臥山(がざん)は芥沾洞。
 そこは先々代の景王が母が身をおいている。通称を芥沾君(かいせんくん)。臥山はひっそりとしている。
 王となったその家族は、王や家族が希望すれば、昇仙することが出来る。が、その王が斃れた後、その処遇に困る事がある。芥沾君もその一人であった。
「我が娘は短命とは言え、天勅を受け、玉座を暖めた。その間、多少なりとも国は安定したのではないのか?その母の今後を少し位は国庫が見守っても、罰があたろう筈も無い。のう、違うかえ?」
 彼女の口癖である。何かと言えば王を生んだ母という事実をひけらかし、仙である事に拘り続ける女。当時から彼女の処遇には手をこまねいていた。先代、舒覚が玉座に座った折には、事あらば明らかな嫌味を舒覚にぶつけ、余計に疲れさせてしまうという事実もある。
 困った当時の官らは、一応、先の王を生んだ母として敬意をはらうという体裁を整え、彼女の仙籍はそのままにし、山を一つ与えた。特に変わり映えの無いうら寂しい山を。そして、彼女を芥沾君と呼ぶ事にしたのだ。その呼び名には「つまらない者」という、隠された意味を静めて。それを芥沾君は気付いているのかいないのか、官らは知るよしも無いが、彼女は黙ってその山に洞府を構え住処にした。


つまらぬ女


「当日は臥山へ登ろうと思うんだ」
 そう陽子から告白された時、浩瀚の眉根が少し歪んだ。
 ここは内殿。王が執務を行う所である。遠甫より提案があった「菊の節句」が滞りなく行えるように、陽子と浩瀚は奔走する。公式に行うにはとにかく時間がない。それに、この催しは、後に民に浸透していく事を見越してのものである。もっか二人はこの節句が成功するようにと、何度となく綿密な打ち合わせをしてきた。
 陽子は、座所に控える浩瀚に目をやり、様子を伺う。浩瀚は、かける言葉がにわかに見つからなくて、黙ってしまった。窓の玻璃(ガラス)から差し込む午後の光が、陽子を照らし浩瀚は眩しく目を細めた。何も言わない浩瀚に、陽子は苦笑いと供に小さく息を吐く。
「お前もやはりあそこは拙いと言いたいのか?…そうかもな。あの方は、何かと難しい」
言って、椅子から立ち上がると光差し込む窓辺に視線を移す。


 陽子は一度だけ芥沾君 にあった事がある。それは、陽子が王になったばかりの事。
「芥沾君に一応挨拶を済ませておかないと、今後厄介である」
と、当時の冢宰靖共にたしなめられ、訳も分らず挨拶に行ったのだ。
 芥沾君はまだ登極間もない陽子を、値踏みする様に隅々眺めた。そして
「これが胎果の王か」
とだけ、吐き捨てる様に呟いた。
 その言には、刺がある風な感触で、陽子は何故かその場で小さくなったと記憶している。
(その様子を丁度居合わせた飛仙、確か芥沾君は翠微君(すいびくん)と呼んでいたか。彼女が、にやにやと見ていたっけ)
 黙ったままの芥沾君に代わり、翠微君がねほりはほり陽子のこれまでを聞く。陽子は言葉少なげに聞かれた事だけ答えていたが、そのやり取りにも陽子を嘲弄しているような雰囲気を感じとってしまい、至極居辛かった。


