諍えぬ運命(さだめ) 第三話


 僅かに聞こえる人の声に景麒の意識はぼんやりと覚醒し始めた。輪郭のぼやけた不明瞭な瞳を凝らしてみれば、近くに人影が二人見える。無意識に景麒は身を潜め様子を窺ってしまった。己の心音が嫌に大きく耳に残る中、最大の注意を払って気配のする方へ神経を集中させると、それは舒栄と征州侯温精の声だった。
「――台輔がこちらに居られるだけで三州も我が陣営にまわったわ。ねえ。やはりあの方に頼んで台輔を捕らえて貰ったのは正解だったと思わない?」
「……おい、口を慎め。傍に居られるではないか」
 聊か慌てた様子の温精とは対照的に舒栄は余裕を含ませた声で返事をする。
「聞かせてあげているのよ。そして思い知って頂くの。事態はこちらの思うように動いている事を」
 声が止むと、床に布が擦れる音がして景麒の目の前には舒栄の姿があった。舒栄が景麒の顔に触れたので景麒の身体に緊張が走ったが目を閉じされるがままにしている。
 舒栄は満足げな声音で
「聞こえているのでしょう?景麒」
と努めてゆっくりとした口調で問い掛けた。それに答えるつもりは毛頭ない景麒はじっと静かにしていると、舒栄は面白そうに付け足した。
「まぁ口を封じられているから答えられようが無いのだけれど」
 くすくすと笑う舒栄の傍に温精は立ち、繁々と景麒を眺める。
「しかし……。呪を施されようとも本物は違う。州を掌握するのは少々梃子摺るだろうと覚悟していたが、台輔を敵軍からお助け申し上げたと目の前に差し出した途端、一気に我らの形勢が明るくなったではないか」
「皆、流されたい理由が欲しかっただけよ」
 少し沈んだ声で舒栄が呟いた。そうしてふいと景麒の傍を離れる。
「以前王宮で恩幸姉さんの話し相手をしていた私だもの。疑いをもたない訳が無い。……でもね。燻った疑いを声高に捲し立て玉座にたてつき民に煩く責め立てられるより、尤もらしい事実の前に屈服する方がずっと楽。……私達は確かに本物の台輔を差し出した。彼らにはそれで十分なの」
「そういうもんかねぇー」
 温精は盛大に溜息をつき舒栄に近付いたようであった。景麒が二人に気付かれないようにちらりと様子を盗み見れば、舒栄は温精に纏わりつき悪戯っぽい笑みを浮かべ口を開いている所だった。
「あなたはどうなの?私を偽王と知りつつ支援している。その心理は?」
 温精は黙っていた。そのまま目の前にいる女の艶やかな表情を悲哀が見え隠れした面持ちで見つめている。暫くして温精は苦笑した。
「俺は……。単に好色なだけさ」
 それから舒栄の唇に自身の指を這わせ紅が指に移る様を楽しむ。
「気に入りの女の捨て身の博打に付き合って、一瞬でもその女の気を引くのも悪くはないなぁーと。……そう思う俺はやっぱり阿呆か?」
 舒栄は自嘲気味に目を伏せ温精の胸に頭を預けた。
「……そう、ね。阿呆なのかもしれないわねぇ。でも今一番頼りなのは、そのあなたなのよ」
 二人はくつくつと忍び笑い、どちらとも無くこの場から立ち去ろうと歩き出した。その様子を景麒は何も出来ず聞いている事しか出来なかった。


 征州城に幽閉されてどれくらい経過しているのか――景麒はそれを考える事すら億劫になっていた。とにかく随分と長いであろう事は、食事や水を運んでくれる兵士の血生臭い異臭もいい加減慣れた事や、じっとしていればいらぬ体力も気力も削がれぬと冷えた床にだらりと寝そべるのが常になった事から想像はつく。あれから二度三度無理矢理舒栄の隣に座らされる事はあったが最近はそれも必要なくなったらしい。景麒は征州城の一室から出ることはなくなっていた。
(なぜこんな事になってしまった!!)
 恨み顔で景麒は少女を異世界から連れ戻した時を振り返る。
 少女は――混乱が先走っているせいもあるが、それを差し引いてもあまりに子供じみて頑迷であった。身を守る宝重を渡せば使いこなせず投げつけるという暴挙に出、慌てて使令を憑依させれば気味が悪いから取り除いてくれ等と身勝手な注文をつける。事態は急を要しているにも関わらず「家に帰りたい」と喚き散らす少女に、景麒は持ってはならぬ感情とは知りつつ幻滅しかけていた。
(あの様子では見つかったにしても最後まで玉座につく事を拒み続けるだろう。只今はあの娘こそがこの国の主であるというのに)
 王が玉座から逃げるように投げ出し国が荒れ果てていく様は、舒覚が王であった末期に体験した。このままいけば今度も王は存命しているが役割を果たせそうも無い。それはこの国が又も天からの庇護が受けられず民が安寧を得られないという事。景麒は不安に怯える自国の民を憂い絶望で胸張り裂けそうになる。しかし言葉を封じられた景麒は声高らかに叫ぶ事も許されない。

