数多の星を飛び越えて

 夕刻を向かえ(あけ)の空に、ひたりひたりと紺色が混ざりゆく頃。金波宮の最奥、内殿の窓は、今宵開け放たれる。そこで一組の男女が窓の外、遥か西方を見つめていた。
「――夜明け前には帰る。即、あなたとお会いしたいから、非常識な手順を踏む事を許して欲しい。……全く、雁の主従の為さり様を何処で聞いたのか。まさか、あの方までこんな事を為さるとは思いもしませんでした」

  視線は西方に向けたまま、殆ど感情が窺い知れない表情で淡々と話すのは、長身で幽玄な姿を持つ景麒。景王の半身である。
(今日は又よく喋る事だ……) 
 一人心で軽く毒づきながらも、景麒の話に耳を傾けているのは、引き締まった肉体が一瞬少年を見紛う姿の、慶東国現国主、陽子である。
「しかし、宜しいのでしょうか。非公式とは言え、あなたのそのお姿は、あまりにも軽装ではないかと……」
 ちらり景麒が横目を見やる。陽子は本日、朝議で挙がった案件について、つい先程まで立ち会っていた。
「今宵の事は、極一部のものしか知らぬ。いつも通りにしなければ不信であろう。と、言うか、私があの案件は気になって仕方が無かったのだ。なぁーに、あちらも突然なんだ。私の装束について、いちいち難癖はつける筈がないだろう」
 陽子はこの持論に自信があるようである。黒い官服を着用し、くるりと翠玉の瞳を瞬かせた。
 ついと風が吹き抜けた。頬を擽る冷ややかな感触に、二人は目を細める。すると、西方より黒い点が見えた。点は少しづつ大きくなる。
「趨虞だ」
 月明かりを受け、五色に輝いて見えるその背に、しがみ付く様に跨る人影が見える。薄く柔らかい布を頭から被っていて、布は踊るようにたなびいていた。やがて趨虞は、開け放たれた窓辺に止まり、その上にしがみ付いていた人は、はっとすると、何事も無かったように体制を整える。だが、あきらかに乗りなれていないで慌てふためいているのが、陽子にも伝わってきて、陽子はいぶかしんだ。
「え?この方ってもしかして……」
 小さく呟いた陽子に、景麒は一瞬眉根を寄せた。だが、それより目の前の賓客をどうやって部屋に招き入れるかが気になりそのままにする。
 さて、当の趨虞に跨った人はというと、頭から被った布を右手でずらす。
「待たせたかえ」
「いいえ。思ったより早いお越しでございましたね、氾王君」
 内殿の窓を開けさせ、今宵陽子を待たせたのは、範西国国主、呉藍滌であった。


 陽子が窓辺から、藍滌の手を取ろうと腕を思い切り伸ばそうとする。
「今日は本当にお一人で起こしになったのでございますね」
「梨雪は、こんなばたばたした訪問は、遠慮したいというのでな。一応わらわの身体に使令は張り付いているけれど」
 言いながら藍滌は、それが至極当然の様に陽子の手を借り窓から中に飛び移った。
「うわぁととととと……」
 陽子は藍滌を瞬時に支えられず、後に倒れ込みそうになる。
「主上!」
 景麒は突然の事に驚き、とっさに陽子の後ろから支えるべく移動する仕草をした。しかし、何とか陽子は藍滌を支える事が出来た。というよりは、藍滌が即座を自分に引き寄せ腕を引っ張り、あいた片方の手を陽子の背中に回すと強く抱きしめたのだ。陽子の耳に口を寄せ、藍滌は囁く。
「会いたかったよ、陽子」
「……あっ」
 陽子は耳に届いた藍滌の囁きに、全身甘い痺れが走った。頬を赤らめる陽子を呆れて見ていられないと、景麒は、はぁーと盛大な溜息を零した。続けてこういい残し、その場を後にする。
「くれぐれも、御身を(わきま)えて行動を為さるように」
 藍滌は、陽子の腰に手を回し、ぐっとひき付けたまま、景麒の後姿を見送る。そして、陽子に向き直ると、妖艶な笑みを浮かべた。
景麒(あれ)も、少し位は多めに見て貰ってもよいとは思わぬかえ。そなたには、年に一度会えるか会えないかであろ」
 言われて陽子の心がざわついた。