 陽子は当時の事を振り返ると、少し苦みばしった思いが広がる。だが、今回はこの事から目をそむけないでおこうと決めた。陽子の言葉に揺ぎ無いものを感じた浩瀚は
「別に、主上のお気持ちが固まっているのであれば、私に止める理由などございません」
 そう、静かに返してやった。だが、暫くして
「ですが、長寿を願うというという意味での『菊の節句』なのでしょう?短命であった王の母に、それは余りに……」
と言いかけると、陽子は「あっ、そうか」といった表情となった。どうやらそこまでは考えていなかったようである。
「私はただ、今年も健やかに一年が越せる事を感謝する祝い事にしたかったから。それにこれで国庫の負担を軽減出来ないかと思って」
 陽子がそう言うと浩瀚は興味深く目を開いた。
「それは?」
「うん、あくまでも想像なんだけれども。あそこは、あまり人の出入りが無いよね。一応の廟はあるけれど、あるだけのようだし。それで、あそこを。民の手によって活気付かせてみては如何だろうかと考えた」
 陽子は椅子に戻ると、手摺に肘を掛け手を組んだ。
「『菊の節句』は農作にも一段落を終え、その収穫の喜びを祝い、家の益々の長寿を願う意味もこめ、近くの小高い丘に登る事だと遠甫に聞いた。私は、民がこの日、気楽に行楽が楽しめればいいのにと考えたんだ。山に登って、心づくしの食事をする。菊の花弁を浮かべた酒を嗜む。外で景色を見ながらの食事は楽しいものだぞ」
 陽子は昔家族でハイキングに行った事を思い出し、感傷に浸る。
「勿論洞府を脅かそうとは思っていない。峰の裾野、廟の辺りが賑わえばいいのだ。賑わえば、その内、門前町も出来、露店も出るだろう。その後には僅かばかりの税収を徴収する事にして、それを芥沾君に渡せばよい。その代り国庫の負担を少し軽くする、というのはどうかなと思って」
 陽子の発言に、浩瀚は目を綻ばせた。
(面白い事を思いつきになる)
 確かに、落ち着いたとは言え、けして裕福ではない慶東国にとって、飛仙の国庫の負担は重石である。これまで、慣例であると言う事だけで、よく吟味もせず算出していたが、これによって、その部分を見直すのだという。
「それが成功すれば、どんなに素敵な事でしょう」
 浩瀚はにっこりと陽子に微笑んだ。
「良かった。もしかするとそれは出来ない事かとも思ったから。実務的な思惑はね、今言った事なのだけれども。他にも別の理由があるんだ」
 自分の意見が通った事を大変喜ばしく思った陽子は、照れながら続けた。
「『忘れないで欲しい』芥沾君はそう思っているのではないかと思うのだ」
「それはこう言う事ですか?芥沾君が今だ仙籍に縋るのは、彼女を…いや、彼女の娘が王であった功績を忘れないで欲しい、そういう事ですか?」
「違うと思うか?」
 翠玉の瞳に見つめられ、浩瀚は息を飲み込む。
 民は斃れていった王に対して容赦はしない。罵倒され、次の王に期待を寄せる。しかし、何より、寂しい事がある。それは、忘れ去られるという事。
「何となくね。芥沾君は娘を愛するが故に、あえて、残っている気がしてきたんだ。でなければ、あんな屈辱耐えられると思うか。臥せた山で『臥山』つまらぬものに身をひたすで『芥沾』だなんて」
「そ、それ、は……」
 前任者らが、体よく済ませてしまう為に行った事である。それを陽子に見定められた気がして、浩瀚は言葉に詰まる。
 少し開いた窓から風が入り、重石で押さえられていた、書類がかさかさ僅かな音を立てる。陽子は柔らかく笑う。
「どういう風でもいいんだよ。そこに人が集まれば、それでよい。なぁ、一年に一度でも思い出して貰える事って、凄く楽しい事だと思わないか?それとも、それは余計なお世話なのだろうか?」
 最後の方はブツブツと自問自答する陽子に、浩瀚は柔らかく微笑んだ。
「主上のお気持ちは良く分りました。早速この件は手配致しましょう。そのお気持ち届くと宜しゅうございますね」
 陽子は嬉しそうに頷いた。


九月九日当日。
 数日前から、浩瀚は部下に指示をし、当日の、朝議及び処務活動が、滞りなく済む様根回しをしておいた。故に当日の朝議は紛糾する事無く終える事になる。そうして午後、陽子はある飛仙に会う為に金波宮を後にする。同行者は浩瀚。王と冢宰が王宮を離れるのは異例の事である。
「何しろあの方を説得するのは容易な事では無い。私ではお力になれるかどうか心配な所ですが、今後の事に関わります故、尽力を尽くしましょう」
 身支度を済ませ陽子の前に向かった浩瀚がそう言って軽く頭を垂れた。
「浩瀚が同行するとなって心強いよ。後の事は景麒に任せたし。うん、気合を入れてこの件は成功させなくては」
 陽子も身支度を終えたようだ。訪問する相手に敬意を払い、且つ、現王としての威厳を放つよう、昨夜から女官等が考えに考え抜いた衣装を身に纏っている。
「相変わらず、頭の装飾品が重いのだが。これも、全ては本日を無事に終える為。我慢する事にする」
 言いながら歩揺(かんざし)に徐に手をかけた陽子を、浩瀚ははんなりと笑った。