――よくよく主運がないと見える。のう、景台輔――

 以前嘲弄された塙王の言葉。当時景麒は瞬時に激昂したが、それは主を愚弄されたからと言うよりは、己の心を見透かされた様に感じたからではなかったかと今更思う。
(確かに私はあの娘と初めて対面した時。怯えた瞳が舒覚(あのかた)の残像と被り、すぐさま慶国の民の嘆きが聞こえた様に感じた。だが……)
 景麒の意識が額に集まる。誓約時、景麒は首たれ少女の足の甲に己が額をあてた。火急だったとは言え深く頭を下げる事が出来た喜びを景麒は確かに感じていたのだ。
(何はどうあれ、私はあの娘にどうしようもなく惹きつけられてしまう)
 景麒が胎果の少女を王だと選んだ事。それは景麒に課せられた運命であり諍う事は到底出来無い。
(だが玉座に就きそうも無い王を選ぶのが私の運命ならば、いっそこの身体を天に返して……!!)
 ふいに過ぎった答えに景麒は愕然とする。
(投げ出してしまいたいのか私は?あの娘も?慶東国も?)

――自身の諍えぬ運命からも――

 景麒は低い唸り声を上げた。
(このままではこの国は確実に崩壊していく。それを私は目の当たりにする。……いや目にする事も出来ぬかもしれない。ずっとこの一室で。舒栄(あのおんな)が王という偽りの仮面を被り続ける為に。私は何も出来ぬままただ生かされるだけなのか!!)
 景麒は湧いて出る悲観的な感情に耐えられなくなり、ついには何度も吐き気を催した。


 その時だった。
 景麒が捕らわれている一室の外が騒然とし出したのは。これまでとは明らかに違う雰囲気が漂っているのを確実に感じる。景麒は反射的に奥の一角でじっと身を竦ませた。
「……麒麟」
 僅かに擦れた少女の声が耳に入り景麒はそっと身を起こし声のする方に視線を向けた。そこには景麒が心から安心できる気を放つ少女が佇んでいる。少女はゆっくりと景麒の傍に近付いてくれた。思わず景麒は自身の鼻先を少女の腕にあてた。その腕は血の匂いを漂わせているが、それでも構わないほど温かで安らげるもの。景麒はこれまで抱えてきたおどろおどろした感情がみるみる浄化していくようだった。
(ああ!主上!)
「……景麒?」
 少女がそう言うので見上げると、優しさの中に力強さを秘めた瞳と視線がぶつかる。
(確かにあの時の少女だ。だがかつてのように怯えて私をご覧になってはいない)
 景麒は少女の前で身体を伏せた。少女が景麒のたてがみを撫でると目を閉じ暫し余韻に浸る。景麒が異世界から連れ出そうとした時は景麒から逃れたいばかりだった少女が、手を伸ばし景麒を受け入れようとしてくれている。「探した」と呟いた少女の言葉に景麒は始め驚きそして感激に打ち震え、何度も何度も少女の身体に擦り寄った。
(もうお会いできないと思っていたあなた。それに落胆し自暴自棄になっていた先程までが嘘のようだ。ああ主上、よくぞお戻り下さった。……くっ。声をかけて差し上げたいのにそれが出来ぬ。呪を施された角が何とかできれば……)
 もどかしげに景麒は少女の腕に角を何度も擦り付ける。それですぐにはどうにかなるとは思っていないが、少女に気付いてさえ貰えば景麒自身がほっと安心できる気がした。すると少女は景麒の角の異常に気付き碧双珠を使い呪を解いてくれた。久しぶりに身体が軽く清清しくなっていくのが得も程言われぬ程心地よくてあり難く、思った事を呟くとそれは確かに言語となって少女の耳に届いた。
 少女が又も景麒の名前を呼ぶので、それに答え少女を労おうと景麒は口を開いた。
「いかにも。ご苦労をおかけしたようで申し訳ございません」
 言われた少女はきょとんと目を丸くしていたが、すぐに微笑で返してくれた。
 それから景麒は少女と幾つか言葉を交わしたが、少女の返答がつくづく初めて会った頃の印象と違っている事に驚きそして感慨に浸っていた。
(本当によくぞご無事で……。何よりよくご決断された)
 少女が笑う顔がとても眩しい。それは淀み荒んでいた景麒の心が洗われていく瞬間であった。
(きっと民にも光明が訪れるに違いない。この王なら……)
「天命をもって主上にお迎えする」
 敬愛を込めて景麒は少女の足に角をあてる。
「御前を離れず、詔命に背かず、忠誠を誓うと誓約申し上げる」
 暫くして待ち望んだ声を景麒は全身で受け止めた。
「――許す」



紆余曲折の果てに結局景陽という個人的萌え。
「月の影〜」冒頭部分の景麒の陽子に対する態度ってあまりにつっけんどんではないですか。それってどういう事かなぁ〜と考えたのがそもそもの発端だったんです。 そこから陽子さんに対してかなり不信任な景麒となりました。まぁ、それがやりたかったんですけど。
しかし「ちょっとやり過ぎでナクネ」と突っ込まれる前に…。あのうそれはですね。。。捕らわれの身が長くって、ささくれまくったブロークンハートという事で言い逃れしては駄目?

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2008.5.初稿
素材提供 MILKCAT さま
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