――ねえねぇ、織姫と彦星の間には《天の川》という大きな星の河があって、二人は遠くに離れ離れでいるんだよね。そして、七月七日、一日だけ会う事が許されるんでしょう?――

 それは小さい頃、向こうで無邪気に信じていた物語の記憶。陽子は満点の星の渦であると言う天の川に、中々出会えなかった。
(私が住んでいた街の空には星が見えにくかったかなぁー。というよりは、成長するにつれそんなお伽話に興味がなくなったのだろうか?)
 陽子は、藍滌の手から開放される。藍滌は、道中乱れたらしい衣装を器用に整えていた。目の前の男の様子を観察し、自身の官服姿を見て、陽子は何故か可笑しくなった。
「ならばさしずめ、この方が姫君の方なんだろうか……」
「何だえ?」
「いいえ、何でもございません。……お疲れでございましょう。お座りになりませんか?」
 陽子は、傍にあった(ながいす)を勧めた。
「申し訳ございません。今宵の事は、なるべく穏便にしたく、最低の人数で持て成しております」
 恐縮する陽子。藍滌は徐に榻に身を預けるとくつりと忍び笑いをもらした。
「ああ、それは、構わぬよ。わらわが、如何してもそなたに会いたくなったのだから」
 藍滌の前に丁度良い温度に冷やされた茶が出された。
「しかも、仰々しくなれば、落ち着かぬであろ。逢瀬は密やかな方が面白い。そう思わぬかえ、祥瓊」
 藍滌は、茶器を用意していた女御に声を掛けた。今宵の世話は、二人の事情をよく知っていて、口が堅い方が良い。祥瓊は遅くまで残って、二人を持て成す任務を与えられたのだった。
「さようでございます。人知れず会うというのは、この上もない甘美な味でございましょう」
 祥瓊はそう答え、柔らかく笑った。
「どうぞ有意義なお時間をお過ごし下さいませ」