 基本的に洞府の門前は、人がおいそれとは登攀(とうはん)罷りならぬ断崖である。臥山も例にもれずにいた。しかし麓には、一部丘陵な場所が存在していた。その前には洞主を祀ったと思われる廟が小さくあるが、そこにここ数日人が来たという痕跡は無い。
 陽子ら一行は正面より入る。門内では洞府の下男下女が、一様に列を並べ、深く平伏をしていた。奥に控えている初老の女性が、陽子を前にしく平伏す。一応は、現王に対して礼儀を尽くそうという彼女の行動である。
「突然の訪問失礼した。芥沾君」
 陽子が見下ろし口を開くと、芥沾君と呼ばれた初老の女性は動かぬまま返事をする。
「こんなうらびれた所へ、ようこそおいで下さいました」


 案内された花庁には花が生けられ、灯火の光が煌々と照らされていた。簡素ながらもよく整えられていて、主の趣味の良さを伺える。陽子の目の前に座った芥沾君は、言葉尻は丁寧ながらも憮然とした面持ちで口を開いた。
「それで。私に何か用があるとか?」
 陽子と後に控える浩瀚に緊張が走る。それに構わず、芥沾君は、幾分冷ややかな眼差しを向けたまま話を続ける。
「慶東国は余程安定したとみえる。たかだか一飛仙に会うのに、国の要が二人も来ようとは」

ぱちり……。ぱちり……。

 芥沾君は、手にしていた扇を、開いたり閉じたりしている。その扇は随分遣いこなれているようで、規則正しい音の旋律を奏でていた。
「本日は是非聞いてもらいたい事がございます。大切なお願いでもありまして、こうして二人で参りました」
 陽子が探る様に言葉を選んだ。
「その用とやらを、早く申しては下さらぬか?王も暇ではないのでございましょう。ここで時間を割いて貰っては、私は天帝に申し開きが立たない」
 鼻であしらいたげな芥沾君に、陽子は浩瀚の顔を思わず見る。
(やはり一筋縄では行かない……)
 浩瀚は少し考えると静かで重々しい声音で話し出す。
「詳しくは拙がご説明する事をお許し下さいませ。……芥沾君は、『重陽の節句』をご存知か?」
 芥沾君は興味が無いと冷淡に浩瀚を見やる。しかし黙っているだけも悔しいと、はるか彼方の記憶を手繰り寄せる。
「そうだねぇ。私が幼かった頃、住んでいた所の長老に聞いた事があったかねぇ。もう、随分と遠い昔の話だよ」
「その慣わしを、この度復活させたいのです。その為にあなた様が居りますこの山をお貸し願いたく」
 芥沾君の眉が大きく動いた。
「ここを?どうしようというのかえ?」
 浩瀚は芥沾君が僅かにこの話に興味が出た事を悟り、様子を見ながら言葉を選ぶ。
「何も。あなた様は何もしなくとも良いのです。ただ、今後この時期臥山の裾野に、民が訪れるかも知れぬ事をお許し下さいませんか?それと……」
「それと?」
「この慣わしを広めるにあたって、一つ講談を作ろうと思います。そこに、あなた様のお名前をお貸し頂きたく……」
 芥沾君は傲然とした面持ちで吐き捨てた。
「どうせ、居るだけで何もできぬ仙とでも、風潮するのであろう?」
「めっそうもございません」
 浩瀚は大袈裟過ぎるほど(かぶり)を振った。
「まだ大筋ですけれども。こんな話にしようかと考えておりまする」
 そうして浩瀚は、朗々と、とある作り話を始めたのだった。


 とある一家の主である男が、ここ暫く悩ませている妖魔の襲来を止めるべく、臥山の廟に訪れた。その門構えに不思議と惹きつけられた男は、その後毎日のように廟を訪れては、自分がこれからどうすべきかを自問自答を繰り返していた。
 ある時男は、神々しい光を放つ女仙に出会う。女仙はこの山の主、芥沾君であった。芥沾君は男に告げる。
「そろそろ、陽が最高に極まる日が来る。それを境にして妖魔は又お前の家を襲うであろう。避けたくば、茱萸(しゅうゆ)の実を各自小袋に包んで持たせ、菊の花を浮かべた酒を飲むが良い。茱萸は香の強きもの。その香に妖魔の鼻も鈍る。菊もまた高貴なその姿が長寿を願うのに丁度良いと古くより言われている。だから、菊をあらゆる所に飾るのも良いだろう。さすれば妖魔は、強い芳香と高貴な菊に恐れ戦き退散するであろう」
こういい残して芥沾君は消えた。
 男は陽が極まる日を九月九日と読んで、芥沾君が告げた通りに行うと、その日から妖魔は来なくなった。以来、男は感謝する意味も込めて、九月九日臥山を訪れる。その時は茱萸を携え、菊の花や菊にちなんだ供物を飾るようになった。


