凍れる果実様 作

「範に・・・参らぬか」
 言うと、まるで労わるように微笑む気配が聞こえた。
「もう、十分であろう?」
 振り返ると、思い出よりも細くなったその姿が儚くて、瞳のずっと奥が引き攣れてしまう。
「のう・・・おいで・・・」
 手を指し伸ばすと、両の手が伸びてきた。その手が近づいてくるほどに自分の胸が高鳴り、僅かに後ろめたさを感じてしまう。けれど、差し出したこの手を優しく柔らかくその両の手で包んでくれた、すぐ後に、
「『連れて行け』、とおっしゃったのですね」
 どこか、誇らしいように言うその口元に、望みが叶わぬことを理解した。
 彼は暖めるように、差し伸ばしたつもりの手を慰撫するように擦り、そのまま、ゆっくりと首を横に振った。
「あの方は、最後まで嘘つきで、困ります」
 寂しいはずなのに、と、愛しさをもう隠しもしないその言い様に、・・・悲しくなる。
「このまま、この手を縛り、そなたを連れてゆくことが・・・」
 無理矢理でも、できるのだよ、そう告げたのに、
「あなたさまは、なさいませぬ」
 確信して笑うその顔。
 幸せそうに・・・笑う。

 細い姿、細い指、そっと離れてゆく両の手、

「そう・・・だね、」

 連れ帰ればよかった。

「そう出来れば、よかったのに・・のう」

  連れ帰りたかった。
  離れてゆく細い背。迷いもしない後姿・・・悲しくなる。

    連れ帰りたかった。
    そう、出来なかった。

      手を握ってくれたぬくもりは、風に浚われ、・・・

      いつまでも、想いが胸に残る。

      いつまでも、悔いが手に残る。




      この手に、悔いだけが、風にも浚われず・・・



 かく結い上げた髪は少年特有のこしのなさで、駆けるその振動と受ける風に女官の苦労も水の泡に、肩口ではらはらと遊び跳ねていた。
 彼は、何を捜し求めているのだろうか、大きくそして聡そうな煌めきを宿した瞳をしきりに動かして、回廊の影、走り抜ける扉の奥、庭の花のほとりに視線を転じつつ、柔らかな筋肉をはずませて、この宮を飛ぶように駆け抜けていた。
 時折、黒き官服の者達に呼び止められ、にこにこと返事をした。なかには、彼の身分のために畏まる者も多かった。いつもであれば、太子といっても息子でしかない自分にそのようにしてもらうことに反発を覚えて、子どもらしい癇癪を起こしていたものだったけれど、今は、そんなことに感情が触れることはなかった。
 かわりに、彼は走って上気した頬をばら色に染めて、ねえ、ねえ、っと、声変わりをまだ遠くにした高く甘い声で、彼の探し求めるものの行方を皆に聞いて回ったのだった。少年の口が尋ねるそれは、数日前からこの宮に滞在する客人の尊称であって、十二国一、客として招くには肩が凝るという噂の御仁であったのだが、少年は嬉しそうに官人が指し示した東屋へと風のように駆けて行った。
 その、小さく弾むような後姿を見送って、黒衣の官らは口元が緩むのを抑えることはできなかった。ずいぶんと懐かれたものだ。そう、皆は思い、うららかな朝のはじまりに、誰もがやわらかな笑みを浮かべたのだった。



