酔訛楼
 金波宮に、心から安心した様子の陽子と浩瀚が戻った。
 九月九日。
 この日二人は、気難しいと噂されている相手に、ある交渉をしなければならなかった。よって、普段は殆どありえない組み合わせで、その者の説得にあたったのだった。
 交渉は無事成功したかのようだった。上手くいけば慶東国のとある場所が活気付くであろう。
「ご苦労であった」
 王の執務室に戻ると、陽子はどさりと近くの椅子にその身を預けた。疲れからか、沢山の装飾品が出かける前より重く感じる。
「いえ」
 浩瀚は短く返事をする。彼とて、その全身に気だるさが残っている筈なのだが、表情一つ変えず、すっくと控えている。
「それにしても、宜しゅうございました」
 低く落ち着いた声音が、陽子の耳に心地良い。陽子は目を伏せ、息を吐き出した。
「そうだな」
 それから陽子は女官に目配せをした。
「すまないが、この衣装を外してしまいたい。良いか」
「それはもう。主上さえ宜しければ」
 女官がそう答えると、外がにわかに騒がしくなった。
「では、私はこれにて」
 着替えるという事は、退出をしろと言う事だと判断した浩瀚は、即その場を立ち去ろうとした。それを陽子が止めに入る。
「待って」
 浩瀚が足を止める。陽子は思わず小さく叫んだ口元を右手で覆い隠した。そして息を飲み込むと、改めて口を開いた。
「すまない。お前も疲れているのは重々承知しているのだが…。もう少しだけ私に付き合って欲しい」
「しかし……」
「この度のお前の働きを是非(ねぎら)いたいんだ。遠甫が言う《登高》だったかな。高い山に登ると言う事は、今日済ませたけれど。あいにく、菊酒を頂く事は出来なかっただろう。丁度いい機会だし、お前と一緒に出来ないものかと思った」
 恐らく陽子は帰る道中、この事を考えていたのだろう。一気に言葉を吐き出した。そして様子を伺う。
 浩瀚は陽子の顔をまじまじと見つめ返事をした。
「私に酒に付き合えと、そう申すのですか?」
「嫌か?」
 陽子の目が、聊か不安で曇る。浩瀚は、はんなりと笑い返した。
「主上から折角お誘いを受けたのに、断わる理由などございません」


 簡易にとは言え仕度に時間が掛かる陽子を待つ間に、浩瀚は留守中貯めた仕事に目を通した。頃合を見て、女官から呼び出しがかかり、浩瀚は、正殿は花殿の一室に向かう。
 その一室の供案(かざりだな)には、大きな甕に白や黄金色赤紫色の大小に咲きほころんだ菊が挿されていた。
 本日金波宮は、何処もかしこも菊の花で埋め尽くされている。
 陽子は普段着慣れた、それは一見すると、男性の装束のような出で立ちに着替えていた。しかし、ゆるく纏め上げた髪には、茱萸の赤い実が揺れている。
 陽子と浩瀚は設えた場所に腰を下ろすと、甕に挿してある菊を静かに眺めていた。その間控えていた女官等が静々と酒の支度を始める。
 二人の前に置いてあった杯には、並々と酒が注がれた。その面にそっと黄色い菊の花弁が浮かべられる。花弁が一層引き立つよう用意された朱色の杯。陽子は甕に挿してある菊の美しさを堪能し、そして手元にある杯を興味深く見つめていた。
「では。一先ず、一歩先に進んだ事を祝って……で、宜しいのでしょうか?」
 浩瀚がことりと杯を持つ仕草をするように僅かに指を動かす。だが、進んで高らかには挙げなかった。あくまで陽子が杯を取るのを待ってからのようである。
 陽子は、浩瀚の意図を汲んで、慌てて杯を手に取った。
「乾杯」
 二人はにっこりと微笑んだ。
 陽子は自身の唇に注がれた酒をほんの少し湿らせると、思わず眉根をひそめた。
「主上。無理を為さらなくても宜しいのですよ。元々主上は、お酒はあまりお体に合わない様だ」
 くつり浩瀚が笑みを零す。陽子は何故かそれが気に入らないらしい。
「別に。無理はしていない。……久しぶりだから、ちょっと吃驚した」
 そう訳もなく強がってみせる。だが、浩瀚は余裕のある笑みを崩さないまま、黙っている。
「そうだ。菊の花弁が、飲む時唇にあたるだろう。これにも、吃驚した」
 指差す杯の先には、黄色の花弁がゆらゆら揺れている。
「さようでございますね。菊の花弁が唇にあたりますね」
 一応は納得をしたという風を装い、浩瀚が微笑する。
「そう……そうなのだ。ちょっと飲み難いが、趣は十分ある」
 言ったかと思うと、陽子は一気に残りの酒をあおった。
 浩瀚は目を細めつつ心配した。
「本当に、ご無理は為さらないで頂けますか?」
「大丈夫だ。これ位」
 陽子が杯を傾けるので、浩瀚は観念して、彼女が持つ朱色の杯を酒で満たした。


