静魂 前編

 桓堆と祥瓊。
 彼らは始めの頃はともに動乱を駆け抜けた同士のようなものだった。が、次第にどちらとも無く、相手の唇に触れ、人肌の温かさに、つかの間の休息を求めるようになる。
 桓堆は思う。祥瓊を好きかと問われれば「そうだ」と答えるだろう。だが、「愛しているか」と問われれば……。

――分からない――

 どう答えてよいか、桓堆自身躊躇するのだった。
(俺にはぬぐえ切れない感情が巣食っている。それが俺の心を惑わせる)
 祥瓊にはすまないと思っている。だが一度覚えてしまった逃げ道を捨ててしまえる程、強靭な心を桓堆は持てていないと感じていた。桓堆は、ならばせめて己の本心を祥瓊には気付かれぬよう、隠し通すつもりだった。しかしこの頃は、祥瓊が全てを知っているのではないかと考える。そして桓堆は疑問に思う。
(俺は結局お前を利用している。そんな俺に、お前は如何して付き合っているんだ?)
 そうまでして自分の事を等という、拉致も無いご都合主義は、とうの昔に捨てた。
(あれは気高い女。俺を愛しているならば、同じ位愛されたいと願うだろう。ならば、何故……)


 そんな考えを巡らしていた頃、書簡が届いた。それは、芳極国仮の王、月渓からの親書である。
 芳極国には王がいない。故に呆れるほど急速に国は傾いているのだが、月渓ら率いる仮朝が必死に食い止めているのだろう。危なげながらも、国は如何にか保たれていた。
 実は桓堆と月渓は、以前から時より書簡を送りあうと言う事をしている。本来、仮とはいえ、一国を統治する者と一官吏では、書簡のやり取り等ありえない。だが、以前桓堆は、陽子からの親書を渡す使命を受け、月渓とは面識があった。桓堆と初めて顔を合わす際、月渓は己の迷いにより、国を掌握する事を降りるという判断を下す所だったが、桓堆の後押しもあってか現在に至るという経緯があった。
 とある朝議の後、桓堆は陽子に呼び止められ、こんな話を持ちかけられた。
「覚悟していたとはいえ、月渓殿も気持ちが張り詰めてばかりではお辛いだろう。桓堆。月渓殿が煮詰まらぬよう、働きかけることは出来ないのだろうか?」
 それを陽子の傍らで控えて聞いていた景麒が即意見する。
「しかし、我らが余分な気を回す事は、天の理に置いて微妙な位置に発展するのではございませんか?」
 怪訝そうに眉をひそめた陽子の表情に、景麒は少し黙ってこう付け加える。
「確かに月渓殿を思いますと、気が引けるのではございますが……」
 冷めた事を言っても、所詮麒麟は仁の生き物。景麒は月渓を思い、憂いた表情を見せる。
「そうだな、お前の言う通りだよ。私が動いたとなれば拙いだろうな。だから、考えているんだ」
 陽子はちらりと、景麒を見やる。景麒は「失礼致しました」と小さく詫びた。
 すると
「桓堆、お前から何気なく書簡を送ってみては如何だ」
 一歩引いた所で、広げた資料の確認をしていた浩瀚が、その手を止め声を掛けた。
「俺が?……あ、いや、私がでしょうか?」
 桓堆は浩瀚のいる方へ視線を移すと、浩瀚は徐に桓堆に近付き続きを話す。
「最初は……そうだなぁ、鷹隼宮で、篤くもてなして頂いた事の礼でよいだろう。以降、何かにつけ、書簡を送るようにすれば、あちらもそう無碍には出来まい。……そういう体裁を整えさえすれば、あちらも気兼ねなく、外の様子を聞く事が出来ると思わぬか?」
 言い終わると浩瀚は、陽子に向き直り
「差し出がましい事を申し上げました」
と小さく礼を取るよう頭を下げた。
「いいじゃないか、それ。要は、世間話をしろという事なのだろう?内政干渉にはあたらないのではないか?更には私が送るのではない。親書はあくまで一官吏が、気まぐれに書簡を送りつけている。これなら、あちらも何も言わないかもな」
 そう言って陽子は五山の方を指差し、片目を瞑った。
「一応、碧霞玄君にはお伺いを立てておきましょう」
 浩瀚は淡々とした口調でそう付け加えると、様子を見ていた景麒は派手な溜息を一つ零すが、それ以上はもう何も言わない。
 置いていかれたような気分に陥った桓堆は、陽子と浩瀚のあうんの呼吸を打ち破るように、口を開いた。
「えーと、私は要するに、月渓殿に書簡を送ればいいのですね。しかし、緊張するなぁ」
「硬くなる事はない。『何か困った事はあるか』という事も、あえて書かずとも良い。季節の話、こちらの様子など、何気ない事を書き付ければよいのだ」

