鎖 griffon様

 建州は、これといって大きな産業がない州だった。虚海側の地形は厳しいため、大きな港を築くことも出来ない。地力豊かな和州とは違い、痩せた土地に根付く作物もなく 、山も急峻に過ぎて手入れを出来ないため、木材を扱うことも出来ない。征州のように 雁との交易で潤う事もない。武・宣・紀の三州もこれといった産業は無いが、気候に助 けられ、ゆっくりとてはあるが豊かになっていた。復興の進む慶東国にあって忘れられ たかのように、建州だけが貧しいままだった。

 その建州の虚海に近いとある郷都に、安くて料理の旨いと言う噂の舎館があった。赤楽になってから暫くして出来た舎館だった。その舎館の家公は、見目は厳ついが人当たりも良く、面倒見の良いと評判だった。寂れたその街で、唯一賑わう舎館であり、唯一 騎獣の面倒も見ることの出来る舎館だった。とは言え、忘れ去られた建州の寂れた郷都 の舎館であるから、それなりではあるのだが。
 建州の短い夏が終わり、明け方は路上で寝るには厳しい季節が始まりかけた頃だった 。
 その舎館に珍しい客が現れた。きっちりと官服を纏い、駮を連れた女だった。その女は、舎館の前で家人に駮を預けると、中へと入っていった。舎館の前にいた別の家人が 、慌てて家公を呼びに行く。暫くして現れた家公は、髭面で、がっしりとした体躯を持 ち、官服を着た女よりは頭三つほど背の高い男だった。

「いらっしゃい。泊まりかい?」
 家公は、ぶっきらぼうに言った。
 上から下まで無遠慮に男を眺めた女は、少し眼を細めて、くつりと笑った。
「俺の顔に何かついてるか?」
 そう言うと、右手で鼻の横を掻いた。その中指に鉄の環が嵌っていた。
「いいえ。申し訳ありませんでした」
 少し大袈裟に両手を翳した女は、袖から業と手を出したまま丁寧に拱手した。右手の 中指に鉄の環がある。家公は少し眉を顰めて女をみた。
「この環がお気になりますか?」
「そうだな」
「これは拓峰に私が居た折に、戴いたものです。今はある方々との友情の証にもなっております」
「……拓峰」
 家公は表情を少しだけ緩めた。
「その方々からの伝言をお伝えする事と、貴方様の御助成を取り付けに参りました」
「……なんかその、御大層な言い回し。なんとかなんないかなぁ?俺は只の舎館の主だぜ。もうちょっと、こう……背中が痒くてならねぇよ」
 女は、再びくつりと笑った。
「お伺いしていたとおりの方ですね」
 家公は苦笑いを浮かべた。
「伝言とやらを、聞こうか」
 そう言うと主人は、舎館の奥にある自室に女を連れて行った。使い込まれた榻に腰掛 けた女に、家公は茶を渡した。その茶と入れ替わりに、女は書簡を二通、家公に渡した 。そのどちらも、短いものだった。
『兄さん。暫くぶりです。この度主上からの下命で、紀州で仕事をすることになりました。大学での仲間と二人で赴任します。同じく仲良くなった者が、建州に赴任するこ ととなりましたので、助けてあげて下さい。よろしくお願いします。  ――夕暉――』
 読み終えた家公は、にっこりと笑った。もう一通を開く。更に短い書簡だった。
『ひねりが足りないぞ、虎嘯。  ――陽子――』
 暫く書簡を眺めていた家公は、左の頬を引き攣らせていた。
「私は、昇黎と申します、虎嘯殿。弟君には大学時代からお世話になっております。 この度この建州に赴任して参った次第です。漸く自分の望んだ道に進む事が出来て、嬉 しくもあり、同時に恐れもあります。どうかよろしくお願いいたします」
 昇黎と名乗った女は、二十歳になるかどうかと言うほどの若い外見をしていて、その容貌に見合うほど希望に燃えた瞳を伏せ、頭を下げた。驚いたような貌をした家公こと 虎嘯は、昇黎の頭に載った冠の頂点から、きっちりと纏められた髪が少しだけ解れているうなじのあたりを彷徨っていた。
「何をどうよろしくしろってんだ。俺は只の舎館の家公だぜ」
 少し面をあげた昇黎は、上目遣いに虎嘯を見た。
「鉄環党と言う義賊が、建州にはあると聞き及んでおります。義賊と言うよりは、私兵だと。建州の民を守っているのは、建州侯ではなく、その私兵だともっぱらの噂です 」
「お前さん」
「この度建州侯を拝命いたしました。どうか、御助成いただけないでしょうか」
 慌てた虎嘯は、思わず榻を蹴って立ち上がる。
「ちょっと待て。建州侯って……あのな……俺は」
「鉄環党の頭目であることは、存じております。また、大僕として金波宮に居られたことも。拓峰の乱の事も」
 立ち上がったままの虎嘯は、建州侯を見下ろす事になっている事に気がついたのか、 膝を折って、昇黎の視線に合わせるほどにまで、身を縮めた。
「御助成いただけましょうか」
「だから、俺は在野の只のおやじだっての。何も役にはたたねぇよ。きっと」
「いえ。是非とも。牧伯は私の友人でもある呀嘉が居ります故、州宰か州師左将軍に 」
 ――陽子ぉ。これはお前の差し金かぁ?それとも夕暉のヤツが……。
「如何でしょうか」
 視線の高さを合わせたために、虎嘯は昇黎の目線をまともに受けることになっていた 。

