、さ、お前の息子。もう正丁なのではないか?噂によると、ものすごく優秀

なんだってな。まぁ、お前の息子だから、当然と言えば、当然だが。それでな、

皆新しい官吏に迎えよう、その暁には是非自分の配属先にと、話題が持ちきりなんだ。

…息子さんは元気か?その…奥方も」

想う事を一旦は止めた陽子だったが、やはり妻の話題にはいささか躊躇する。

「えぇ、大きくなりました。ですが主上、あの子は官吏にはならないそうです」

「えっ、それは本当か?…残念だな」

浩瀚は、息子が自分と陽子の様子をまじかで見る事に、いささか抵抗を感じている事は、

当然胸の中に収めた。そして、

「なんでも、唯人として、活きた慶国の民の様子を、肌で感じたいそうです。

それを、私に教えたいと」

「そういう事か。それは、確かに有難い。なかなか民の現状は伝わりにくいからな」

陽子は目をくるくると耀かせ、声を弾ませる。

「私もそうなって頂くと、安心でございます。何でも、今までは、王自らが

危険も顧みず、嬉々として行っているので。私をはじめ、周囲は心配で。

これからは、無断の外出が減りますね」

「ぐっ、相変わらず痛い所をつくな、浩瀚は。でも、そればかりではいけないぞ。

やはり、自分の目で見て、声を聞くのも大切だ」

「はいはい。すべて止めてほしいとは、申しておりませんよ。

主上の楽しみなのですから」

そう言って、にこにこ笑う浩瀚を見ながら、陽子はほっと安心する。

お互いの想いを知り、周りのいろいろな事情で踏み込んだ想いを止めなければ

ならなかった二人である。

このように又普通に話せるのか、あの時は心配で堪らなかった。

浩瀚だからなせる業なのだ。

何時でも、彼は陽子の想いを汲み取り、あくまで自然に行動してくれる。


『そんな浩瀚だから、私は…』


すると、浩瀚は前を見据えたまま、事も無げに話し出した。

「それから、私達家族は、これからお互い別の道を歩む事になりました」

「…そう、か…」

陽子は、不思議と驚きも心のざわつきもなかった。

浩瀚もそれを報告した所とて、何か踏み込んだ事を言おうともしなかった。


『時がくれば、引き合う様に、お互いがお互いを欲する日が来よう。今はただ、それを

じっくり待つ事を、楽しめばよい』


二人はお互いに気付いてはいないが、同じ事を思っていた。


『時間は、飽きるほど長くあるのだから』




「冢宰殿、急ぎ吟味して頂きたい内容がございます」

向かい側から、官の一人が、汗を流しながら、急ぎ足で駆け込んでくる。

「これ、主上の御前であるぞ。いくらなんでも、もう少し慎みのある行動をなさい」

「し、失礼致しました」

はたと気付き、慌てて深く礼をとるその官。

「いいよ、別に。問題はすぐに解決した方がよい。お前達も大変だが、この国を

支える為、奔走してほしい。いつも、感謝しているよ」

初めて直接陽子に声をかけて貰えたのだろう。

官は、感極まって涙ぐんでしまった。

「はい、私のすべてをかけまして、慶をお守り致します」

その様子を見ながら浩瀚は密かに微笑んでいた。

その日の金波宮も、いつもと変わらない、慌しくも活気に満ちた場所となっていた。





ここまでお読み下さり有難うございました。実は最初は、本当にノリだけで、一話完結作品だったんです。
あの、消化不良バリバリで終らす気マンマンだった。でも、紆余曲折の上、如何にか締まったか、な。
これはねぇ、何かと印象深い話となりました。だってこれが元でAlbatross様ではリレー小説が始まったんだもの。
当時は凄い勢いで盛り上がってましたよ。私の考察はこう、なんつって、ドンドン支流が出来てくるし、
私には書けない冒険活劇になっていったし。
で、浩瀚の妻ですよ。苦手な人もいたみたいでしたけどね。私は、嫌いじゃないんです。
後、全く反応なかったんですけどね、妻の浮気相手のあの男も。…まぁ、所詮オリキャラですから。
可愛がるのは、製造者だけかもね。





































































































































































































































































































































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2004.7.初稿

素材提供 篝火幻燈さま
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