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鬱 金 桜 縷紅様作
  捨身木に実った時から、ずっとずっと守り続けた美しい金色の光が穢濁に穢されていくのを、それはじっと黙って耐えていた。
――あの方が泣いている。
 そのことを思うたび、女怪の胸に焼け付くような痛みがこみ上げてくる。金色の神獣は、半身である王のために生まれてくる。たとえその王がどのような者であっても、それに逆らうことは天の理が許さないのだ。そして女怪もその理に縛られる存在でしかない。  暖かい晩春の風が、のどかな風景にほんの少しだけ光の強弱を付けている。
 尹灑(イサイ)は遁甲していた地脈の中から、陽炎のように姿を表すと、ふわりと優しい薄黄色の花を咲かせる枝を眩しそうに見上げた。
――あの方の鬣と同じ色……
 短い毛に覆われた手――前肢を伸ばし、尹灑はそれを手折った。生の木を折る嫌な感触を感じながら、尚も力を込めて裂けた樹皮を毟り取ると、青臭い木の匂いが鼻をついた。その匂いは、喋ることのできない花の悲鳴のようだと、彼女は思った。
 その花を胸に抱き、女怪は再び地の中に揺らいで消えた。
 春の暖かい陽射しは、ただ黙ってその一部始終を照らしていた。
◇  
  大陸八国の南東に位置する巧州国は温暖な気候で、早く訪れた春はゆっくりと歩みを進めていく。気候の厳しい北の国では、冷たい冬が去った喜びを表すように花々は一斉に咲き誇り、繚乱の春を謳歌する。しかし巧の長い春は、春の女神がまどろんでいるような、おっとりとした静かな季節だった。
 北風の最後のひと吹きが通り過ぎると、大地には緑が零れ始め、愛くるしい少女が転寝から目覚めるように、木々の花々が一つ一つ咲いていく。穏やかで希望に満ちた季節。それは人々の心に妙なる平安をもたらしていくのだった。
 塙麟の選んだ王は、衛士として長い年月を実直に勤め上げた初老の男だった。仕事柄自分にも他人にも厳しい、そして何よりも秩序と礼節を重んじる人柄は、仮朝を支えていた官吏たちとの折り合いも良く、彼が玉座について三十年ほどは貧しい国ながら大きな問題も起きず、着実に巧はその基礎を固めていった。朝の結束は固く、その頃の誰もが彼らの戴いた王の長い治世を確信していた。
 しかし、時が経つに連れて、塙麟は彼女の内で漠然とした不安を感じ始める。それは、一つ一つはほんの小さな歪が、きっちりと隙間無く積み上げられていくことによって、知らず危うい均衡となるようなものだったのかもしれない。しかしその時の塙麟には、漠然と不安を感じる己の心が何を恐れているのかを、明確に表すことはできなかった。
 治世三十三年目の春。
 慶東国との境である北部一帯を吹きすさび、遥か東へ向けて抜ける蝕が起きた。
 その年は冬が寒く、木の芽時に春の大雪が降った年だった。各地の義倉も底をついた頃に、ようやく南風が春の暖かさを連れてきた。長い冬を凌ぎきった喜びとともに、苗代には田植えの瞬間を待つ水稲の苗が緑に輝きはじめる。しかし蝕は全ての苗を押し流し、収穫の期待を一心に集めて穂を伸ばしていた麦畑からは、無残に土を巻き上げ青い麦を全て薙ぎ倒していった。初夏に実る果樹は、ふくらみ始める前の子房をもぎ取られ、そして、里木に実っていた卵果もいくつかが枝から離れ、虚海の彼方へ流されていった。