――祥瓊の事もお前なら詳しく書けるだろう――

 けして公けに言葉にしないが、浩瀚の視線は含みを持たせた色になる。桓堆はその視線に心が浮つくが、表立っては何事もない様子をした。
 さて、いざ書簡を書くとなっても、何を如何書いて良いか、桓堆は分からないでいた。とりあえず、言われるままに、以前鷹隼宮に滞在した時のお礼方々、慶東国の様子について語ってみる。
 しかし、慣れというのは恐ろしいものである。二三度書簡を交わすうち、桓堆の心にも、月渓と書簡を交わす事の楽しさが芽生えてきた。月渓は芳極国を、けして希望を捨てず支えている事が、桓堆にとって何かしら励みになった。
(俺もあの方が好きだと仰る、慶東国の為に……)
 そう思ながら桓堆は苦笑いをした。払拭しようと試みても、僅かばかりの希望……いや、祈りにも近いだろうか。そんな想いが彼を包み込むのだった。


 月渓から新しい書簡が届いた。
 全ての職務を終えた桓堆は、自室に戻り、汗を流して落ち着くと、丁寧にその書簡を開いた。


 青将軍殿。以前私の事を気遣う内容を読ませて頂いたが、貴殿が心配されるほど、心が滅入ってもいないのです。
 なにより我が民は心構えが違う。
 確かに妖魔も蔓延っているのだが、官と民が一丸となって、その襲撃を最少限に食い止めようと尽くしている。
 申し上げにくいのだが、前王が玉座を暖めていた頃は、その潔癖すぎる性格故に、些細な罪を許さなかった。
 そんな状況の中で、次第に民は、生きる事自体を諦めるような風潮にさえ陥った。
 民は今より悪しき過去を知っている。
 それが、彼らの、私の強みなのです。


 桓堆はその文面をなんとも言えない気持ちで読んでいた。
 芳極国の民は強い。
 状況が格段に変わる訳でもない自国を、投げ出さず、月渓を信じて生活するのだという。民にとって月渓こそが縋る道しるべなのだ。その重責を、いってに引き受ける事になった月渓の心労はいかばかりなのか。読み進めると、書簡にはこう記されていた。


 これが、あの方に対する、私の贖罪でございます。


 桓堆は書簡を読み終わると、大きく息を吐き、だらりと椅子の背もたれに己を預けた。そうして一緒に添えられていた別の書簡を手にとり、天井を見上げた。
「とうとうこれがくるとは……な」
 この書簡の中身は大抵想像がつく。桓堆に対する書簡の最後にはこう記されていた。
 祥瓊殿はお元気か――、と。


 桓堆は祥瓊宛の書簡を懐に預かり、次の日の政務時、祥瓊がいつも渡る回廊で待っていた。
 桓堆はどうしても祥瓊と話がしたい、祥瓊の肌が恋しいと、己の心がいっぱいになると、ここで彼女を待つ。祥瓊も始めの頃は驚いていたが、人気の少ないこの回廊は、何時しか、二人の密会の場所となっていた。といっても、そこで二人は二言三言話をし、夜の約束を取り付けるだけに留めるのだが。
 回廊で祥瓊を待っている間、桓堆は思い巡らす。祥瓊がこの書簡を見たら、如何思うのだろう。そして桓堆と月渓が時より書簡を送り合う仲だったと知って、何か感じるのだろうか。


 以前祥瓊は語った事がある。
 突き詰めれば月渓には感謝していると。祥瓊に対して心砕いてくれ、影より力になってくれた。昔はその心が全くわからず、ただ憎いと、怨んでも怨み足りないと思っていたが、今は変化が起こっていると。
 桓堆はその頃既に、月渓と書簡のやり取りを交わしていて、彼のひととなりを知っていた。故に月渓と祥瓊の心のわだかまりが解ければよいと思うようになっていった。だから祥瓊に思わず
「では、今は全てを許せるのか?」
と問うた。
 しかし祥瓊は少し考えてからこう告げる。
「……ごめんなさい。やはりどこかですっきり出来ないでいる。確かに私の両親は自国の民に多大な迷惑をかけた。私自身その状況を知ろうともせず、遊んでばかりいた。分かっているの。そうしなければ芳は崩れていたと。でも……でも……。あの方は、やはり、私の目の前で両親を殺した人なのよ」
 苦しげに語る祥瓊に、桓堆は己の思慮の浅はかさを後悔した。
 そう簡単に解決できる問題ではなかったのだ。
 現実として祥瓊は、息絶えた父の首が己の足元に転がり、恨めしく宙を睨んでいる様を見た。あまりの衝撃に目を伏せる事さえ忘れた彼女の目の前で、母が叫びの表情を凍らせ、虚しくも口を開き、声なき悲鳴をあげたまま、父の首に寄り添った所を見ているのだ。その恐怖は一生祥瓊の心に燻り続ける。
 それからというもの、桓堆は祥瓊の前で月渓の話をする事を憚るようになる。


