黎 凍れる果実様 作
よせてかえす、この時のなかで、
誰もいない
ところどころが赤黒いねとりとした液体が混ざったままこびりついて、回廊の床。
柱の装飾は砕かれ、ところどころに鏃、
どうして、歩む、この一歩に迷いがないのだろう?
わずかにわきあがってくるものはなんだろう。
満ちていくのはなんだろう。
そっと、風にのって、
ずっと、風にのって、
きっと、あなたを・・・
包み込む、
そのときを
ずっと・・・
あなたを・・・
かたんと、音がなった。
わざと鳴らした音なのに、鳴らした自分がその反響にびっくりした。
あのとき、あの朝、寝入っているものとは思いはしなかった、寝入ったふりをしているのはわかっていた。
いつか、二人、見よう・・・そう、約したのは昔。取り返さないあの日知っていて、起こさないように、起きて欲しかった気持ちを隠したまま、音をたてな
いようにそっと、そっと、出て行った、あの日、あの朝。
もう・・・
かたんと、音を鳴らした。
振り向いたその顔、
驚いた顔がいとおしかった。
漆黒の髪も、闇色の瞳も、であったあのときと変わらない。
そのことに満足して、ゆっくりと腰を折った。
「お待たせいたしましたか?」
言うと、さらに驚いたかのように漆黒の瞳がゆれて、すこし怒ったようだった。
「それとも、ちょうどよい頃合でしょうか?」
にこりと笑うと、さらにおこった顔。
それが、いとおしいと、いったい何時から思い始めたのか?
「尚隆さま」
床に膝をついたまま、両の手のひらを広げて差し出した。
「尚隆さま」
両の腕をさし伸ばして、
「お待たせいたしました」
言うと、はじかれたように主がその手から逃れるように一歩を引いて、
「なぜ、ここにいる!」
瞳をそらしていった。
それにころころと笑いながら、
なぜといわれましても・・と、答える。
「主上が、好きにするがよいと仰せでしたから・・・」
好きにさせていただいております。と、ゆるりと言うと風がわずかにまどろんだ。
「蟄居をせよと言ったはずだが」
ことさらに酷薄に地を這って搾り出したような声。
「それは、大司寇に仰せの命でこざいましたね?」
くすりくすりっと、朱衡は言う。
「朱衡?」
「・・・今、この国に秋官の長たるものは、さて、おりませんでしょう?」
「・・・おま・え」
とうに、官位はお返ししておりましたっと、朱衡は房間の隅にて山となって埃をかぶ り始めた幾多の書状を指差す。
「どうぞ、お確かめください。たしか・・・主上がそう仰せでした前日には御璽をいただ いておりますので」
覚えがないようなふうのかの王に、くすりっと微笑んで
「いくら、もうどうでもよろしかろうとも、出されるものすべてを適当になさるのはいただ けませんね」
かといって、そのあとすぐにこのありさまではっと、朱衡は山と積まれて卓に置きき れず床にまで雪崩をうつ見捨てられた幾多の書状、奏上をちらりっと見た。
けれど、すでにそれにはうっすらと埃が飾る。
ほうっと、もう一度ついた息が、なぜが軽やかだったことに、満足した。
ですから・・・
「主上が蟄居を命じられましたのは大司寇、楊朱衡ではございませんでしたから」
ですから、好きにさせていただいておりますっといって、
見ると、きろりっとこの国の王の目が光る、では、っと、
何ようあってこの玄英宮にまかりこしたのか?
無位のものが何の許しもなく、ここまできたのか?