 人々は落胆した。荒れた田畑はまた耕せばよい。だが、そこに蒔くべき種がない。長かった冬の食料として、先に蒔いた分だけを残し、種籾は全て食べつくしていたのだ。この夏に作物を育てることが出来なければ、次の冬が越せない。そして蝕の嵐で、雨露をしのぐ家を失ったものも多かった。
 蝕とは天の理に属さぬもの、それがいつどこで起きるのかは誰も図り知ることができない。しかし被害にあい希望を失った多くの民は、救済の力を持たない国へ不満を募らせ、また蝕の災害を理由に王が道を誤っているのではないかと、王への不信を口々に上らせた。
――こんな筈ではない、自分は天が認めた優れた王なのだ――
 全てにおいて順調だった王が初めて感じる挫折は、彼にとってはどうしようもなく忌むべきものだった。堪えようのない苦しさが、塙王の心を徐々に蝕んでいく。それは心の底にある深い闇に潜む蟲のように、少しづつ数を増やし彼から冷静な判断を奪っていった。
――私が悪いのではない、蝕の災厄は異界から持ち込まれたものなのだ――
『主上……主上、どうかお考えなおしてください』
 塙麟は美しい鬣を振り乱して、王の足元に跪いて縋る。
『蝕は人知の及ばぬもの、天の理の外にあるものでございます。海客には何の咎もございません。彼らを処刑すれば、その報いが主上に……』
 しかし、彼女が受けたのは王の鋭い一蹴であった。この温厚で物静かな男の、どこにそんな荒々しさが隠されていたのだろうか。蹴り飛ばされた塙麟は、堂室の隅に置かれた、人の腰ほどの高さがある大きな花瓶に激しく身体を打ち付けられた。その衝撃によって倒れた花瓶から、冷たい水が容赦なく彼女に降り注いだ。
 彼女の影から飛び出した女怪が、塙麟を守るように王と彼女の間を塞ぎ、王に向かって無体を責める視線を投げつける。それがさらに王の怒りを大きくさせた。
『お前に何が分かるというのだ。国を治めるため流す必要のある血に、口出しは許さぬ』
 傲然とした声で彼は言い、さらに花瓶から零れ無残な姿になった花の枝を拾い上げると、怒りのままに横たわる塙麟を女怪もろとも打ちつけた。塙麟の白い頬に一筋の紅いものが走るのを見て、思わず立ち上がり王に手を伸ばしかけた女怪を、塙麟は弱弱しい声で制止する。
『止めなさい……尹灑。主上から離れなさい』
 そして塙麟は、身体を濡らす冷たい水に震えながら、彼女の主の足元に跪き姿勢を正すと、静かに叩頭した。
『至らぬ事を申しました、主上……しかし、どうか、どうか事の本質から目をお逸らしにならないでくださいませ』
 彼は尚も枝を振り上げる、しかしその手は頭の上に留まり振り下ろされることはなかった。
 額づけた頭に放り投るように枝を手放すと、彼は塙麟に背を向けて瞼を閉じ、低い声で言った。
『下がれ、お前の顔などみたくない。』
 彼の唇は紫色に変色し、小刻みに震えていた。
 彼自身にも己の愚かさは分かっていたのだ。しかし彼の内に生じてしまった毒は、もう誰にも消すことはできなかった。

