陽極まりて重なる日

 陽子は久しぶりに遠甫から話がしたいと誘われた。
「上手い茶請けもあるでの」
 そう飄々とした表情で彼は語った。陽子は遠甫の講義が又聞けるのは大変楽しみだとその日の政務を早々に終え彼の待つ所へと向かった。
 遠甫は窓辺に向かい園林(ていえん)にある菊を眺めていた。その後姿は無駄なものを一切拭った整然とした趣を感じる。翁の細い身体ではあるが彼の取り巻く気配は清らかにして近付きにくい。
 陽子は、恐る恐る声を掛けた
「只今、参りました。遠甫」
 陽子の声を聞くと遠甫はそれまで張り詰めた気を取り払いその場所全体を穏やかにする柔らかい空気を作り出した。――そう陽子には思えた。
「ほほほ、よう来てくれたの、陽子」
 にっこりと遠甫は微笑むと、陽子に椅子に座るよう勧める。


 下女が茶を用意する。卓子に細く裂いた茶色の物が置かれていた。
「これは?」
 陽子が訊ねると
酢烏賊(すいか)じゃよ」
 遠甫は面白そうに答えた。
「す、いか?」
「そうそう、干した烏賊を酢味のたれにつけたものじゃ。美味いぞ。茶にも酒にもいい」
 陽子はじっと目の前にある酢烏賊を見つめていた。
(遠甫は歯は大丈夫なのだろうか?)
「今おぬし、儂の歯の心配をしたであろう?見くびるでないぞ陽子。これ位ではびくともせぬわ。それにこれは味わいがあって好きなのよ」
 どうじゃ?と遠甫に勧められ、陽子も手にとり口に放り込む。
「『するめ』より食べ易いですね。父が好きそうな味だ」
 僅かに残る記憶の断片がふと陽子の頭を過ぎり、彼女は聞こえるか聞こえないかの声音で呟く。その様子を遠甫は、特に聞き返す事もなくにこやかに眺めていた。
 暫く酢烏賊を堪能した後、徐に遠甫が話を切り出した。
「今日はおぬしに一つ提案があっての。提案というよりは、儂の願いともいう感じかな」
 陽子が居ずまいを整える。
「何でございましょう」
「国もそろそろ落ち着いてきたようだし、一つ復活させて欲しい行事があるのよ」
 そう言いながら遠甫はゆっくりと茶の清清しい香をその鼻空に感じるよう茶器を手に取った。


