凍れる果実様 作

 夢を見た。
  遠くに山野、川、流れる水、あそぶ小童の声
 夢を見ていた
 笑い声、竈の煙、鍬の音響き、恵みに穂が風になびく、
 そんな、これは夢、ゆめだった、


   きっと、これは罰、これは罪、
   動かないこの体を、もう、どうしようもない、どうしようとも思わない、
   せめて、せめて、あの日あの波の音、
   せめて、せめて、あの日あの朝の光、
   なかったことにしたかった、
   もういちど、聞きたい、
   もういちど、浴びたい。




朱衡、

朱衡、

おねがいだ、


                      好きになって、
                      わすれないで、
                      俺がいなくなっても、
                      あいつがいなくなっても、
                      この国に風が吹く、
                      この海に波が立つ、
                      この日々に日がのぼる。
                      そのたびに、どうか、どうか、
                      わすれないで


おねがいだ




 動かない体にもうどうしようもなかった。
 ほうっと、息をつくと、もうそれだけで体の関節のひとつひとつが悲鳴をあげて、熱の 下がらない身体、軽く絞められたように息苦しい喉、胸は押さえつけられたかのように 重く、もう、なにもできない。
 敷布の襞があたるところがこすれて痛い。さわりとなびく風に息がとまりそう。つい数 日前までは傍に残って唇を湿らせてくれていた女官も黄医も、もういない。
 目をつぶっても目をあけていても、もう、なにも見えなかった。

 なのに、
 呼ぶ声が聞こえる。
 もう、誰もいないはずのこの宮に、
 呼ぶ声が聞こえる。

   あれは、波の音、
   あれは、朝の光、
   呼ぶ声、
   願う声、

「台輔、」
 そっと、やさしい手がためらうように頬にふれた。
 ふわりといい香りがたちのぼる。
「台輔」
 聞こえる声、
 あれはあの人、あのやさしいひと、
 でも、目をあけられない、これは幻聴、
 もう、ずっと、前に、この宮を出て行ったあの人、
「台輔、おきられますか? 何かおのみになられますか?」
 いるはずはないのに・・・
 そっと、乾いた唇を湿らせるこの感触、
 誰かが、水を浸した指で乾きにひび割れた唇をそっとなでてくれている。
「白湯です、ぬるくしてありますから、お飲みくださいな」
 不意に、頭を、喉の後ろを、肩を、支えられてその反動で軽くあいた口に当てられた 器、流し込まれた液体。
 むせた。
「う、・・ぐ・・げほ・・」
 むせ返った。
「大丈夫ですか?」
 声に、聞き覚えがある、
「さ、せめてもう一口」
 なぜ?
 ここにいる?
「朱衡?」
「はい」
 懐かしいやさしい人が微笑んでいた。
「どうして、もどってきたんだ、」
 ほほ笑むその顔がぼやけてよく見られない。
「でていけ、そう、いわれただろう?」
 どうして、ぼやけるんだろうと思って、自分が泣いていたことに初めて気がついた。
「そうですね、そういえば、そんなことも言われましたね」
 もう、これだけ生きてますから、物覚えが悪くなったんですっと、彼は言う。
 そして、気にもせぬ風に少年の体を抱えなおし、人肌ほどの白湯をふたたびそっと流し込む。
 こくりっと、少年の喉が鳴った。
「ああ、お飲みになられましたね」
 うれしそうに彼は言う。
「しゅこう・・・」
 呼ぶと、
 はい、っと、彼は笑う。

 朱衡、
 よぶと、
 微笑む、


       朱衡、



どうして?



どうして、もどってきたんだ?




「勅命だと・・・言ったのだが?」
 聞こえなかったのか?と、己の命を聞き逃したふりをする彼に、この国の王は言っ た。
 しんっと静まり返った房間、続く回廊、誰も通らず、だれもいない。
すでに・・・
「お前の顔はもう見飽きた、どこへなりとも行くがいいさ」
 顔を見もせずに後姿のみで右手を上げて、ひらひらと振る。
 絹の衣がさわりと鳴った。
 乾いた風がふきこんで、黒髪をゆるりとなぶり、そして、彼の頬に触れた。
 おもっていたよりも早いその乾きに彼はくすりっと笑い、そして、首をかしげた。
「見飽きた・・・と、仰せになられましても、」
 それはもう、いまさらでしょう?
 楽しそうな声が答える。
 それに、っと、彼は言う、
「どこへなりと、そう仰せですから、拙がどこに行こうと、いえ、どこに居ようと、」
 かまいませぬでしょう?
 風がきれいな声を掬い上げて、乗せて、そして、耳に届ける。
 きっと、にこりと微笑んでいるにちがいない、
 きっと、すこし、澄んだ瞳の端を怒った形に偽りながら、やさしい光、
 きっと、きっと、
 だから、
 ・・・では、っと、
 この国の王は言う。
「秋官長には蟄居申し付ける、沙汰あるまで官邸をでるは許さぬ」
 くすり、っと、笑う声、
 きれいな声、きっときれいな瞳、
 さらりっと、音がなって、
 そして、遠ざかっていった。



