静魂 後編

 祥瓊はこの想いがふつふつと湧き上がると、打ち消そうと(かぶり)を振る。
(私が気になるのは、会って一言謝りたい。それが実際叶わぬから思いが膨らむ。……それだけよ。他の理由など、考えられない)
 自国を追い出され、恭を出奔し、行く年月。祥瓊の思慮の無さゆえ、恭の御物を持ち出すなどという馬鹿な事をしでかし、月渓の気持ちに泥を塗った事を、彼女は忘れていなかった。何とか丸くおさまった今でも、ついつい遠い故郷を必死に守ろうとしている月渓を祥瓊は気に掛けている。
 一度、祥瓊は月渓に書簡を渡し、自らの胸の内を語った事がある。これまで自分がどんなに愚かだったか。だが、恭州国を出奔後出会った者らのお陰で、自分がどんなに救われたか。そして芽生えた、月渓への詫びる気持ち。それを、書けば書くほど、祥瓊の思いは募っていった。
 いっそ、直接会って伝えられればどんなにいいだろう。しかし、それは、してはならぬ。
 自分は芳極国にとって、まだ危険因子なのではないだろうか?そう、祥瓊は思うからである。せっかく纏まりかけている国が―、朝が―。自分の登場によって乱れてしまうのではないか?それを考えると、祥瓊は怖くなる。
 元公主の国外追放。今更ながらに、自分が受けている罪の大きさを祥瓊は感じていた。そしてこの禁を、祥瓊が破る事は、国を掌握する月渓へ多大な迷惑をかけることになりかねない。
(民の信頼を得て、あの方はどうにか国を保たせている。その信頼を、私が(おとし)めるような事はしてはならない)
 そう思うからこそ、祥瓊は二度とかの地に足を踏み入れないでおこうと覚悟を決めた。
(多分あの方もそう考えているだろうと思っていた。なのに、如何して……)
 それまでくる事のなかった月渓からの突然の便りに、祥瓊の心はかき乱されていた。
 気付けば、すぐ近くの男の肌に縋っていた。男は気付いているのかいないのか、詮索する気は毛頭ないが、今宵は付き合ってくれる事が有難かった。
「桓堆……」
 祥瓊の口から知らず男の名前があがる。


 桓堆との出会いは、慶東国和州は明郭。
 そこで見た有様は、祥瓊には耐えがたい光景だった。広場の中央の土に敷かれた分厚い板。引き立てたれた数人の人間。今でも耳について離れない。悲鳴と被って、ごつっと釘を石で打ち付ける音。思わず振り返って見てしまった。板の上に片手を打ち付けられた男が、のたうちまわっている様。と同時に祥瓊は、とっさに危うく自分が過去に車裂きにされそうになった恐怖を思い出し、全身の震えが止まらなかった。
 後ずさりすると、踵に人の拳大ほどの石があたり、転びそうになった。
「石……」
 祥瓊はその石を見て過去を振り返る。
 沍姆――。彼女とは碌な記憶がなく思い出したくもないが、その沍姆が祥瓊に対して恨みの言葉をぶつけた事がある。

――私の息子は、子供が刑場に引き立てられるのを哀れんで、刑役(やくにん)に石を投げた――
 それから容易に想像できる大騒ぎを考えるより、先に手が出てしまった。きっと沍姆の息子はそういう思いだったのだろう。そして同じ事を祥瓊もしてしまった。当然あの時も、騒然としたが、その時助けてくれたのが、今の景王陽子とそして、桓堆だった。
 思えば桓堆は不思議な男だった。
 傭兵だと桓堆は己の事を紹介した。それにしては、彼は一般的な兵という者らの殺伐とした所がないように感じる。傭兵ならば、雇い主の命令以外の事に、勝手に手を差し出す事はしないのではないだろうか?それによって仕事がしづらくなるからだ。だが桓堆は、身も知らぬ、しかも考えなしに刑役(やくにん)に石を投げた自分を、危険を顧みず助けてくれた。助けてくれた礼でもないが、桓堆が仮の住まいにしている家を掃除した時も、一人では碌に身の回りの世話も出来ない男だという事に呆れると同時に(いぶか)しむ。二十歳になれば独立するこの世界にあって、一人で身の回りの世話も出来ない者は、余程の家に生まれて使用人がいる事、それが成人しても尚という事になる。
(誰か『いい人』でもいるのかも知れないけれど……)
 そんな事を考えたりもした事があったが、その後の彼の様子からそうでもない事は明白だった。
 それよりも祥瓊は、これも含めて桓堆の事を何くれとなく気にしている自分が可笑しかったものである。
 結局桓堆は、有能な国官であって、自国で行われている悪行を潰すべく、奔走していると言う事が分り、後に祥瓊は、桓堆のしようとしている事に手を貸すようになり、人の記憶に残る慶東国創始期の乱を供にやり遂げていった。そして、桓堆は禁軍左将軍、祥瓊は女史として、金波宮の現(あるじ)、陽子に仕えている。

