凍れる果実様 作

 朱衡の口から満足げな吐息がもれて、主が嫌そうな顔を隠しもせずににらみつけた。

 赤々と印影がくっきりとしたその紙片をひらひらと風になびかせ、朱衡はつくづくとながめいった。
「満足か?」
 不意に背後で声がした。
 否という答えを、取り消しの言葉を朱衡からもとめるようなその声音に従う気はさらさらなく、
「ええ」
 っと、答えると、軽く、舌打ちの音が聞こえた。
「お前の考えていることはわからん」
 ふりむきもせず、いまさらでしょうっと、言うと、こんどはこつんっと軽く頭を殴られた。
 ふりかえると、唇に指を当てられた。
「痛むか?」
 言われて、唇と、口腔内を切っていることを思い出し、同時に熱いような痛みが沸き あがってきた。
 直りきらぬうちに人にもどり、痛まないはずはない。
 いまだ血がとまらぬらしく、主の親指を紅に染めた。
「さっぱりわからん」
 つぶやくように言うその指がそっと朱衡の頬をなぞった。
 そうですか?っといおうと思ったが、主の掌がやわりっと朱衡の唇をふさいだ。
 問うように瞳を見開くと、唇を封じたまま、主のもう片方の手が髪をなぜた。
 引き寄せられるはずがないことをわかっていたが、なんとなく目をつぶってみた。
 すると、引き寄せられて、主の鼓動が耳に響いてきた。
「痛むか?」
 はいっと、答えると、苦笑じみたあきれたような声で、
「おまえな・・・嘘でも、痛くないと言わんのか?」
 くすりっと、わらって、
「もう、ただ人にもどりましたから、」
 痛いものは痛いんですと、言うと、ふたたび、頭をたたかれた。
 痛いっというと、軽くまるで落としてしまったかのような声で馬鹿だなっと主が言うのが聞こえた。
 額を押し付けると、もう一度、馬鹿だなと声がした。
 くすくすと笑うと、いいのかっと問う声がしたので、
「みな、先に行ってしまいましたから」
 後から行くものも必要でしょうと、答えると、
 もう一度、あきれたような、馬鹿にしたような、ため息が降ってきて朱衡の髪をゆらし た。
「難儀だな」
 こんどは心底あきれたように主がいうので、
「ええ、難儀でございます。この有様ですから」
 ひょいっと視線を房間に移すと、ついさっき自分が投げ飛ばされたためにさらに惨状 となった王の執務室が瞳に映った。
「この、埃をとりはらい、必要なものはそのように。急ぐものはそれなりに、ある程度のことをしておきませんと落ち着きません」
 ふと、思い出して、
「尚隆さま、御璽はどうなさいました」
 見上げると間近に主の顔、
 しまったと顔中で言っていた。
「ついさきほど、お使いになられたものですのに、またどこやらになくされましたか?」
 視線を泳がせるその様子に、
 まったく、っと、
「仕方のない方でございますね」
 言うと、
「お前が探してやればよかろう」
 答えるので、
「まったく、面倒なことは全て、私に押し付けていかれるのですか?」
 さらに続けて小言を言おうとしたのに、主の手が朱衡のちいさな頭を自分の胸に押し付けてしまったので、声がでなかった。
「朱衡」
 はいっと答えたつもりだったが、声がでなかった。
「面倒だったら、先に行っているか?」
 朱衡のやわらかい髪に埋められた主の指先に力がこもり、頭皮に爪をたてられた。
 息を吸えぬ苦しさに、息を吐くと闇がすこし薄れたようだった。
「朱衡」
 答えがわかっていて聞く主のそれがなぜか、いとおしいと思った。
「朱衡」
 聞いていながら、答える声が出ないほど、強く締めつけている指の力が、いとおしかった。
 声がでぬかわりに、額を主の胸に押し付けて、そして、数回左右に振った。
 どこか、なつかしい匂いがして、これほどに近くにいるのはもう、いったい何時の昔で あったか思い出せぬほどだったと、気がついた。
 そしてきっと主も同じことを思ったらしいことはその指のちからが瞬間ゆるんだことで あきらかだった。
 くいっと、朱衡は顔をあげて、
 声を出す。
 唇をひらくと、いまだふさがらぬ傷がずきんと痛んだ
「尚隆さま」
 それでも、
 にこりと笑んで、
「先に行っているものはもう十分すぎるほどおりましょう」
 薄い闇に、
「それよりも、拙の無心のもうひとつ」
 かなえてはくださいませぬか?