 駆けているのは少年。
 きょろりと大きな瞳を廻らせて、いくども繰り返したその仕草が、今度も空振りであった。
彼は、ちいさな体を毬のように撥ねさせて、回廊から宮へ回廊から庭へとその身を躍らせた。
「あっれぇ、こちらにいらっしゃるって聞いたんだけどなぁ」
 おっかしいなぁっと、庭園の東屋に首だけを突っ込んで、少年は求めるものがそこにいないことに、いくばくかの焦燥を幼い顔に上らせた。
「どちらにいかれたんだろう・・・・」
 くいっと、少年はいまや真天にさしかかった日を見、
「姉さんより先に見つけなくちゃ」
 ぽつりと呟いた。
 すると、
「隠れ鬼でもなさっておいでかの?」
 低く優しい声がして、少年の視界が大きな掌で覆われた。
「それとも、目隠し鬼でもいたそうか? 劉君」
「!」
 片手で覆い隠されてしまった少年の両の瞳。その甲をふた周りほど小さな両手がぺたぺたと触れる。その仕草の何がおかしかったのだろうか、少年の背後に屈んでいる人が、くつりくつりと笑った。
 そして、少年の目を覆うものが取り去られた。
 とたん、少年はぱっと振り返り、
「氾王さま!」
 背後の人へと満開の笑顔を捧げた。
「やっぱり、こちらにいらしたのですね」
 翳り無い幼い子の瞳の中で、その人はさらに笑みを深くした。
 そして立ち上がると、腰よりも幾分低いところにある小さな頭に向かい、西の国の王はそっと手を伸ばし、柔らかな髪を救い上げた。
「劉君にはどうなされた? これでは女官がうるさかろう」
 その言葉に、少年ははっとして自分のなりにようやっと気がついた。賓客がいらっしゃるからということで、常よりも窮屈な装いをさせられて、かっちりと合わされた襟元も、少年らしくりりしく結い上げられた髪も、今はきっと女官が烈火のごとく怒り狂うのが容易に想像できるほどにぐしゃぐしゃになってしまっていた。
「あ、あ、どうしよう。瑠微にしかられてしまう」
 あわてふためくその様子に、思わず頬が緩んでしまう。この少年付きの女官は先王の時代にもその腕を存分にふるっていたものだから、この少年にどのように日々を躾けているのか想像に難くない。
「では、こちらにまいられよ」
「氾王さま?」
「私でよろしければ、髪をすいてさしあげようほどに」
「ほんと?」
 はじけて、少年は叫んで、
「あ、いけない。本当ですか?」
 ほんの少しだけ、言葉を改めた。
 その様子に、王はさらに優しげな光を瞳に溢れさせて、
「ここでは、二人きりじゃ。気にすることはない」
「でも・・・・ここは下町じゃないから、って・・・。昨日も叱られたばかりなのです」
「ほう?」
「姉さん・・あっと、姉さまと喧嘩をしてしまって、そのときつい・・・言っちゃって、」
「なんと?」