 仁重殿の奥、塙麟の臥室は強い陽が差し込まぬよう、窓には目の細かい紗が掛けられていた。春の園林の暖かさの欠片も感じられないその寒々しい室内には、僅かばかりの暖のために小さな火鉢が運び込まれていた。
 尹灑は堂室の中で姿を現し、牀榻の幄越しに僅かに覗く金色の影に向かって囁きかけた。
「台輔……塙麟、今年も鬱金桜が美しく咲きましたよ。ご覧くださいませ」
 幄の中からは返事がない。眠っているのだろうか、そう思いながら、尹灑は牀榻を包んでいる幄のゆったりとした襞に手をかけた。その時、塙麟の低く抑えたすすり泣きが聞こえてきた。
「塙麟……」
 尹灑は手に持っていた桜の枝を広い臥牀の枕許に置き、柔らかい前肢をうつ伏せにの塙麟の背中にそっと当てた。何も言わず、幼子を慰めるようにゆっくりとその背を撫でる。
 冬の最中(さなか)から、彼女は王に命じられて、幾度も使令たちを一人の少女の元に送った。あるものの爪は少女の肩を裂き、またあるものの牙は足を抉った。そして多くの使令たちがその少女のために命を失った。血が流される度に、彼女の内に穢濁は降り積もっていった。
 塙麟は幾度となく王に嘆願した。彼女のためでなく、まして少女のためでもなく、他ならぬ彼女の主のためにその愚行を止めて欲しいと。しかし、王が真に命じれば、麒麟はその命には決して逆らえない。仁獣である塙麟にとって、これ以上の苦しみはなかった。それは王自身が苦しくて堪らないのを、分かちあえと言われているように、彼女に向けられる諸刃の剣だった。
 仁重殿にはもう、ほんの一握りの女官しかいない。
 王の不興を買った麒麟は、ひっそりとした宮の中、幽閉同然の処遇を受けていたのである。
 ただ、王命を受けた時だけ、その薄暗い宮から外に連れ出される。
 しかし彼女にとって、明るい春の世界は、今や苦しみの坩堝でしかない。
「……もう、主上の御為に私のできることはありません」
 それでも――と、塙麟は呟きながら、そっと身体を起こして顔を女怪に向けた。
「主上のお傍で仕えることが、私に定められた運命です」
 枕許に置かれた、鬱金色の桜に塙麟はそっと目を細める。幽かに微笑んで。そしてその微笑みは苦しみを含んだ曖昧な表情に移ろった。
「主上はこの花の咲く春を愛していらっしゃった。できるならば、あの頃に戻りたいのに……」
 蝕は異界へ卵果を運び、そして異界から人を運ぶ。
 胎果の王は生涯に二度、間違いなくこの世界に蝕の傷を刻む存在である。
 彼女の王は愚かかもしれない。しかしそんな彼を、それでも塙麟は心の底から憎むことはできなかった。
 目を閉じて瞼に浮かぶのは、鬱金桜の間を縫って降り注ぐ金色の陽の光と、王の穏やかな呼び声。
『塙麟よ、私の美しい娘。今年も無事に冬を越し、この花を見ることができたのう』  そして彼女は微笑み頷いて、彼の皺の多い浅黒い手を取って応えるのだ。
『これからもずっと、主上とこの桜を愛でとうございます』
 薄黄色の花は、今も変わらずに青空の下で春の光に揺れている。
 それを見つめる主従はそこにはいない。
 思い出すらも、本当にあったことなのか。今となってはもう、彼女には自信が持てなかった。
 ヒタ、ヒタ、ヒタと、小さな足音が廊屋を近寄ってくるのが聞こてくる。
 女官の声が響く――
「台輔、主上からのお召しでございます。お支度を整え、峨城(ガジョウ)を連れ正寝にお越しください」
「台輔は体の具合がお悪いのです。どうぞ主上に……お慈悲をと」
「良いのです、尹灑。私は参ります」
 塙麟は心配そうな顔で見つめる尹灑にそう言って、ゆっくりと身を起こし、臥牀から立ち上がった。白い影のようなその細い体を尹灑が支える。
「着替えを、頼みます」
 臥室の入り口で控えている女官に言いつけると、女官は何も言わずに身支度の準備を整え始めた。
 俯いてその場に立ち尽くしている塙麟は、尹灑にむかって呟くように声をかけた。
「主上の御為にならぬと分かっていても、主上のお傍に仕えるこの悦びを捨てることは、私には……。なぜ天帝は、このように罪深い生き物をお作りになったのでしょうね。命に逆らうことさえできれば、主上をお助けすることもできるのに」
 着替えを用意し塙麟の傍に寄る女官の足が、床に落ちた鬱金桜の花を踏みつけるのを目にした尹灑は、辛そうに瞼を閉じて顔を背けた。
 女官の手が塙麟の細い鬣を丁寧に梳っていく。
 ふと、塙麟の思考の端に、紅い髪の少女が敵に挑みかかる時の翠の瞳が見えた気がした。
――あの方の麒麟も、こんな苦しい思いをなさっているのでしょうか
 紅い髪が揺れる。苦しんでいる姿すら、生きる力に満ち溢れる生命の紅。
 その色は、地獄の業火の色なのかもしれない、と塙麟は感じた。
「いつか主上もお誘いして、一緒に桜の花を見に行きましょう」
 塙麟は、傍に控える女怪に小さな声で言った。
 叶うことならば、もう一度――と



桜祭り参加のご褒美に企画運営者の縷紅さんから頂きました。
縷紅さんが桜祭りでお書きになったものから好きなのを貰っていいよとの事でしたので。そら、迷いますけどね、やっぱり私は、このお話にしてしまった。縷紅さんが表現される麒麟の切ない心情、私は大好きなのです。

塙王が道を踏み外していったきっかけ。こんな、考察もあるんですね。
折角実った作物が突然の蝕によって駄目になった。初めて味わった大きな挫折を、何処かにかづけてしまいたかった。だから海客をあんなにも…とは。縷紅さん、恐れ入りました。
「逆恨みじゃない」と言えば身も蓋もないのですが、そんな塙王の愚かさ、悲しさに又胸打たれてしまいました。又、塙麟が何をされても、甲斐甲斐しく主人の後をついていく。もう、ね、切なくて、胸キュンですよね。それを居たたまれない思いで見ている使令の目線から語る。

縷紅さん、こんな味わい深いご作品頂き有難うございました。いや、もう、祭りに参加できて良かったよ、ホント。



2006.5.掲載

素材提供 Kigenさま
禁無断転写