その日を迎えるにあたって・・・2 〜尾崎優独白〜 武熊珠喜様 作
喉がからからだった。まさか、まさか、こういうことになるとは。
お蝶さまから軽井沢の別荘、というより邸宅に招待があったときは、もっと気軽に考えていた。
どうせ、藤堂やおチバの奴も一緒なんだろうとか、お蝶さまはいつものように岡さんにばっかり優しいんだろうとか。
まあ──、ほんの少しは期待があったというのは嘘じゃない。
何しろ別荘だし。何しろ高原だし。軽井沢だし、一泊するんだし。
同じ「一つ屋根の下」といっても、合宿とはえらく違うのは当然だし──。
だが、過剰な期待は禁物。これは長年の片思いで身に沁みたことだ。
お蝶さまに関する限り、百のうち九十九まで差し引いて考えるのが得策なんだ。
例えば、あのたおやかな笑み。あれをもらったからと言って有頂天になってはいけない。
あれは、お蝶さま特製公的スマイル。お慕い申し上げる誰にでも公平に与えて下さるんだから、
絶対に特別だと思ってはいけないのだ。
耐える。ひたすら耐える。それに何年も徹してきた。
あれだけの華に惚れちまった者の運命だよなあ。身の程知らずだってことは分かっているから、無視されようが、鼻先で断られようが耐えるしかないわけだ。
まあ、その点では俺は強いよ。
なんていったって、これだけテニスで強いのに、いつも二番手なのは俺だ。
世の中では、俺が藤堂といいライバルだとか、勝ったり負けたりとか言ってくれるが、実際はどうだよ?藤堂が102連勝とか言うじゃないか?それって、公式戦では俺に負けたことがないって意味だろ?
だいたい不運だよなあ。俺が島先輩とか、後輩の香月とかの学年であってみろよ?たちまちスーパースターだろ?それが、よりによって藤堂と同じ学年なんだからさ……。
だが、こいつのおかげだ。二枚目という点では藤堂に劣り、三枚目という点ではおチバに劣り。
どうにも救いがないと思えるが、この人の陰になって堪え忍ぶ経験のおかげで、俺は絶望的片思いの年月を耐えることができたんだ。
それで、やっぱり忍耐のおかげだろ?地道な努力が実を結ぶって奴だろ?
二人で海に行ったことがあるんだよ。いや、俺は単なる運転手だったかも知れないけどさ。
凄いだろ?何と言っても、お蝶さまと二人で海だ。大学に入ったばかりなのに、無理してオープンカーなんか買っておいてよかったと思ったよ、本当に。
あの時の思い出は、泣けるほどの宝物だった。初めて触れたお蝶さまの手。
滑らかな絹のような手触り。あまりにも嬉しくて藤堂に電話しちまった。
人に話すもんじゃないと思うだろ?そうだとは思うんだが。お蝶さまがくれた希望のかけらは俺だけの胸にしまっておくべきだと思うんだが。
でもやっぱり、たまには言ってみたいじゃないか!
藤堂の奴は、岡さんとどんどん進展してるんだ。そりゃさ、コーチに止められてはいた。
あいつがそれで苦しんでいるのも知っていた。
でも、それでも両想いだ。俺のように絶望の砂漠で喘ぐ奴とは違うよ。
で、そんな意地があったせいか、俺はどうも窮極の時になると藤堂に報告したくなるという癖がついちまった。お蝶さまが肉離れで入院したときのこと。
しょ、しょ、衝撃的告白を受けたんだよ。「海が支えでした……」
あのお蝶さまが俺の目を真っ直ぐ見て、「海が支えでした」
それって、それって、それって……。俺の頭は真っ白になり、花びらだけが舞った。
それって、お蝶さま・・・。もしかしたら、少しは俺のこと……。
あまりの展開に俺は心の中で叫ばずにいられなかった。相変わらず藤堂に向かって。
──で、だ。さすがに今回ばかりは藤堂に話すわけにはいかない──よな?多分……。
竜崎家の別荘に着いたら、他に客はいなかったなんて。
食事の用意をする使用人以外、誰もいなかったなんて。お蝶さまと二人っきりだよ。
虫の声が静かに響く別荘で、キャンドルともして、くつろいだドレス姿のお蝶さまと二人っきり。
落ち着き払った微笑みを前に、今夜のことを思ってガッチガチの俺。
それでも、そうはならないと分かっていた。別荘の管理をしているという夫婦が、周りで立ち働いているんだから。この人たちが帰らなければ、密かにバッグに入れてきた品物の出番はないわけで──。いや、だから、それほど期待していたわけじゃないぞ?
そんなものを使う場面が訪れることはないと思っていたさ。でもだな、やっぱり万に一つということもある。もし夢にまで見たことになったとする。それで、その時お蝶さまを守るエチケットがなければ、男として最低じゃないか!
「尾崎さん?」
非常にまずい方面に想像が飛んでいる瞬間に、お蝶さまに微笑みかけられた。
「は、はい?」
「シャワーを浴びていらっしゃいませんこと?」
くすりとした笑いに気づけば、俺の額は汗まみれだった。涼しい別荘にいて、テニスをしたわけでもないのに、この有様。
「あ、あの……」
「お気になさることはありませんわ。わたくしも自分の部屋のシャワーを使って参りますから」
俺が口を開けたのは、この別荘では部屋ごとにシャワーが付いているという事実のせいではなかった。
どうしよう、どうしよう、どうしよう。お蝶さまは本気なんだろうか。
これは何かのテストなんだろうか。俺は、女神の前で男になってしまっていいんだろうか。
藤堂!!俺はどうしたらいい?