「『このくそばばああ』・・・・」
「公主にかえ?」
「だって、だって・・・先に姉さんのほうが・・・」
「なんと仰せだったのかな?」
「『クソガキ』って・・・僕に言った・・・」
 朗らかな笑い声が西の王の口から沸き出でた。
「これは、これは・・・さぞお二人とも女官に小言をもらったであろうのう・・・」
「もうたいへんでした。母さん・・あ、ちがった、母上と父上に喧嘩がばれてしまって、女官だけじゃなくて、二人にも怒られて、それで、それで・・・晩のご飯をたべさせてくれなかったのです」
「それは、劉君がいけない。もちろん、姉君も言葉が過ぎる。延王君と大公のなさったのは大切な教えとお受けなさるがよろしかろう」
「でも、でも、今月になって、ご飯抜きがもう五回で、おやつ抜きは・・・あともう一回で十回になってしまうんです」
 少年の訴えに、西の王は声をあげて笑い出した。
「氾王さま、氾王様、笑うなんて、ひどいです。僕達・・ええと、そだち・・・ええっと、そう、ソダチザカリだって、姉さんが言ってました。だから、ご飯をたべなくちゃいけないんですって」
「ほう? 劉君は仙籍には?」
「まだです。姉さんもです。・・・そりゃ、ちょっとまえは、三日ご飯が食べれないのも、いっつもだったし、そりゃ、下ではまだ食料が足りなくて、民がナンギしているって、わかってます。ちゃんとわかっています。だから、そんなことで文句いっちゃいけないって・・・。ああ、そうじゃなくって、えっと、」
「大丈夫。ゆっくりとお話になるのがよろしかろう」
「えっと・・・僕が、言いたいのは、えっと、・・・だって、まだ、玄英宮にきて、半年もたってないんだもん。じゃなかった、たっていないのです」
「うむ」
「だから・・・その・・・あの・・・」
「どうかなさったかの?」
「僕・・・そんなに、下品なしゃべりかた・・・ですか?」
「女官に、言われたのかな?」
「・・・王のお身内であらせられる方が、そのように下々のようなって、叱られます。だって、仕方ないもの。母さんと、父さんは、昔はなんかいい暮らししてたっていうけど、僕と姉さんは下町育ちだもん。母さんが延麟に選ばれて、それで急にこ〜んな窮屈なとこに連れてこられちゃってさ。そしたら、これは駄目、あれも駄目って」
「何が、駄目と?」
「背中を丸めて座っていてはいけませんとか・・・、顎を引いて歩きなさい・・・とか、袖で口をふいたら下品だとか、ご飯のときは肘をついちゃいけないとか、桃にかぶりついたら駄目だとか、じゃあ、どうやって食えってんだよ。饅頭だって、一口ずつ片手でちぎってお召し上がりくださいって、そんなんじゃおいしくないよう・・・・氾王さま?・・・氾王さまってば、ひどい、そんなに笑わなくてもいいじゃない・・・」
「これは、これは、女官の苦労も忍ばれよう」
「もう! ひどい! どうせ、どうせ、僕は下品だもん。延麟みたいにお上品で優雅になんてできないもん」
「ほう? 延麟を引き合いにされましたか」
「いっつも、いっつも、『延麟をご覧なさいませ』『延麟のなさることを見習いなさいませ』ってさ。だって、麒麟だよ? 麒麟は生まれつき高貴で上品なんだから、僕なんか真似できっこないよ」
 この言葉に、西の国の王はすでに堪えることもせずに、高らかな笑い声をあげた。
「ひ、ひどい、氾王様・・・」
 笑われた憤りを、少年らしく膨らませた頬に表現した太子であったが、彼は、知らなかった。このように、西の王がこの宮に招かれて、なんの屈託もなく感情を表すのは、ひどく久しぶりのことだった。
 けれど、この少年がそれを知ることはなく、
「もう、ひどいよ、氾王様。僕・・・そんなに、下品・・・?」
 高貴なる神籍にあらせられる十二国中最も優雅なる王に、出会ってからわずか数日で懐いてしまった雁の太子は、心から甘やかしてくれる人に対する全幅の信頼と、そして、その対象の人に呆れられたのではないかという不安を瞳にさして、背の高いかの王を見上げた。
「これは、すまぬことを・・・。劉君、どうか、ご機嫌を直しては下さらぬか? そのようなつもりではなかったゆえ」
 かがみ込んで、少年の肩を引き寄せる氾王の暖かさに、宮にあがってから父とも母とも以前のように触れ合うことができなくなっていた少年は無意識にその感触に引かれて、すこし、恥ずかしそうに微笑んだ。
「すまぬのう。・・・劉君が、麒麟が生まれつき上品とおっしゃるものゆえ、つい、おかしくて・・・な」
「え?」
「そうとばかりは、ここ雁では言えぬから、のう・・・」
「え? 違うんですか? だって、瑠微が、代々の雁の麒麟は十二の国一番尊きもので、それはそれは美しく上品だって自慢たらたら・・・・あ・・と、前の、麒麟だって、」
「前、の?」
「とっても慈悲深くて、美しくて、神々しい台輔だったって、」
「・・・・それは・・・あまりにも、言い過ぎ・・・・」
 氾王はらしくもなく、額に手をあてて、言葉に迷った。
「じゃあ、瑠微は嘘をついたの?」
「嘘、ではない。ただ、思い出の中にある姿は、時の流れとともに、輝きを増してしまうものゆえな」
 声音が、隠しようもない懐かしさを滲ましている。
「氾王さまは、前の台輔をよくご存じだったのですね」
 どのようなお方だったのですか? と、何も知らず聞くのは、少年の声。
「そう・・・よう、知っておった。この国の王も、麒麟も、臣も・・・」
 通り過ぎた過去を知っている。だが、置き去りにされた者が、懐かしむことをいつからできるようになるのか、答えることのできるものは多くはないだろう。
 絞り出す音に、薄い陰りが宿ってしまう。それに聡い少年が気づかないはずはなく、
「・・・僕、もしかして・・・訊いちゃいけないこと、言っちゃいました?」
 気遣うように王を見上げた。
「いや、どうして、そのように?」
「だって・・・氾王さま」
 泣きそうです。そう言って、少年の小さな手がかの王の両頬を包んだ。
「・・・劉君は、優しきお子じゃ」
「そんなんじゃないです。ちがうんです。お願いですから、そんな悲しそうなお顔しないで下さい」
「劉君?」
「だって、僕、氾王さまが大好きだもの」
 誇らしげに言う、小さな姿。・・・細い姿。
「これはこれは、光栄なことじゃが、母君や父君のことも劉君は大好きでありましょう?」
「うん、母さんも、父さんも、姉さんも、みんな好き。でも、氾王さまは、もっと好き」
 幸せそうに・・・笑う・・・その姿に、
 不意に揺さぶられる、