 陽子と藍滌は暫く談笑していた。しかし、陽子は先程趨虞にしがみ付いて慌てていた藍滌の表情が気になって仕方が無い。その様子を見て藍滌が小首を傾げる。陽子は思い切って聞く事にした。
「あのう、不躾な事をお聞き致しますが。氾王君は……そのう……あまり趨虞には乗りなれていないのですね」
 藍滌のこめかみがぴくりと動く。
「ひょっとして……とか、思ってしまったのですが。あのう……氾王君は……。飛行が……」
「……だったら、どうだと言うのかえ」
「え?」
「だったら、可笑しいのかえ」
 見れば、藍滌は扇子を広げ、殊更派手に仰ぎ、少々ふてくされた表情で横を向いている。
「え?!えー!」
 陽子は何故か意外だと思った。いつも自身に溢れ、踊るように生きているこの男に、苦手なものがあると言う事実に驚いているのだ。陽子は藍滌に、これまでにない親しみを覚えた。そして、甘い気持ちとともに、もう少し藍滌が弱った顔が見たいと、弄じたくなってきた。
「それは勿体無いではございませんか。では、今回ここまでの飛行中、一度も下は見なかったと?」
「……見なかった」
「夜は雲海の下は、あんなに綺麗だというのに?」
「これ陽子。夜の飛行は危ないであろ。第一、雲海の上を走れば煩わしい妖魔の襲撃が無いのじゃ。わざわざ、下を走る事は無いであろ。早くそなたには会いたいとは思うが、一日中趨虞を走らせるのは負担がかかる故、日が暮れる前に、程よき所で宿館(やど)を取ったわ」
 藍滌は扇子をぱちりぱちりと開いたり閉じたりする。
「そうですね。それは、そうですが……」
 悪戯を咎められた子供の如く、一瞬しゅんとうな垂れる陽子であったが、そっと藍滌の様子を盗み見ると、「ただでさえ、天空を疾走するは気が落ち着かぬと言うに。その上、何も見えぬ夜の飛行等ありえぬわ」
等と、ぶつぶつ一人ごちている。
「ふっ、ふふふふふ……」
 陽子の肩が僅かに震えた。
(か、可愛い。可愛すぎるっっ)
 陽子は藍滌の座る榻に近付き、彼の手を取った。
「そうだ。今宵は是非一緒に参りましょうよ。私がご案内致します。これでも私、趨虞はしょっちゅう使って下界に……あっ、それはどうでも良くて。趨虞の扱いは、わりに上手な方なんですよ。氾王君は、私の後でしっかり私に捕まっていればいい」
 無理かも知れぬと思いながら、更に慌てる藍滌が見たくて、思わず陽子は申し出た。そして、藍滌の反応を待つ。彼は暫く考えて、ぼそっと呟いた。
「後は振り下ろされそうで嫌じゃ。前に乗って、そなたが支えてはくれぬのかえ」
(あっ断わらないんだ)
 陽子は思わず突っ込みそうになったが、そこは堪えてこう続ける。
「それは、無理です。叶うなら、それが安定しそうですけど。仮にもあなたは男性。骨格が大き過ぎます」
「本当に大丈夫なのかえ?」
「ええ、大丈夫です!」
「夜の風景は格別であると?」
「任せて下さい」
「――陽子を後から抱きしめるのは、面白き趣向じゃ」
「え?」
「……いや、何でもない」
 どうやら藍滌は別の誘惑に負けて、乗ることを決めるようである。
「では、もう、時間がございませんよ。氾王君の趨虞をお借り致します。なぁに、利口そうでしたから。私の言う事も聞くでしょう」
 そうして、二人の夜の飛行が決まったのだった。


 藍滌が乗ってきた趨虞は、隣の部屋に当たる露台に休ませていた。
「さぁ、しっかり掴まって下さいね」
「こう、かえ?」
 後に藍滌の存在を確認し、陽子は知らず頬を赤らめた。柔らかな布に隠されたしなやかなその身体は、やはり男性の大らかさを感じ、陽子が、日頃、張り詰めている心を、容易に溶かす。
(今だけは、私はこの人に身を預けても良いのだ)
 その安心感に包まれ、陽子の胸は甘く高鳴る。
 趨虞は金波宮を離れ、雲海を疾走した。すり抜ける風は身を切るほど冷たい。しかし、その風を受けると、時より煮詰まった頭が冴えて来る気がして、陽子はこの感覚が好きだった。
(それに今宵は背中がとても温かい)
「もう少ししたら雲海を抜け、下界を走りますからね。くれぐれも振り落とされないようにして下さいね」
 陽子は藍滌に聞こえる様に明るく大きな声を張り上げた。藍滌は、終始、陽子の細い背中に隠れるようにして身を屈め、瞳を思い切り瞑っていた。雲海の下に潜ったのだろうか。気流が急に変わった事をその身に感じても、目を開けれなかった。開ければ、下界に吸い込まれそうな強い引力を感じ、滑り落ちてしまうのではないか。情けないと、笑われようとも、その事が頭から離れてはくれなかったのだ。陽子の背中に頬を寄せ、暖かい体温に触れる。衣装に密かに焚き込められた香が、陽子自身の熱で新たな芳香を放ち、藍滌の鼻を心地よく擽る。引き締まっているとは言え、女性らしい柔らかく丸みを帯びた肉体。
(ふむ、これは、悪くない)
 安心を得た藍滌は、そっと瞳を開いた。