「隣国に延王がお納めになっておられる国がある。そこは、達王の時代には既に長く治世を治めている国であった。延王は当時から、海客、山客が運んでくる知識や風習を好んで取り入れていた。民が国の公式行事以外に何の楽しみも無いのは面白くないと、民間だけで行われる行事も率先して広めていった。ほれ、前に陽子が住んでいた頃の蓬莱の行事を語った事があろう?」
「ああ。三月三日が桃の節句、五月五日は端午の節句、七月七日に七夕様があるという話でしたか」
「そうじゃそうじゃ、その話じゃ」
 遠甫は嬉しそうに首を振った。
「その似たような年中行事は、既に慶東国(このくに)でも存在していた。伝わったのは雁州国かららしい。日程も同じである。行う細かな手順は、陽子が教えてくれた事とは微妙に違っているようじゃ。常世(こちら)ではその日をお祝いの日とし、休みを民に与えるのだ」
蓬莱(あちら)でいう祝日ですね。馴染みが深いです。しかし……蓬莱では業種によっては、休んでいられない所もあったし。ましてや私の感覚からすると、農業を営んでいる者等は休みはない気がしていたのですが……。本当に、仕事をしない日としたのですか?」
と陽子が言うと
「そうそう、遊んでいい日。面白いじゃろう。これを延王は海客か山客から聞き出し、これは良い事であると、断行したのだそうじゃ」
「『勅命である』と言ってですかっ」
 陽子は思わず、ぶっと笑ってしまった。目の前に豪快に笑う尚隆と言われて頭を抱える官吏たちニヤニヤ眺めているだけの六太を想像し、可笑しさが込み上げてきたのだ。遠甫は陽子の様子を供に楽しむように、目を細めて見つつ前にあった酢烏賊を口に含んだ。そして、熱い茶を啜る。
「おそらく農耕に従事する者へ、節目節目で休息と娯楽を提供すると言うような効用もあったと考えられる。それまでは陽子の言う通り、彼らに休みらしい休みなど無かった。全く抜かりの無い王よ。それでその日程の決め方じゃが」
 陽子は、食い入るように遠甫を見つめた。遠甫は陽子の瞳に一瞬揺らめき、眩暈を感じる。それを払拭するように目を伏せた。
「陽子。この老いぼれを熱く見つめるのは誠に在り難いが、儂が如何して良いか対応に困る。すこし楽にされよ。ほれこれでも食べて」
と言って、酢烏賊を勧める。
「す、すみませんでした。有難く頂きます」
 慌てて陽子は、目の前にある酢烏賊を、口に放り込んだ。口いっぱいに独特の味わいが広がる。
「うん、やっぱり、『するめ』より食べ易い」
小さく呟く陽子を遠甫は軽く受け流し続きを話し出した。
「こちらではな。元々、月と日が同じ数字の日は《重日》といって、お目出度い特別な日とされておるのじゃ。しかも奇数は陽の日。偶数は陰の日と考えられている。よって奇数時の重日と決められた」
「へぇー」
陽子は思わず感嘆の声を挙げた。
(ひょっとすると蓬莱であった行事もその流れをくむのかもしれない)
 何となく陽子がそう感じていたその時、遠甫は更に興味深い話をし出した。
「それは、慶東国(このくに)にもあっという間に広まったのじゃが。九月九日、この日だけは、何故か定着しなかった」
「九月九日ですか」
 陽子は思い巡らせる。
(私が蓬莱にいた時代にもその日は特に何も無かったような……)
 ここまで考えて、陽子は、はっとした。昔、学校で国語の授業を受けている時、九月九日を題材にした怪談話を聞いた事がある。
(確か再会を約束し別れた武士同士。その一方が故あって相手の男との再会の約束を守れ無さそうになる。困った男はふと魂だけとなれば即相手の男の元へ向かえるのではないかと考えた。男は自ら命を絶ち魂だけとなって約束の日に相手の男の元へ行く。そうまでして儀を通した男の物語ではなかったか。そして、その期日が、九月九日)
「なんの節句だったかな……」
 朧気になった記憶をたどろうと一人呟く陽子であったが結局思い出せなかった。
「その九月九日はどうして、慶東国には定着しなかったのですか?」
 陽子が訊ねると、遠甫は、どこか寂しげな表情で、残っていた酢烏賊をかみ締めた。そしてごくりと飲み下すと静かに話す。
「本来であればこの日が一番お目出度い日の筈だったのじゃ。何せ陽を意味する数字の最大数『九』が重なる日なのじゃから。この日は『陽』が一番極まった日が重なるので『重陽の節句』と言われていた。そして、自分や家族の長寿と一家の繁栄を祈る為のものだった。しかし……」
 遠甫の瞳に郷愁をはらんだ影が浮かぶ。
「達王が時代華やかだった頃には盛んであったこの日も、達王が斃れそしてそれから幾代か王が起とうとも短命であったから……。民は次第に長寿を願うのが馬鹿らしいと思うようになっていったようじゃ。彼らはその行事に縋る事も忘れてしまった」
 陽子の心に、苦い思いが浸透していく。その行事が定着しなかったのは、王の不義の為。安寧を得られない慶東国の民は、次第に諦めを覚え『重陽の節句』はその存在を忘れていった。