「……という、内容になるのですがいかがでしょうか?」
 芥沾君は、憮然とした表情を崩さずにいたが、暫くして
「――なんとも都合良き話よのう」
と、嘲った。
 陽子の顔が引きつく。
(いくらなんでも、そんな風に言わなくてもいいじゃないか)
 しかし、浩瀚は一向に顔色も変えず返事をした。
「さよう。全く都合が良い。しかし、そうして仕立て上げた話も、時が立てば、真実味を帯びてくるとは、思いませんか?『嘘も誠になる』その過程を我等と共に楽しんで頂くのも一興かと」
「くだらぬ」
 芥沾君はせせら笑った。
 陽子は気が気ではない。黙ってその場を見定めている風を装ってはいるが、実際心臓が早く鼓動し、喉は唾液も出ぬほど乾いていた。
 浩瀚は構わず先を進める。
「この際、どんなこじ付けでも良いのです。農耕に携わる民には娯楽が少ない。この慣わしを境に、ここが賑わう事は許されない事でしょうか」
 芥沾君が弄ぶ、扇の音だけが規則正しく聞こえてくる。浩瀚は息を吸い込むと、一層腹に据えた様に言葉を紡いだ。
「民の心に、芥沾君を―。先々代が景王を生んだ母がいた事を、忘れて頂かない為に」
 芥沾君の動きが止まった。
 浩瀚はあえて娘である先々代景王とは言わなかった。言わずとも分る事がある。陽子は祈るような面持ちで二人を凝視していた。
「……そう。そういう事なの」
 芥沾君は再び扇を開き、目を細めた。そして、潜んだ声音で呟いた。
「……勝手にしや」
「では」
「好きにおしと、そう言っておる」
 見ると芥沾君はあいも変わらず憮然としている。しかし、それまで彼女を覆っていた気配に、硬さが取れた気がした。
「あ、有難うございます」
 陽子は破顔し、何度も何度も頭を垂れた。浩瀚は居ずまいを正したかと思うと、その場で平伏した。そのまま動かない。その様子を芥沾君は見下ろし、極めて僅かながら、表情を和らげた。



〜補足〜
茱萸
常緑の落葉小高木で、春の末から初夏にかけて白い花を咲かせ、秋に実がなる。この実は漢方薬に加工したり、または茱萸酒をつくる等していた。

浩瀚が話した講談
お分かりの人が多数おられると思いますが、梁の代の呉均の著『続斉諧記』に記された話を参考にし、都合よく捏造しております。


  今回も、私の「やってやったゼ」的な(ヤッチマッタカの間違いか?)自己満足、大法螺話にお付き合い有難うございます。
ちょっと地味だとは思うんですけど。「風の万里〜」に一二行だけ、しかも直接登場でも無い、超マイナーキャラ。芥沾洞が主、先々代の景王母を引っ張り出してきてしまいました。
いや、もう、「実はあの方こんな感じなんじゃねぇの」と考え出したら、楽しくって。何となく私、当時の翠微君とは、「お互い、傷の舐めあいで憂さをはらしましょう」という至極後ろ向きな関係だったかもと思ったのですよ。そして個人的性格はちょっと捻くれたお方。元々の性格ではなくて、結果そうなってしまったという設定だといいなぁ〜なんてね。
そして今回は、中国に古くから伝わる重陽節の慣わし。これを常世に持ってこようとしました。
今回、重陽の節句を調べる事になって、私の中で「菊花の契り」以外の知識が入った事が、収穫だったかな。
毎回ながら、調べたものを、繋げる作業は楽しかったです。かなり強引だとお笑いの方もいるでしょうけどね。
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2006.9 初稿
素材提供 十五夜さま
禁無断転写