「この書簡は渡さなければならない。だが俺は、その時お前に如何声を掛けたらいい?」
 桓堆は書簡の入った懐に手をかけ、誰ともなく一人呟く。
「あらごきげんよう、桓堆」
 見知った声を聞き、桓堆は声のする方に目をやった。そこには、いつものように凛とした美しい佇まいの祥瓊が、やんわりと笑っている。
「よう。……今、少しだけ……いいか?」
 桓堆はもたれかかっていた壁から離れ、姿勢を整えた。そして、懐から祥瓊宛の書簡を渡す。
「……月渓殿からだ」
 忘れたくとも忘れえぬ相手からの書簡に、祥瓊の表情が一瞬固まる。桓堆は暫く無言だったが、「大丈夫か」とだけ声を掛けた。祥瓊は弾かれた様に意識を取り戻すと「…ううん、なんでもない」と小さく呟く。祥瓊は桓堆から渡された書簡を何事もない様子で受け取る。
「……そう、あの方から、これがきたの……」
 桓堆は祥瓊がいつもと変わらないと判断すると、ほっと胸をなで降ろした。
「――実はな、祥瓊。少し前から俺と月渓殿は、たまに書簡のやり取りをしていたんだ」
「知っていたわ」
 桓堆の声に被せる様に、素早く言葉を返す祥瓊。
「多分、あなたも他の人達も、私を気遣って、その事は伝えない様にしていたのでしょうけど。雰囲気で、ね」
 渡された書簡に目を落としつつ、淡々と語る祥瓊に、桓堆は「そうか」と小さく声を発した。
「――じゃぁ、俺はこれで……」
 他に何と声を掛けていいものか。
 桓堆は気の利いた事が言えぬ己に舌打ちをしつつ、その場を去ろうとした。
(今は一人の方がいいのかもしれない)
 ところが、筋の通った祥瓊の声が桓堆の脚を止めた。
「桓堆」
 少しの間、そこだけ空気が止まる。その状態を打ち破ったのは祥瓊だった。

「夜、お時間は空いているかしら?」

 思えば祥瓊から誘われる事はこれまで一度もなかった。いつもは桓堆が一方的に祥瓊を訪ね、供に宵の時間を過ごす。祥瓊は、大抵断わらなかったが、こうして自ら桓堆に会って欲しいと頼んだのは初めての事である。
 桓堆は祥瓊に背を向けたまま、「ああ」とだけ答えた。祥瓊は桓堆の背中を見つめ
「有難う。では、夜、私の独房(へや)で」
 そういい残し、彼を追い越し、回廊を静々と歩いて行った。


 その夜祥瓊は、まだ数刻前の余韻が冷めない、自身の気だるげな身体を、のろのろ起こすと、傍にいる桓堆の腕から慎重にすり抜け、臥牀から離れようとした。その際一瞬桓堆の腕が、無意識なのだろう、離すまいと力が込められるが、彼自身起きる気配はなく、そのまま祥瓊は解放された。
「――ごめんね。少しの間だけ、一人になりたいの」
 寝息だけが聞こえる桓堆の背中に、小さく声を掛け、祥瓊は被衫(ねまき)を軽く纏った。
そして、脱ぎ捨てられた衣装の中から、書簡を引き抜くと、少し離れた窓辺へ向かう。宵の刻、月明かり独特の青白い光の中、祥瓊は傍にあった明り取りに火を点す。ほの明るい光が祥瓊の周りを囲むと、彼女は深呼吸を一つ落とし恐々書簡を開いた。


 祥瓊殿、突然の無礼をお詫び致します。
 鬱蒼とした灰色の季節も終え、芳極国も花々が芽吹く季節になりました。
 実は鷹隼宮で、ここ数年咲く事がなかった、藤が漸く開花致しましたのでご報告申し上げます。
 祥瓊殿は、覚えておいでか?
 鷹隼宮で、たわわに咲きほころんだ藤の花。
 その光景はまさに押し寄せる雲海の浪。
 藤の浪ではないかと、私は思ったものでございます。
 昔、その藤浪の前で、はにかみつつも、あなたが舞をご披露して下さった事がございました。
 大変お美しかったと、今でも心に残っております。
 ここ数年、私の不徳の致すところにより、天のお怒りに触れ、藤になかなか花がつきませんでした。
 しかし、当時の豪華さはなくとも、僅かながら花開いたその薄紫に、懐かしさが込み上げて参ります。
 祥瓊殿、芳極国は、まだまだではございますが、今以上に状況が悪くなっている訳ではないらしい。
 だからこうして又、藤の花が見れたのでしょう。
 そう、己に言い聞かせております。
 取りとめもない話で失礼致しました。
 それでは祥瓊殿、お身体をご自愛下さいませ。


 努めて淡々と綴られた文面に、祥瓊は涙が溢れた。
 そして、彼女の心に警鐘がなる。

――駄目よ祥瓊。あの人は、駄目。だって、あれは、あの人は……――   

 競り上がる想いに、祥瓊は書簡を胸に抱き、涙に濡れた瞳を伏せた。

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2005.10 前半初稿
2005.11 後半初稿
2006.3 改稿
素材提供 MILKCAT さま

禁無断転写