そう、問う。
その問い。それは、わずかな拒絶、
とく、ゆくがよい。
その言葉を隠して、
王は言う。
くすりっと、朱衡が笑いつつ立ち上がって、
「案内をどなたかにお願いしようとはおもったのですが、あいにく、門にも官府にも、 どこにもどなたさまもおいでにならず、失礼をいたしました」
立ち上がったはずみに、薄い闇に時が流れた。
「尚隆さま」
闇が薄れてゆくこのときに、
「二つ、無心がございますが、よろしいでしょうか?」
ゆるやかに、とりもどせぬ闇と光、
暁のその一歩手前、
「朱衡?」
「ひとつ目は、無位の私がまかりこしましたその非礼、責めとしての願い」
「朱衡?」
「二つ目は、尚隆さま・・・」
「朱衡?」
「尚隆さま、約定をいただきに・・」
「約定?」
天空を覆うその境に
濃き闇に、その最後、
闇にひそむ、この房間にこの人に、
「尚隆さま」
その前に
その後に
「まずは、一つ目の願いを・・・」
最初の光陰
最後の光彩
「拙の、仙籍を抜いてくださいますか?」
「みな、行ってしまいましたね」
誰もいない、すでに居ない。
先に旅立ったもの。すでに見放したもの。
とうに追い出されたもの、遠ざけられたも の。
奪われた命、流された血潮、あふれた緑は土に返り、豊穣を約した大地はもう昔、いまはひび割れて、ただ、乾いた風が、吹きすさぶ。
この手に、残ったいくつものぬくもり、
守りたかったもの、
誰もがおなじ、
そう、
吹き渡る風になって、
とけて、きえて、
いつか、満ちる。
あの日の風に、
あの日のぬくもりに、
いつか、消える
「尚隆さま」
一歩を踏み出すと、まるで恐れるように一歩を引く。
「尚隆さま」
もう、一歩を、
ほほえむと、まるで恐れるように顔をそむける。
いとおしいと思うようになったのはいつだろう?
いとおしいと伝えたことがあっただろうか?
すいっと視線をはずすと、脇によけられた卓にもう長い間使われていない硯、探す と水はなく、かわりに酒盃にわずかに酒が残っていた。それをほこりをはらった硯に
おとしこみ、すいっと、墨の塊をそわした。
かしっと、乾燥しすぎていた黒い塊に水気が含まれる音が房間に響き、つづいて、 朱衡がその手を動かすたびにかしっと音が鳴り、酒が漆黒に染まり始めた。
うずたかく詰まれた書状、書簡から、適当なひとつをみつけだし、すいっと、筆をす べらし、そのまま、くるりっと振り返った。
「御璽はどちらにございますか?」
答えはない。
適当にあたりをつけて山となった小卓のうえをかき混ぜると、金色の塊が転げ出てきた。
ほうっと、ひとつ、あきれたようにため息をつき。
まったく・・・と、
「このようなところに・・・放り投げておられますと、次のお方がきっと、お困りになりま しょう」
言うと、また怒ったように、
「どうせ、お前が探してやればいいのだろう? さほど困ることはなかろうさ」
めんどくさそうなふりをして、主は言う。
それに、否定もせず、そうですね、と、答えると、わずかに見開かれた瞳、やっと、その黒い瞳が朱衡の姿を映した。
「なにを、驚いておいでですか? 尚隆さま・・・お望みでございましたでしょう?」
薄暗闇にわずかに薄暮
「それを、お望みで拙を遠ざけたのではないのですか?」
迎える最後の闇、
最初の光、
「なのに、いまさら、なぜ? そのような不満げなお顔をなさいますのか?黙っていれば拙があなた様に殉じるとお思いでしたのか?」
迎える光、
その前に、
「これ以上を何をお望みか? すでにもう、思いのままになされたのではないのですか?なのに、なぜ?」
その前に
「なぜ? 私をごらんになられない」
すっと、一歩を踏み出すと、そらされる瞳、
「尚隆さま」
ずいっと、目の前に金色の塊、それと、わずかに酒の香りがただようう紙片に走らせたその名、
「さあ、否とはおおせになられますな」
あとずさる主の手を無理やりつかみ、それに御璽を握らせる。
「朱衡」
「はい」
にこりっと笑ってみせた。
「拙の無心をお聞き入れくださいますね」
主のあいているもうひとつの手に、紙片を渡そうとしたとたん、がんっと、音立てて尚隆が御璽を放り投げた。
あきれたように朱衡は細い眉をつりあげて彼を見て、
「主上・・・」
ほうっと、ため息をひとつ。
「ですから、また探さねばならぬ無駄な用を作らないでくださいませ」
薄く闇、金の塊はどこへ?