 
                       寄せてかえる
                       この闇に空に、
                       最初の光陰
                       最後の光彩、
                       きっと、わすれる
                       この天に染まるこの色も、
                       差し込む光のなびきでさえ、
                       きっと、わすれる、
                       ふきわたる風にのって、
                       過ぎていった、
                       失っていった、
                       あの思い、
                       いつか、この手のひらに・・・
                       のこったぬくもり、
                       もう、わすれてしまった、

                       とけてしまった、


               貴方が、貴女が
                あなたに・・・・
               とけてしまいたい


            吹き渡る、風に、波に、光に、

                   よせてかえす、このときのなかで、




いつか・・







 主の手が肩にまわってきたのを、すいっと体を引いて逃れると、はじめてみる軽いさびしさに主の黒い瞳が揺れていた。
 くすりっと笑うと、一瞬、頬をこわばらせて目をそむけてしまった。
 もういちど笑って、そっとその黒髪に手を伸ばした。
 さらりと音がした。
 つややかに闇にとけた色がさらさらと風に乗り始める。
 ぷいっと頭をはじかせて、主は朱衡の手から逃れようとするものだから、その黒髪を つかんで引き寄せた。
 がくんと主の長身が体勢を乱して崩れ落ち、座り込み、それにあわせて立ち膝をした 朱衡の腕のなかに黒髪の頭がおさまった。
 いとおしさにそっと髪をなぜると、すこし逃れるふうだったが、軽く腕の力をこめるとお となしく朱衡の胸のあたりに主の額がおさまった。
「お待たせいたしました」
 言うと、
 苦笑の混じった声で
「物好きなやつだな」
 口調とは反対に、どこか甘えたように朱衡にもたれかかってきた。
 くすくすっと笑いながら、
 ええ、っと朱衡は答える。
「物好きですから、こうして、間に合いました」
 何が?
 とは、聞かれなかったから、言わなかった。
 その代わりに、
「・・・あいつにもか?」
 朱衡の胸の辺りの衣についたちいさな手のひらぐらいの皴をじっと、見て、
 そう、聞かれた。
 ついさっき、見送った少年が唯一残したその跡に、ちいさな爪あとが残っていた。
 はい、っと、うなずいて、
 きっと、と、言う、
「みなと一緒に、尚隆さまをお待ちでございますよ」
 そうか、っと、主が言う。

       だから、

 はいっと、答えた。

       だから、

「尚隆さま」
 呼んだ
「尚隆さま」

        伝えたことがあっただろうか?

 そっと、黒髪をなぜると、もたれかかってきた主に、

        あなたに・・・

「尚隆さま?」

    いつか・・・ともに・・・
    よせてかえす、この時のなかで、
    世界を染め上げた最後の光陰、
    その天の境、
    赤く染まり、
    頬をなぜる光、

「尚隆さま?」
 胸におさまる黒髪の頭、
 どうして、重いのだろうか?
「尚隆さま?」


     どうか、どうか、
     せめて・・・

             ともに、見よう・・・・
             そう、約した、あれは昔、
             これは昔、


「拙の二つ目の無心、かなえてはくださいませぬのか?」

             闇に光、
             光に闇、

    いつか、ともに、

「せっかく・・・約定をいただきにまいりましたのに・・・・」

    おちていく、この世界に、

            天に光、


「尚隆さま?」

 重く、もたれかかる、体、

「尚隆さま、また・・・お休みになられてしまったのですか?」

 薄く、闇、
 濃き、光、

「拙は・・・間に合いましたか?」

 重く、想い、
 軽く、体、

「それとも・・・間に合いませんでしたか?」

 返ることのない、問いが、
 風に乗る。

「尚隆さま・・・」

 差し込む、それは光、

「ほら・・・」

 朱に
 染まる、
 世界、

「ともに・・・見よう・・と、そう、仰せでしたね」

 この腕に、
 この手に、

          わずかなぬくもり、
          風にのって、光にとけて、
          寄せてかえる波の狭間で、
          貴方を、貴女を

                  あなたと・・・


わすれるほどに、とけてしまいたい・・・


「尚隆さま・・・」

   寄せてかえす、
   このときのなかで、


             わすれるほどにとけて、 

                 あなたを

                        好きでいたい、


だから・・・




とても・・・好きですよ



やっぱり好きだぁ!果実様のご作品。
何度読んでも、淡い儚げな印象が、読み手の心を支配してしまうのです。
尚隆と朱衡のやり取り等、甘くて、しかし切なくて。
もう、「光」は、尚隆と朱衡の密着に、のぼせ上がりそうで。イチャイチャしているのに哀しい…。鼻がツンッと来てしまう。果実様のこの世界が、堪能できて、幸せです。
果実様、本当に、本当に、有難うございました。そして、お世話になりました。

There's something more to this story.
…その後の雁州国ご覧になりますか? 「  」
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2004.5.31 凍結果実にて掲載
2005.9酔訛楼にて再掲載素材提供
篝火幻燈さま
禁無断転写