――桓堆と祥瓊は、供に動乱を駆け抜けた同士のような存在――

 それが、何時からだろう。こんな風に肌を合わせるようになったのは。
 断わる事はいつでも出来たが、祥瓊は何故かそれをしてこなかった。
(桓堆を愛しているのだろうか?)
 そう思った事もある。
 しかし、ある夜、いつものように桓堆の腕の中でつかの間の眠りを得ようとしていた祥瓊は、桓堆が寝言で誰かを呼んでいる声を聞いてしまう。桓堆の声は(つや)やかで切なげな声色。心から慕っていると言いたげな。そして……。
 ……それは明らかに、祥瓊ではなかった。
 だが、祥瓊はそれに対して特に動揺していない自分に驚いた。確かに祥瓊の知っている者の名前だったので、どきっとする事はあったが、それだけである。そして彼女はこの時、今まで自分が桓堆と過ごす宵の時間を拒まなかった理由を悟った。
(ああ、そう。そうだったのか……)
 祥瓊は思わず桓堆の胸を撫でた。
(桓堆は言い知れない空虚感を埋めようとしているのだ。それを私に求めた。きっと私の内面を本能的に桓堆は感じたのだろう。そして、私も……)
 陽子の傍で自分が歩むべき道を見つけた。本当に自分を心配してくれる仲間にも出会った。感謝したい人はいる。心から好きだと言いたい人がいる。なのに……。
 祥瓊も又、どこか心が満たされないでいた。そして、差し伸べられた甘い誘いに簡単に引き込まれた。
 それから祥瓊は、桓堆に誘われるまま、ずるずると男女の仲を続けている。
(桓堆はどこか私に詫びたいと思っているみたい。しかし、言えずにいる。……馬鹿ね。私こそ、たちが悪いわ。桓堆の気持ちを感づいていて、知らない振りをしている)
 しかし祥瓊は、何故自分の心が満たされないのか図りかねていた。一体自分の心を支配しようとしているものは何なのか?桓堆との仲が深まるにつれ、祥瓊の疑問は膨らむばかりだった。


 それが今宵分ってしまった気がする。そして、認めたくない己がいた。侵食するこの気持ち。これは、まさか……。そんな……。
「駄目よ祥瓊。月渓殿だけは駄目。だって、あれは、あの人は……」
 祥瓊が呪文のように呟くと、暗闇から桓堆の声がした。
「祥瓊?」
 呼ばれているのに、返事が出来ない。
「いるんだろう?祥瓊……」
 早く答えなければ、様子がおかしいと感づかれてしまう。
「……そっちに、行っていいか?」
 声が――。
「……行くぞ」
 出ない――。
 とうとう傍には、見知った男の気配があった。