すいっと、音たてて転がっていった方向へ向こうとしたそのとたん、
手を、
つかまれた。
「主上?」
いぶかしげに見る彼の視線をさけるかのように顔をそらし、
「探す必要は、ない」
「尚隆さま」
「どうしてもというのならば、白雉の足でことたりるだろうよ」
「尚隆さま」
あきれたようにその名をよんで、
「それでは意味がございません」
言うと、つかまれた手首が折れそうなほど握られた。
「尚隆さま」
聞く、
「何を、お望みですか?」
これ以上なにを?
「拙に生きながらえよと仰せでしょうか?このまま、次の代を支えよと。まさかそのよう なことを本心でおもってはおられないでしょう? 」
答えはない、
「御璽を探してまいります」
どうか、おはなしくださいませ。
おはなしくださいませんでしたら、
どうか、
では、
「では、先にお待ち申し上げましょうか?」
きっと、逆鱗に触れるとわかっていて、言うと、
握られたその手を離され、
突き飛ばされた。
どさりっと、自分自身が床に転がり、
ばさりっと、うずたかくつまれた書簡が崩れ、
口の中が生臭く、ぬれた気がしてぬぐうと手の甲に鮮血がこびりついたのをみて、 唇が切れたことに気がついた。
不意に血を厭うあの少年の顔が思い浮かび、ふと胸のあたりをみるとついさっきま で握られていた手の形に衣に皴が残っていた。
くすりっと笑ったらしかった。自分で気がつかなかったが、主の気配が剣呑をとおり こして殺気に近い気色になったのでそれと気がついた。
それでも、笑いやむことができなかった。くつくつと、声を立てていた。投げ飛ばされ たままのその体勢で、なにがおかしいのかわからなかったが、笑いがとまらない。
ぐいっと、髪をひっぱられた。
むずっとつかみあげられ、もういちど、こんどは戸口のほうへと放り投げられた。
なにかが、壊れる音がした。
ちがう・・
なにかが、あふれる音がした。
それは、身のうちから響き、
それは、身の底から溢れ、
おさえられない言の葉となる、その一瞬手前に、
なぜか、立ち上がっていた。
世界を染める最後の闇に
なぜか、いとおしいと、そう、おもった。
ぐいっと、もう一度唇をぬぐうと口腔内も切ったらしく、唇のはしからどろりと、鮮血 がしたたりおちた。
息を呑む音がした。
みると、まるで、自らが傷ついたかのように黒い瞳の奥の光がゆらぎ、それを押し 隠すようにぎりっと歯を食いしばっている音が聞こえた。
ふっと、わらうと、
まるでおびえたように、一歩を引かれた。
いとおしいと伝えたことがあっただろうか?
突き飛ばされた弾みで手の中にひろった金色の塊がずしりっと重い。
「尚隆さま」
さあっと、それを差し出して、
「みな、行ってしまいましたね」
楽しそうに自分の声が宮に響いた。
ですから、
「尚隆さま」
ぴしゃんっと、滴り落ちた血の一滴が朱衡の手の中の御璽を朱に染めた。
「否とはおおせになられますな」
世界を染め上げる最初の光陰、その一瞬よりも先に、
どうか・・・
「拙の、仙籍を抜いてくださいませ」
2004.5.31 凍結果実様にて掲載
2005.9酔訛楼にて再掲載
素材提供 篝火幻燈さま
禁無断転写