「……なんだか哀しいですね」
 陽子は唇を噛んだ。その様子を遠甫はゆるゆると眺めている。
「もうすぐ九月九日である。如何だろう。陽子おぬしが広めては貰えないだろうか」
「え?私がですか」
「駄目か?」
 陽子は少し迷っているようであった。細い酔烏賊を指でくるくる弄んでいる。遠甫はふと息を吐き出し、やんわりと諭すような声音で話し出した。
「何非公式でよいのじゃ。昔行っていた『重陽の節句』の慣わしを、おぬしの手で復活させて欲しい。この日は農耕でも刈り取りが終わり一息ついた日となる。農耕の一年の締めくくりとしてこの行事を増やしたいと思うのは儂の我がままだろうか」
 遠甫は遠い昔を思い出したのだろう。遠くを見る目つきとなった。それを見るにつけ陽子の胸がじんと切なく軋む。何とかしたいと思わせる哀愁を彼の背中に感じてしまった。
「……どうやれば良いのですか?」
 小さく呟く声を遠甫は聞き逃さなかった。
「やってくれるのか?」
「尚隆殿のように大げさには断行しませんよ。ただ浩瀚とも相談の上九月九日に何か出来るように配慮致しましょう。上手くいけば毎年行えばよい。民に広がれば、こんなに嬉しい事はない」
 言って陽子は遠甫に笑いかけた。遠甫の表情は安堵の色合いを見せ、
「そうか、やってくれるのか」
と何度も口にしていた。
「これはな陽子に相応しい日では無いかと儂は思う。ほれ、『重陽』とは『陽が最高に極まりそれが重なる日』だと言ったであろう。こんなにもこの国におぬしが治めている治世に似合いの祝い日はないと思うが」
これを聞いて陽子は固まった。そして急にもじもじし出す。
「そ……そんな……。確かに有難い事ですが私にはまだまだ分相応の話ではございません。その……どうも私の字の一部を使うのは……」
「何じゃおこがましいと言うつもりか?のう、陽子。おぬしは一国の王ぞ。その存在を誇示して何が悪い」
「そうかも知れません。それにこの呼び名は元々あったのですし。しかしやはりまだ私には……」
 陽子がどんどん恐縮し小さくなっていく様をひとしきり眺めていた遠甫は、表情を和らげるところころと笑い出した。
「ほほほほほ……。そう言うと思ったよ。陽子の性格を儂が理解してない訳がなかろう?これでも多少付き合いが長くなるしの」
遠甫は髭を整えつつ改めて口を開く。
「この日は『菊の節句』と言う別の言い方も存在している。これではどうかな?」
「『菊の節句』ですか。ええ、それでしたら有難いです」
 遠甫は満足げに頷くと茶をひと啜りし徐に立ち上がった。静かに窓辺に向かうと、園林(ていえん)にある菊に目を移す。その瞳は眩しそうに目を細めその向こうに見える大切にしたい記憶をかみ締めるように。
 暫くしてふと悪戯をする子供のような表情をすると遠甫は振り向いた。
「『重陽の節句』の逸話は、儂と陽子の二人だけの秘密にしよう。もしかすると気付く者もおるかも知れぬが訊ねられてもとぼければ良い」
「秘密、ですね。ええその方が私は有難い」
 陽子は別の言い方に直して貰った事を安心しているのだろう。ほっと表情を和らげた。それを聊か艶やかな光を放つ遠甫の瞳が捕らえる。彼はまじまじと陽子を見据えるとこう話し出した。
「儂も陽子と間に秘密を共有することが出来て楽しいわ。のう陽子。知っておるか?秘密の共有はその者に次第に特別な感情を植え付ける事になる」
「え?それは……」
 陽子は知らず顔を赤らめた。構わず遠甫は一歩陽子に近付き、続きを話す。
「その感情は、甘く……。そして、色めいておる……」
 ゆっくりと近付き皺がれた手を陽子の肩に乗せると陽子は軽く震えた。思わず目を伏せ身を硬くしようとする。
 と突然遠甫が笑い出した。
「ほほほほほ……。誠、陽子の反応は面白い」
 陽子が目を開けると口元に手をあてがい笑いを堪える遠甫の姿があった。
「ああー!からかいましたねぇー!」
 陽子は頬を膨らませ、遠甫を睨む。
「いやいや儂とて男ぞ。本気だよ」
 遠甫は座り直すと、わざと茶器を口元に引き寄せふうふうと覚ます仕草を大げさにしながらゆっくりと茶を楽しんでいる。その顔は楽しくて仕方がないとにやにやしているようにも取れる。
「もう本当に、あなたというお方は。私は失礼致します。ここにいたら又あなたにからかわれてしまう」
 ひどく憤慨した風を装う陽子だったが彼女も又目は楽しげに笑っていた。そして改めて令を取る。
「楽しい時間を有難うございました。それと酢烏賊も」
「又遊んで下され。儂は最近めっきり暇になったからの」
 手をひらひら動かしながら遠甫はにこにこと暖かい笑顔を見せている。
 陽子がその場を後にした。彼女の気配がなくなると遠甫はゆっくりと椅子に腰掛けた。そして充実した微笑をその表情にたたえ自身の顎鬚に手をかける。
「儂が暇になる事は喜んでいい事やも知れぬ。本当にあれは、見事なまでに魅力的に成長した」
 卓子の向い側に陽子が残した冷え切った茶器が遠甫には一際眩しく感じられた。