シャワーから出たとき、建物は妙にしーんとしていた。管理人の夫婦は帰ったのかと思うと、洗ったはずの背中に又汗が浮かんだ。夜の別荘にお蝶さまと二人きり。
いや、例え他に人がいなくても、寝込みを襲いに行くような俺じゃない。そこんところを、お蝶さまは認めてくれたんだろう。安全無害な──、いやいや、信頼の置ける男という奴だ。
今まで馬鹿をしないでいて、本当によかった。病院であの世紀の大告白を受けたときから、期待が異常に膨らんで、ちょっと暴走をしそうになったこともあるが、我慢して本当によかった。
こんな風に信用してもらえるだけでも、俺には十分なご褒美だ。
「お……蝶……さま?」
俺は目の前の光景を見て、卒倒しそうになった。勿体なくも俺のベッド(キングサイズのダブルベッドだ、念のため)に腰掛けているのは、ネグリジェ姿のお蝶さま。
「ど、ど、どうしたんです?」
まさかお蝶さまの方からお誘いを──という馬鹿な期待を必死で握りつぶす。
「俺が部屋を間違えたんじゃ……」
そんなわけはない。俺は今自分の寝室に付属しているシャワー室から出てきたところだ。
故に、俺が身につけているのは腰に巻いたバスタオル一枚。多分お蝶さまくらいの育ちだと、悲鳴を挙げたくなる姿だと思うのだが、意外にもお蝶さまはにっこりと笑った。
「少しお話ししたくて参りましたの」
は、話──?手足が透けるネグリジェを着たお蝶さまと、バスタオルを巻いただけの俺が?
「西高を出てからもう十年。いろいろなことがありましたわね」
「はあ──」
俺はバスタオルの合わせ目を確認する。下手に動くと、とんでもないことになりかねない。
「宗方コーチが亡くなって。ひろみが世界に通用する選手になって。あなたも私も弁護士になって、それぞれ法曹界で活躍している」
お蝶さま──、活躍しているのは、バスタオルの中の奴だったりするんですが。
「苦しいことも辛いこともあったのに、振り返ればあっという間でしたわ」
いえ、あなたを思っている年月はそれなりに長かったと思いますよ。
「お互いテニスだけを追って、勉学だけを追って。何物にも代え難い十年だと思いますのよ」
それから、俺はあなたのことも追ってましたけどね。
「でもね、尾崎さん──」
そこでお蝶さまがこちらを向いた。半裸の俺をものともせず、ふわりと立ち上がるネグリジェ姿。キャンドルに照らされたシルエットに、俺は息をするのがやっとだ。
「わたくしたちの世界は狭い。そうお思いになりませんこと?」
確かにバスタオルに巻かれた空間は、無茶苦茶狭い。
「あまりにも目標に向かって邁進して、何かを楽しむゆとりも遊び心も持てませんでしたわ」
それはつまり──。
「知ってみたいと思うのですわ。わたくしは女子選手と言われ、女弁護士と言われています。けれど、わたくしが女であったことがいつあったというのでしょう?テニスコートからも法廷からも解放されて、女となったことがいつ──」
それはつまり──。つまり、つまり、つまり──。
「尾崎さん──」
お蝶さまがすっと手を差し出した。あの海の時と同じポーズだ。さあ、よろしくってよ?
触れさせて差し上げますわよ?という声が聞こえるようだ。
但し、触れていい場所はもう手だけではなく──。
藤堂!!やっぱりおまえに叫んでいいか?──俺はどうしたらいいんだ!?
お蝶さまが、妙に超有名姉妹のKお姉さまに見えてしまうのは、私の目が悪いからなのか?
おそらくお蝶さまは未知の世界の筈なのに、すっかり玄人に見えてしまうその存在感。でも又改めて読んでみると、
知らないからこそ無自覚に大胆なのかも知れないね。いずれにしても、お蝶さま、恐るべし。
一方尾崎はなんだか、偉い大慌てで全く持って可愛いぼうやでございます。別荘に誘われて「どうせ皆一緒なんだろ」
とか思いつつ、しっかりトアルモノを忍ばせておく所とか、お蝶さまの語りにいちいち青年らしい返しが入る所なんか、
可笑しくて可笑しくて。
私も細かく突っ込みたいけれど、流石に表ではこっぱずかいので我慢しますが。
さて、お蝶さまは尾崎がはじめてのお相手らしいのですけど、尾崎は如何なんでしょうね。
西高出て十年。いい大人だもん、それは人並みに等と思いつつも一方で、やはり…彼も…そのう…今まで、
純情一直線で、何にも経験してないのだろうかと思い巡らしてみたり。(余計なお世話です)
本やビデオのお世話にはなっても、とか…(←殴! ああ、スイマセンスイマセン;;)
そして私こそがやっぱりあなたに叫びたい。
「尾崎ぃぃぃ、やっぱり藤堂に報告なのかよっっっ」
武熊さん、楽しいプレゼント第二段有難う。続きお待ちしております。(邪笑)



2005.11.掲載
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