                 朱衡、

どうして?


どうして、もどってきたんだ?



「台輔、すこしお休みになられますか?」
 抱えてくれていた腕が離れていこうとする。その腕にすがりつく。
 離れないで、行かないで、
「台輔?」
 やさしいこの人の顔がみられないから、せめてぎゅっと抱きついて、
その胸に顔を埋めて、
「・・・台輔」
 この人の手が背をなでてくれるのを待つ。
 金の鬣を梳いてくれるのを待つ。
「・・・しゅこう・・」
「はい」
 やさしい声、
「しゅこう・・・」
「はい、どうなさいました?」
 変わらない口調、なにも変わるものがないという口調、
 こんなにも変わってしまったこの国に、この宮に、
 ただひとつ、かわることはないのだと、そう、期待してしまうから、
「どうして、もどってきたんだ?」

 何もない、誰も居ない。
 もう、緑あふれる山も、野も、
 子供たちが笑うことはない。
 あふれるのは血潮、
 みちるのは妖魔

「でていけといわれただろう?」
 でていけといわれて、皆、もう居ない。
「それに、秋官長は蟄居しているんじゃないのか?」
 抱いてくれていた腕が強く少年を抱えなおす。
「そうですね、そういわれましたね」
「じゃあ、朱衡」
「はい?」
「・・・ここに・・いちゃ、いけない」
 彼が微笑んだような気がして、顔を上げると、変わらない瞳、ふわりと柔らかな光、 それが少年を包み込む。
「朱衡、だめだ、尚隆に見つかったら、きっと、」
 ゆるりっと彼は首をかしげて、
「きっと?」
 聞き返す。
「きっと、お前を・・・・」
 この人が血にまみれるのを見たくなかった。この人の体が冷え切って動かなくなるこ とを考えたくもなかった。だから、
「朱衡、でていけ」
 そう、言ったのに。
 どうして、
 しがみついて、
 彼の胸から離れることができないんだろう?



お願いだ、

朱衡、

おねがいだから・・・




 やせ細った背にあたたかな手のひらからのぬくもり、
 乱れきった金の糸をいとおしげに梳いてくれるほそい指、

 おねがいだから、泣いてしまう。
 その前に出て行って、
 きっと、泣いてしまったらこのやさしい人は、そばに居てくれる。
 だから、泣く前に、でていって、
 なのに・・・
 どうして、
 しがみつく自分の腕がこんなにも、
 緩めることができない。
 離れられない・・・


         波の音が聞こえる。
         寄せて、かえり、
         出逢って、消える


「しゅこう・・・」
「はい」
「・・・朱衡」
 抱きしめてくれる。
「・・・連れて行って・・」

    あの日、あの時、
    聞いた波の音、
    浴びた日の光、

    もう一度、
    連れて行って



           誰もが、いつか過ぎて消える。
           その前に、
           その寸前に、
           大地をわたる風に乗り、
           包み込もう、
           貴方を、貴女を
           あなたを




世界を染め上げる最後の光陰、その先触れの風・・・




「台輔、ほら、朝ですよ」

 呼びかけても、答えはない。

 抱きかかえる少年の体。軽すぎる麒麟のからだはいっそう軽く、そして、重い。
 急速に冷えていく少年のからだ、いくらきつく抱きしめても、もう、その頬に赤みが差 すことはないことはわかってる。なのに、

「台輔、朝が・・きますよ」



天空を覆う漆黒のその先に天の境、わずかな朱の一線、






よせてかえす、この時のなかで、


世界を染め上げる闇の色 「  」
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2004.5.31 凍結果実にて掲載
2005.9酔訛楼にて再掲載
素材提供 篝火幻燈さま
禁無断転写