  ―――思い出される、

「では、・・・では、劉君」

  いつまでも、想いが胸に残っていた。
  いつまでも、悔いが手に残っていた。

「範に・・・参られるか・・・?」

  置き去りにしてしまった願いが、叶うことはなかった。
  託された願いを、叶えてあげることはできなかった。
  それでも、誇らしい顔、離れていった細い背中。
  その・・・想いを・・・

 少年が考えたのは、一瞬。
「僕が範にご一緒したら、氾王さまは、もう泣かない?」
 首を傾げて、のぞき込む小さな子。迷いのない瞳。
「泣いて・・・など・・・」
「でも、泣きそうです」
 確信して告げる、小さな子。

   似ているはずはないのに・・・細い指、細い姿
   迷いのない・・・瞳。


       連れ帰ることができなかったあの人を、思い出す。
       もういない、あの人と、あの暖かさ、
       風に浚われたと、浚われてしまった・・・と


思い切らねば・・・

・・・いけないのに





似ているはずは・・・ないのに・・・


「氾王さま」
 小さな子、
 思い出ではない、小さな子、
「幼き御子を困らせてしまったようじゃのう」
 代わりではない、小さな子
「そう・・・少し、少しだけ、ここは風が強いゆえ」
 寒いから、泣いているように、見えるのであろう・・・
「寒い・・・の、だよ・・・」

    ・・・呟く声も、風が浚ってくれればよいのに、

 暖かな春に、訪れる季節に、降り注ぐ光に、流れ行く水に
    凍えゆく心に・・・・


「氾王さま」

 暖かな・・・小さな手

「大丈夫」

 ほら、と、幼い手、

「こうすると暖かいよ」


 小さな姿、小さな指、そっと近づいてくる両の手、

「大丈夫」

 暖かな掌。

 小さすぎる掌。

「大丈夫、ね?」



    あのときのぬくもりは、風に浚われ、・・・
    いつしか、想いは光に溶けて、


「僕は手が熱いのですって、姉さんは暑苦しいと言って嫌がるのだけど」


   いつしか、愛しさが


「ここは風が強いから、ちょうどいいでしょう?」

 ね、僕がいますから。
 傍にいて暖めてあげるから、
 だから、もう・・・寒くないから


      この手に、願いだけが、風にも浚われず・・・
      いつしか、思い出になって


             いつしか、光にとけて


「ね、僕がいます。だから、泣かないで」


 この手に、小さな優しさ


「もう、寒くないから」


    ああ・・・ほんとうに、


「傍に、いますね」



       暖かい・・・


家のサイトの開設祝いで、これを頂けるなんてねぇ〜。
当然これは、皆に楽しんでもらわなければいけないでしょう。

次世代キャラと絡ませて、そして、過ぎていったかの人を想う。毎回ながら、果実さんの詩的な、感覚に響くお話を堪能致しました。
突然太子になってしまった子の戸惑いも、キメ細やかで。上品に振舞おうと奮闘する姿。延麟の様に上品にですか。
前の延麟を知っている藍滌はつい笑いが込み上げますね。
確かに上品ではないな、六太は。でも愛らしかった。そして、そんな過去に思い馳せる。そうしたら急に寂しさが込み上げた。寂しくて、寂しくて。
その昔、尚隆という男王がいた。そこに控える、眉目秀麗な朱衡という男がいた。
藍滌はそれを失ってしまった悲しみを受け止め、次の世代に繋げて行かねばならないんですねぇ。
こういう心情を淡雪の如く、又研ぎ澄まされた煌きの如く表現されるのが、果実さんなんですぅ〜。
果実さんのご作品を読むと、心が清らかになってゆく気がするのは、気のせいかしら。

果実さん、このシリーズをこちらで公開する事をお許しくださったばかりか。
こんな、こんな、素敵な贈り物本当に有難うございました。

しかし藍滌までもが虜になる男、朱衡さん。いい男だわvv
又、チャンスがあったら挑戦して見たい、魅力的なお方です。
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2006.4掲載
素材提供 篝火幻燈さま
禁無断転写