 宵も深まり、陽子は徐に飾ってある菊の甕に近付いた。
「こうして菊の花をまじまじと見る事もなかったが。…本当に、高貴で綺麗な花だ。浩瀚も近くで見てみないか」
 そう潤んだ瞳が誘うので、浩瀚もつられ静々と甕に近付いた。
「気付いていたか?浩瀚。お前の作った講談に習って、茱萸の小枝を髪に挿してみた。これで招かれざる客は来ないだろう」
 陽子はくすくす忍び笑う。そこに、いつも纏っている張り詰めた気は殆ど無く、只、今は、一人の女という事を楽しんでいるようである。
「存じ上げておりました。よくお似合いでございます」
「ねぇ、何故、わざわざ茱萸を携える必要があるのだろう?遠甫も《登高》による、古くからの慣わしでそう言っていたけれど」
 赤い実が零れぬよう気を使いながら、陽子は髪に手を触れる。
「さて、どうなのでしょうね。本当の所は私も知らないのですが、茱萸は香が強い植物故《虫除け》になる事は知っております。山を快適に登る為に実用も兼ねていたかも知れませんね」
 窓から、青白き月明かりが二人を照らす。
 陽子は一瞬眩しそうに目を細め、そして足元をぐらつかせた。
「うわっと、危ない」
 咄嗟に浩瀚の胸を借りた。
「やっぱり、少し酔いが回ったかな」
 小さく呟く。その後、すぐ離れようとして、結局やめた。


   『酔』―― しなだれかかる、あなたに。戯れの振りをして


「……父親みたいだ」
 陽子は浩瀚に頭を預けたまま、くつり忍び笑いをもらした。胸を借りている心地良さは、別の理由だと陽子は知っている。しかしそれを悟られたくは無い。
(だから、これくらいの戯言が丁度良い)


   『訛』―― 杯を満たし注ぐ言葉は嘘。告げることはできなくて、


 浩瀚は困ったような笑みを浮かべた。
「私がございますか?」
「そう。お前が父親。そう言えば、父親に酌をする事も無くこちらに来てしまった。そうだ。浩瀚。真似事に付き合ってくれないか?」
 特に思ってもいないのに、口から零れるのは嘘。告げれないならば、せめて、この時間を大切にしたい。
 陽子は、卓から、酒の一式を引き寄せた。そして、朱色の杯を浩瀚に手渡す。
 浩瀚はふっと息を吐き出すと、陽子から杯を受け取り、小首をかしげた仕草をする。
「特別でございますよ」
 注ぐは数秒。
 その時二人は同じ部分を見つめている。
 それは時間を共有し、お互いの視線が混じりあう瞬間。
 戯言と酒を杯に満たし、陽子は浩瀚に笑いかけた。
「さぁ、どうぞ」
 浩瀚は、ほうと息を吐いたかと思うと、注がれた酒を口にする。
「参った……な」
 目の前の女は、屈託なく笑っている。あまりにも無防備に。浩瀚を信頼しきって。燻り出すと消してきた感情の波が、悪戯に湧き上がりそうになる。
(このままでは、開かれてしまう)
 その時、口付けた杯の。
 菊の花弁が唇に纏わりつき、戯言は戯言のままにする事を思い起こさせた。陽子の髪に挿した茱萸が又揺れる。
「虫除けとはよく言ったものだ」
 浩瀚が自嘲気味に瞳を伏せた。


   『楼』―― 閉じ込めてしまいましょう。想いのすべて、扉を閉めて。


「お気が済みましたでしょうか?」
 浩瀚の落ち着いた声が降りかかり、陽子は、はっと動きが止まった。
(何か言わねばと思わず《父親》等と、言ってはみたが。それに、つい勢いで《酌の真似事》等と。浩瀚は気を悪くはしてないだろうか)
 不安げに陽子は、浩瀚の口元に目を落とす。まともに瞳を捕らえられない。
「……つき合わせて、すまなかった」
「いえ。こういう役回りも悪くは無いと、思っていた所でございます」
 言われて陽子が浩瀚と目を合わせると、浩瀚は柔らかく笑って、甕の菊に目を向けた。


 酔狂な戯言は、うたかたの夢。
 交わす言葉は、訛った想い。
 己を閉じ込め、楼観する事許されるなら。


「付き合いましょう。あなたと共に」
 聞こえるか聞こえないかの小さな声音で浩瀚は呟くと、菊の花弁を一枚ちぎり、自身の杯に浮かべ、そのまま一気に飲み干した。
「楽しい時間を有難うございました。私はそろそろお暇致します」
 ことり、置かれた杯の、僅かな音に反応して、おずおずと奥に控えていた女官等が支度を始める。
 陽子は名残惜しげに思っていたが、それを表に出せぬ事は、自身が一番よくわかっている。
「遅くまで悪かった」
 陽子はこの場をどう待てばいいのか困りつつも、深く礼を取る浩瀚をぼんやりと見下ろした。


 酔った勢いで戯れた事。
 (はしゃ)いで差し込む、訛った言の葉。
 一切合財、心の楼台に閉じ込めて。


「お前を頼りにしている。私を助けて欲しい」
 陽子は、くるり背を向けた。
「御意」
 そして浩瀚は退出していった。

……微妙;;;
今回はいつもにも増して、雰囲気だけで押し切った話となってしまった。
折角の折角の頂き物が。是非ともこれで、妄想を吐露させてくれと強引に頼み込んだのに。
まだまだ萌える浩陽道の道のりは遠い(涙目;;)
王と臣下の細かい儀礼的な事が良くわからないんですよね。勉強不足です。
なんだかいろんな事が間違ってるんじゃねぇかと、シリアス追求の皆様には、臥してお詫び申し上げたい。
さて、これにて「重陽の節句シリーズ」は一旦お開きです。一応ここまで漕ぎ着けてほっとした。こんな感じで、まだまだ拙さがプンプンに滲み出たサイトですけれど、これからも「酔訛楼」を宜しくお願い申し上げます。

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素材提供 十五夜さま
2006.9 初稿
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