 祥瓊の肩に触れようと桓堆が手を伸ばすと、彼女は殊更驚き身を硬くした。
「祥瓊……。……どうかしたのか?」
 桓堆は彼女の握り締められた手に視線を移すと、昼間渡した書簡があった。
「……それを、読んだんだな」
 桓堆は静かに問い掛けるが、祥瓊は返事が出来ない。二人の間には冷ややかな空気が漂うだけである。
 桓堆は心配だった。月渓からの書簡を読んだ祥瓊は如何思うのか。少しずつではあるが、月渓に対して、気持ちに納得を付けようとはしているようであった。
(だが、目の前で起きた衝撃的事実――そう、彼が祥瓊の両親を殺したという事まで、なかった事には出来ない)
 その恐怖、恨みを思い出しはしないか、桓堆はそれが気がかりであった。
 そう簡単に心のわだかまりが溶けない事は、これまでの間に十分分っている。
 確かに月渓は祥瓊の両親を冥界に送った張本人。しかし、そうしなければならなかった、切迫した状況があったからである。
(心から完全に許せとは言えない。だが、理解をしてやってくれ。祥瓊、お前はそれが出来る女だ)
 祈りにも近い気持ちで、桓堆は祥瓊を見つめた。そして意を決して口を開く。
「……祥瓊。月渓殿は……」
 しかし祥瓊が口走った言葉で、桓堆に衝撃が走る。
「私は好きじゃない。月渓なんか好きじゃないわ!!」
 桓堆の眼光が開き、祥瓊を凝視した。
(『好き』って……。祥瓊。お前は、何を言っているんだ?)
 桓堆は祥瓊から出た言葉が、にわかに理解出来ない。よもや、彼女が月渓に対して、そのような感情を抱いているなど、夢にも思わなかったからである。
 桓堆は立ち尽くしたまま、恐る恐る確認する。
「お前まさか月渓殿が……」
「好きじゃないって、言ってるでしょうっっ!!」
 金切り声で叫ぶ祥瓊。
「そうよ、好きになれるわけが無い。あれは……あの方は……両親を殺した。あなたに分る?目の前で父と母の首が転がる気持ちが。どんなに恐ろしかったか。許せなくて憤りをどれだけ感じたか」
 頬を高揚させ、必死に捲し立てる祥瓊だったが、打って変わって今度はうわ言の様に話し出す。
「――ううん、それは、仕方が無いの。私も父も母も、それに見合うだけの苦痛を、芳極国の民に与えてきたのだから。私が月渓を気にするのは、あの方に、もう一度ちゃんと会って話しがたい。出来れば謝りたいと思っているからなのよ。……そうよ、それだけよ。……好きじゃない。好きになんかなってないわ!!」
 祥瓊は言えば言うほど、何処か拭えない想いにいらいらしているのか。押さえたくとも押さえきれぬ自分を止められない。
 桓堆はその様子をじっと見ていた。
 髪が軽く崩れ、袂が着崩れしつつある事も構わず、泣き叫ぶように訴え続ける祥瓊を。
 ただ、じっと見ていた。
「好きなんじゃない。私は好きになど、なってはいけない……」
 祥瓊は繰り返し繰り返し呟いているが、ついに両手で顔を覆って泣き出した。
「助けて、桓堆。私をあなたで埋め尽くして。あなたの愛が……欲しい」
 潤んだ瞳に桓堆は息をのむ。そして思わず口付けてしまっていた。


 場所等この際如何でも良かった。床板の冷ややかさも、気にとめなかった。そんな余裕等ない程、倒錯的に二人はその行為に没頭する。二人を包む、むせ返る熱気が、更にお互いの心を翻弄し、強く強く惹かれるが如く、肌と肌を密着させる。
 桓堆は祥瓊の陶器のような滑らかで白い肌に、思わず爪を立てた。祥瓊は一瞬目を丸くするが、桓堆の視線とぶつかると、彼の首に腕を回し、きつく引き寄せた。そして己の首筋の柔らかい部分を、桓堆の口元に差し出そうとする。
 一方桓堆は、思わず爪を立ててしまった己に、はっと抱く手を緩めようとしたが、祥瓊の潤んで見上げる視線が「そうして欲しい」と叫ぶのだろう。差し出した首筋に情熱の刻印を刻みつける。
 桓堆の心は至極かき乱された。
(今まで俺はお前の身体をかりて、増殖するあの人への思いを静めている事を、何処か後ろめたく思っていた。そして何も言わぬお前が不思議だった。漸く分りかけた気がする。お前も……そうだったんだな)
 桓堆は、侵食する感情に戸惑い、如何すればよいか分らぬまま、傍にあった人肌の暖かさに縋った。だが、自己嫌悪に陥りつつも止められなかったのは――。
(祥瓊。相手がお前だったからかも知れない……)
 祥瓊の胸の中にいる時、桓堆はひと時でも安らかに眠れている己がいる事を知っていた。その心地よさは一体なんだったのか理解しがたかったが、今宵、少し分かった気がする。
(お前と俺は似たもの同士だった。それをお互い本能的に感じている)
 離れられない――二人は同じ事を思っていた。
 この関係は清算できない。
 桓堆には祥瓊が、祥瓊には桓堆がいる事で、二人は自身の気持ちを何とか持ちこたえられているのだ。


 今、桓堆は、祥瓊が一瞬でも溢れる感情が静まるよう、それだけに意識を集中した。祥瓊が満たされるその場所に、手を触れ刺激してやると、彼女は背を仰け反り身体を振るわせた。無意識に祥瓊は、腕を思い切り伸ばし、桓堆の顔をとらえる。息も絶え絶えの彼女は、それでも尚、桓堆の唇を奪い舌を絡ませた。
(せめて今は、溢れ出そうな想いを、一瞬でもなかった事にしてしまいたい……)
 終れば又、後悔するのだろうか?結局逃げてしまっている、己の心の弱さに。その虚しさが分っていても止められない。先の事など考えられない。魂が叫んでいた。
(祥瓊。俺はお前が必要だ。そして、お前も俺が必要なんだ)


