その人の横顔は哀しげで、薄紫の瞳は淡い光を放っていた。
儚く美しい人だったように思う――
今ではもう、時の河の向こうに霞んでしまって、定かには思い出せないけれど
月下美人 縷紅様作
毎年この季節になると、園丁が陽子付きの女官に一鉢の鉢植えを託す。
それはもうかなり昔、巧国の王が立った時に景女王にと贈られたものの子孫だった。
その花が初めて開花した時、陽子はひどく複雑な表情をした。
巧国と陽子の間に深い因縁がある。
負い目と、辛い思い出とが交錯する隣国の美しかった麒麟に思いを馳せたのだった。
「もう・・・この花の季節か」
葉の間から伸びた花柄の先に頭を垂れる、白く大きな蕾を指先でそっと触りながら陽子は言った。
そして遠い昔の記憶を辿るように、翠の瞳を細く伏せる。
景麒とともに渡った虚海、その黒々とした闇と嵐は陽子の過去を閉ざした。
夏の日差しが肌に刻み付けていったひりひりとする日焼けの感触のように、心に僅かばかりの痛みを感じさせる故国を想う。今となってみれば、この世界が何たるかも知らず、また誓約の意味も知らず、生命の危険に晒されながら彷徨った極限の日々は、彼女が景王という存在になるために必要な階(きざはし)だったと分かる。
開け放たれた窓から、生ぬるい風が幕布の裾をゆったりと膨らます。
綻びはじめた花の香りが、室内に漂い始めた。
切り立った巌峰の稜線近くには、十三夜の月が顔を覗かせている。
その黄色みを帯びた月の光が、幾重にも重なる花びらを照らし出した。
花の甘い香りが、脳の奥の方を麻痺させるようで、陽子は軽く頭を振って二度瞬きをした。
ゆるやかに開いてゆく花。
そのすぐ傍には、いつのまにか一人のすらりとした若い女の姿があった。
「あなたは・・・」
声を出したつもりだったが、本当にそれが音になったのか、陽子には判然としなかった。
黒い衣装と、景麒に良く似た色素の薄い金の髪。
「――麟・・・塙麟? 」
その口元が僅かに動き、微笑が浮かんだ。
『私は止められませんでした・・・』
風に揺れる幕布は、透けるその姿を容易く通り抜ける。
それは生あるものではない、しかし不思議に恐ろしさは感じなかった。
ただ、どこまでも透明な哀しみがゆっくりと室内に漂っていた。
『主上・・・塙王さまを、私はお救いすることができなかったのです』
水禺刀が、その場の霊気に共鳴して低い唸りの響きを放っている。
かつてそれ自身が刀身に映して見せた幻影を再び浮かび上がらせようとするように。
『貴女さまは、今も私の主上をお恨みですか? 』
かつて塙王の行った愚挙は巧の国から麒麟を奪い、王を奪い、長い荒廃をもたらした。
陽子の命が陽子一人のものではないと知ることのできなかったその時に、もしも本当に死んでしまっていたら?
景王としての陽子は、この麟の主を決して許してはならないということは確かだった。
しかし――
彼の心の闇は本当に彼一人のものなのだろうか?
「すまない・・・私には分からない」
佇む塙麟の影は、哀しげな表情を浮かべている。
――もし、かつての塙王の愚行がなければ、今の私は存在しただろうか?
彼の愚行は陽子を成長させ、そして引き換えに巧は沈んだ。
それまで何度も頭をよぎり、言葉にすることすら恐ろしいと思うことだった。
振り払っても、どこまでも追いかけてくる疑問。
「私に分かることは、全ての王には王たる理由があり、そして失道に至る過ちの種もそれぞれに内包しているのだろうということだけだ」
かつての塙王の姿は、やがていつか来るかもしれない陽子の未来。
「だから今は、貴女と貴女の王に安らかな眠りを祈りたいと思う」
ゆらりと彼女の影が揺れ、表情が朧に滲んだ。その時、室内に景麒の声が響いた。
「主上、御在室でしょうか? 」
「ああ、入れ」
衝立の陰から、彼女の麒麟が金の光を放ちながら近寄ってくる。
「灯りもつけず、いかがされました? 」
「十三夜月と一緒に、この花と昔語りをしていた」
僅かな風にユラリと揺れる月下美人の花が、その時初めて景麒の目に映った。
彼の緋色の女王が即位した年の九月に、ひっそりと散った麟がいた。世界にたった十二しかいないその同胞の一人を想うとき、景麒の胸には痛みを伴った憐憫の情が去来する。
王の為だけに生き、死んでゆく孤高の生き物。
かつて彼は自らの王に殉じることはできなかった。
今、二王にまみえた彼は幸福の中にいる。
王に殉じることのできた彼女を、彼は憐れんでいるのか、それとも羨んでいるのか?
答えのない問いは、風に弄ばれて空に消えた。
ゆるゆると視線を戻した景麒の前には、月の光に照らされた紅い天上の華がゆったりと彼を見つめていた。
そして全ての過去は、現在(いま)に続く――――
縷紅様より
月下美人の花は実物を見たことがありません(ごめんなさい・汗)
近縁種のクジャクサボテンと似た花だそうですが・・・
この花をはじめて知ったのは、子供の頃収集していた、切手の図案だったと思います。
デイゴと月下美人、この二つの花が妙に印象的でした。
月下美人も一日花(一夜花?)です。夏の花には多いですね。その花の美しさ、儚さがなんとなく塙麟のイメージと重なってこのような話になりました。
月下美人の花言葉:はかない美・はかない恋・繊細・快楽・ただ一度だけ会いたくてetc
―その存在には、次ぎ有る存在に対する意味がある。―
そんな事を、この話を拝読した時思いました。そして、麒麟の様々な生き様を思い、心にジワーと響いてきたのです。
塙麟は、それがこの先愛する主(あるじ)に、無常しか得る事が出来ないと知りつつも、最後まで諌める事が出来なかった。
一方景麒は先の王に、唯寄り添って欲しい、理解してくれなくとも黙って包み込んで欲しいと願っている事を理解してやれず、正論だけ押し付けてしまったと言う経験をもっている。
麒麟でも色々な運命があるんだなぁとこのご作品を見ると思います。
更にこんな事も、思う。
敬愛を持って、無条件に主を愛する麒麟。
塙麟はそれでも愛するが故に、遣えた主と運命を供に歩み朽ちていった麒麟。
景麒は、主から愛されるが故に一人生かされる事となったが、見方を変えれば、主と供に付き合う運命を避けられ置いて逝かれた麒麟。
果してどちらが幸せなのでしょうか?
景陽っていう恋愛要素フィルターを一切抜いて、一王に遣えきった麒麟と、二王に遣える事になった麒麟で考えると、ちょっとグルグルと堂堂巡りな感じになって、結局分からなくなる。しかし、これもやはり次にある存在への布石なんでしょうね。
しっとりと、そして思わず想いを馳せてしまう、このご作品。
本来であれば、頂く事叶わないのですが、「開設祝い」と言う事で、こちらでも、掲載する事が出来ました。(ああ、開設祝い万歳!)
縷紅様、太っ腹なご好意、篤く御礼申し上げます。

2005.9.掲載
素材提供 MILKCATさま
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