 眼下に広がるは、漆黒の闇に浮かぶ、数多(あまた)の星。その下はほの明るい、何処か暖かい光がある。あれは、人の暮らしを支える明かり。沢山の煌きに、藍滌は息を呑んだ。
「……やっと、ここまでになりました。この下は堯天。私が治める土地でございます」
 陽子の声が背中越しに聞こえた。陽子は趨虞に指示したのだろうか。先程より受ける風の圧迫が弱まった。
「この下には人の暮らしがある。私はこの灯火を見て確認する。これを絶やしてはならぬと」
 細い背中から響く声は、凛としたものだった。藍滌はその言葉をかみ締め、こう返してやった。
「まこと、美しきものよのぉ」
「氾王君と私の間には、この灯火がいくつもある。この世界の、西と東に別れた我等。それは趨虞をもってしても幾日も掛かるほどに遠い」

―天の川に隔てられた二人のようだ

 陽子はそう思った。しかしそれは、寂しくとも不快なものではない。
 この光を守る為に、我等は存在している。
「ですから、始終会えないでしょう。お互いおいそれと、気軽に抜けれぬ事情がある。だから、やっとお会いできた今宵を、私は心から喜んでいます」
 藍滌の心に、甘く広がるときめきがあった。
範西国(ここ)を暫く頼むと、梨雪以下自国の官吏を説き伏せ、その上一番早いからと、苦手な飛行物に騎乗して、陽子に会いに来たかいがあったものよ)
 陽子が愛しいと、強く強く想い巡らす藍滌は、思わず本音を漏らした。
「このまま、そなたを貰って帰ろうか」
 藍滌は抱く腕に力を一層込める。
「え?今、何と?」
 陽子は藍滌が何を呟いたのか分らず、大きな声で聞き返す。
「……いや、なんでもない」
 藍滌はふっと静かに笑うと、快活な様子で話を切り出した。
「さて、名残惜しいが、日の出までの約束と、景麒(あれ)に睨まれては敵わぬ故、戻ってはくれまいか」
「ああ、そうだった。急に外に出て来たから、皆が心配するといけないし、戻りましょうか」
 陽子がそう言って、趨虞の毛並みをぽんぽん叩く。すると、心得たとばかりに趨虞はぐんぐん加速し上昇した。藍滌は又もや、陽子の背に隠れるように身を屈める。その様子にくつり笑みを浮かべて、陽子は前方を見据えた。

(年に一度くらいしか会えぬともよいのです。こんな忘れえぬ楽しい一時がもてるのだから。ねぇ、氾王君。来年も丁度今頃、お会い致しましょう。数多の星を飛び越えて)



おまけもあります



…まっ、間に合ったぁ。常世で一番遠い遠距離恋愛と言ったら氾陽でしょう。「氾陽で七夕を」は、昨年からネタだけは仕込んでいたものだったのでした。
そして、書き進めるうち「藍滌は飛行が苦手」という、勝手捏造を又やってしまった。(そう、又;;)
何となく藍滌は、陸路か海路を使ってゆっくり道のりを楽しむのかなぁ〜と、もし、そうだったら、(私が)楽しいのにと思ったので。
早く陽子に会いたいが故苦手な飛行でやってきたと言う事で、いつもの妙に飄々とした強気な所が影を潜んでおりまして、うーん、何とも……(皆まで言うまい)
でも、でもね「陽子が仕切って藍滌が寄り添う」何て言う構図も、たまには面白いかなぁ〜と思ったんだもの…(こそこそ)
しかも、こういう季節モノは「公開期日」が重要だったりする訳で。
タイミング逃したら、「又一年お蔵入りになるぞ(それまで、サイトは続いてるのか?)」と、強迫観念にかられての一気書き。
ですので、全体的にちょっと荒削りなのが心苦しいですが、まぁ、季節モノだし、ねぇ。(と、同意を求めてみた)
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2006.7.7初稿

素材提供 MILKCATさま
禁無断転写