〜補足〜

「常世の暦について」
まずお断りですが、私は常世の暦を太陰暦で大体とらえています。絶対そうだとは決め付けてませんが、年中行事を話しに捻じ込むのに、季節感とか何かと都合がいいからです。
にもかかわらず、初出しは、今の暦(太陽暦)にしたがう。
日付と絡ませてのUPは、その方が判り易い気が致しまして。
要は私の都合で、こんなややこしい事になってます。
今回も、「重陽の節句」は、現在の晩秋時期になります。なので、現在の9月9に当て嵌めると、菊はまだ咲いておりません。
そこに違和感がある方。こういう理由ですので、ご理解下さいませ。

「重陽の節句」
五節句の一つ。陰暦9月9日。
五節句は他に「人日(七草の節句)1月7日」「上巳の節句(桃の節句)3月3日」「端午の節句 5月5日」「七夕の節句 7月7日」がある。
日本には江戸時代に公式に法制化された式日だそうです。式日とは現在の祝日のようなものだと考えていいらしい。
どうしてこの期日に設定されたのか、設けられた意味は、話の中に適当に捻じ込めました。
常世は中国的思想が色濃くあるような気がしているので、「重日思想」「陰陽説」は、常世にあってもいい事にしてしまいました。

さて、他の節句は割りと勇名であっても「重陽の節句」は馴染みが薄いですね。
それは多分、公式行事としては重要であったが、それ故に民衆に浸透しにくかったと言う事と。
もう一つは新暦(太陽暦)を用いるようになってからは、生活に密着した側面(収穫の節句やこの時期を境に衣替えを行うという事)が、新暦9月9日とあまりにも重ならなかった為ではないかと、考えられているというのが、一般的理由です。
つまり、SS中で「重陽の節句」が広まらなかった理由を記した部分は、この節句で何を願ったかを参考にした、私の捏造、こじつけ話です。
ここは実際の理由とは違うのでお気をつけ下さい。

「重用の節句」と言うと、私は上田秋成作の「雨月物語」内の「菊花の契り」なのです。私、これについて語ろうとすると、腐女子モード発動。
「やおいが」「衆道が」を連発の、妖しい脱線話がえんえん続くので、ここは口にチャックします。
陽子が授業で習ったとした怪談話はこれの事です。今回はさらっと触れた程度にさせて頂きましたが、
お好きな方見えましたら、こそっと教えて下さい。実は、語りたい事だらけだったりする;;



9月9日は我がサイト「酔訛楼」の開設日。この話はサイト開設一周年の時に書いたモノです
全く意識なく「重陽の節句→菊花の契り→目くるめく衆道の世界(私の中で決め付け)」この日を開設日にあてる自分が怖い。
これ、遠甫→陽子 風にするのには無理矢理感もいがめないのですが。突如、酢烏賊をアイテムに持ってくるし。しかし、こうしたかったのには実は訳がございます。
サイト初めて初めての四月バカ(エイプリールフール)で、私は今だかつて無いくらいの羞恥プレイをやらかした訳ですが。一応そこで、募集したんですよね。何を募集したかは、改めて生き恥をさらしているので(うん、私、Mだから)お気が向きましたら、
ここを確認して下さい。
そこで挙がったお方が、遠甫と陽子。そこで、噛み締めるCPの誕生となった訳です。
とは言え、CPになりきれてはおりませんが。
ひょんな事から公約が実行できてほっとしてます。出来、不出来は…。いいの!書き上げた事で満足しているから、今回はこれで許して!

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2006.8 初稿
素材提供 十五夜さま
禁無断転写