 明り取りの炎がぐらりと揺れた。壁には二人が抱き合う姿がぼんやりと暗く映っている。どさりと桓堆の身体が、祥瓊にのしかかった。二人は上昇する鼓動を、乱れた呼吸と供に落ち着けようとする。暫くして桓堆が小さく呟いた。
「……膝がいてぇ……」
 当然である。今二人には暖かく柔らかい衾褥(ふとん)が無い。
 祥瓊は何故か笑ってしまった。気だるげな表情で桓堆は祥瓊を見やる。
「何が、可笑しいんだよ」
「だって、あなた、勝手に始めておいて、膝が痛いって。……ふっ、ふふふ……」
 声を押し殺して忍び笑い、桓堆の背中を軽く叩く祥瓊に、桓堆も知らず笑いが込み上げた。
「……全くだ。色っぽくも何とも無いな。もっと気が利いた事を言えば良かったか?」
「あなたにそれは期待してないわよ」
「ひどいな、それは」
「お互い様じゃない」
 それから二人は笑った。何も考えずただ笑っていた。
 ひとしきり笑った後、祥瓊は桓堆の髪に手をかけながら口を開く。
「ごめんね桓堆。私……」
 しかし、桓堆は祥瓊の唇に自身の人差し指を立て、言葉を制した。
「もう、何も言うな」
 指を押し退け祥瓊が反論しようとする。
「でも、私……」
「このままでいたいと願ってはいけないのだろうか?」
 桓堆は起き上がり、祥瓊に剥がした衣服を羽織らせた。
「今宵お互いに悟ってしまった。目の前の相手無しでは平気で立っていられない事を」
 祥瓊は黙っていた。桓堆は尚も続ける。
「満たされぬ想いを少しでも軽くしたい。そう考える事はやはり罪なのだろうか?」
 二人の間に重苦しい空気が流れる。
「……悪い。俺、自分に都合のいい事ばかり言っているな」
 祥瓊が(かぶり)を振る。
 気がつくと、空は白々と明るくなっていた。
 桓堆と祥瓊はどちらともなく衣装を調え始めた。そして、桓堆は独房(へや)をさろうとする。入り口付近で桓堆は祥瓊に呼び止められた。振り向くと、祥瓊がいつもの凛とした佇まいで立っている。
「さっきの答えはまだ私には分らない。でも私、あなたとの事、後悔はしていない」
 それが今、祥瓊が言える精一杯だった。桓堆は何も言わず、ゆっくりとその場を後にする。
 桓堆を見送った祥瓊は、書簡を拾うと丁寧にたたんだ。そして窓辺に立ち、かの地のある方角をじっと見据える。
(心の整理が完全に落ち着くまで、お返事しない事をお許し下さいませ。ただ今は、祖国の民を、自然を、必死に守ろうとする者らの――。
 ……あなたの――。
 ご無事を心からお祈りしております)

…という訳で、凛的「だから祥→月もアリエナクモナイと思うのだけど、それが何か?」(おぎや○ぎ風?)は、私としてはものすっごく消化不良かと反省を残しつつ、これにて本編は一旦お開き。
「何だそりゃ」な締め方になってしまったような。もうちょっとやり様があったような。
結局、祥→月になっていたかどうかも…。ああ、もうちょっと私に文才があればなぁ。ブツブツ…

さて、「もう会えない相手」更には「好きになってはいけない相手」祥瓊は月渓を、そう位置付けていると思うのです。でも、この二つの禁止事項があるからこそ、止め処もなく別の感情が湧きあがってしまったら…なーんて、考えてしまって書き出したのが、この話。
「〜してはいけない」事に対する妖しい魅力ってあると思うんです。「あの人だけは絶対駄目」って拘るからこそ、妙な感情が膨れ上がる。でも、それを拒否したい自分は当然いて、それでぐるぐる考える、みたいな。
しかし、結局こんな風に、だらだらいい訳を書かねばならない自分の不甲斐なさ。トホホ;;;

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2005.11 前半初稿
2005.12 後半初稿
2006.3 改稿 
素材提供 MILKCAT さま

禁無断転写