 ――どこかで見たことのある目……あの時の陽子の目にそっくりだ。絶対に前に進むんだと言うあの強い視線……。
「州侯付きの杖身でなら、暫く雇われてやっても良いぞ」
「ありがとうございますっ」
 虎嘯に向けた笑顔は、外見相応の可憐で無邪気な喜びに満ちているように見えた。だが、州侯を拝命するほどの者だ。しかもこの建州にである。容赦なく人を使うこと、麦州侯時代の冢宰以上と後に噂される事となるのだが、今の笑顔にはその片鱗もない。
 三日後に州城に出仕することを確約すると、虎嘯は昇黎を送り出した。この舎館の後始末もある。拓峰の時とは違う意味で、仲間が集まり結束し、いつの間にか鉄環党など と言う、匪賊のような名前の集まりの頭目に押し上げられていた。それの今後のことも ある。三日で何とか成れば良いがと、虎嘯は昇黎の背中を見送りつつ思った。
 ――それにしても、昇紘の娘が州侯で、牧伯が呀峰の息子か。相変わらずみたいだな 、陽子は。って事は、夕暉の相棒は靖共の息子か娘だったりしてな。
 愉快そうに笑った虎嘯は、舎館の中に戻った。
 三日後。約定通りに出仕した虎嘯は、先日以上に慌てることになった。州城の外殿の どこかに通されるのかと思っていたのだが、案内されたのは、後宮にある小さな庵のような場所だったのだ。その上、案内役の男は扉を開けずに下がってしまう。しかたなく 自分で扉を開けて中に入った瞬間、紅い物に視界を塞がれてしまった。懐かしい匂いが する。虎嘯に飛びついた者は、首にぶら下るようにすると、頬を合わせて耳元に囁いた 。
「もう、わたしの我慢も限界だ」
 忘れようも無い、陽子の声だった。
 言葉も無く、陽子をぶら下げたままの虎嘯は、ただ立っていた。
「大僕を辞して野に下ると言う虎嘯を。その気持ちを汲んで許しはしたが、もう限界 」
 陽子は、虎嘯の耳に噛み付いた。
「どんなに会いたかったか」
 大僕として陽子に従い、金波宮で陽子を守って来たが、朝も落ち着き、堯天の街が賑わうようになると、虎嘯は何故か虚無感に囚われていた。仙としての長い人生をこうし て暮らすことに罪悪感が感じていたのだ。元々只の舎館の主であった自分が、郷長に、 延いては自国に対して弓を引いた自分が、ここにこうして居ても本当に良いのだろうか と。自分のあるべき場所は本当にここなのだろうかと。
 あまりに考え込んだために、知恵熱を出して、陽子を心配させもした。そして出した結論が、大僕を辞し仙籍も返上して野に戻り、自分を必要としてくれる場所に居ようと 言うことだった。陽子を説得するのは、骨の折れる仕事だった。言葉よりも身体で、腕 力で語ってきたのだから仕方が無いと言えるかもしれない。それでもそうすることが、 自分のこの先に役立つに違いないと思った虎嘯は、精一杯の言葉で陽子に語りかけた。 弁舌で人を納得させられるものかと思ってきたのだが、それも必要なのだと自分に言い 聞かせながら。
 夕暉とも連絡を絶ち、独りで慶東国を彷徨った。落ち着いた先は、国中で最も立ち遅れた建州だった。そうして、金波宮を出てから二十年が経った。張りのある体躯はそのままだが、顔には歳相応の皺が刻まれ、髪にも白いものが混ざるようになっていた。まだ陽子が自分を想ってくれているとは思ってもみなかった。目の前の陽子は、当たり前 だが出会った時と同じ若々しいままだ。そしてその翠眼も、前を見て突き進む覇気もそのままだった。鼻先にある陽子の表情は嬉しさと戸惑いを混ぜたものだった。目には、 今にもこぼれそうなほどの涙が溜まっていた。
「どうして」
「馬鹿」
 陽子がそう言った瞬間、左の目から涙が毀れて頬を伝う。
「鉄環党なんて、捻りの無いネーミング使うからバレるんだ」
「……ねぇみんぐ?……ばれる?」
「所在が判ってからだって我慢したんだ」
「陽子」
「虎嘯が出て行ってから、どれほどわたしが貴方を必要としていたか。嫌と言うほど思い知った」
 虎嘯は黙って陽子の翠の目を見た。右目から毀れた涙が、頬を伝う。
「いつか虎嘯を失う恐怖に耐えて、虎嘯に哂われないような国にしようと、必死で頑張ってきたんだ」
「でも、もう限界」
 両腕に力を込めた陽子は、虎嘯の右の鎖骨に噛み付くようにして嗚咽を堪えていた。
 漸く、両手を動かした虎嘯は、陽子を抱え上げた。
「虎嘯が居なくなるのが怖くて、失道しそうだ」
「おいおい。物騒な事を言うなよ」
 陽子は、更に力を加えて虎嘯を抱きしめた。
 陽子を抱えたまま、虎嘯は庵の奥へ進むと、思った通りの間取りで、天蓋の付いた臥牀があった。そこに腰を下ろした虎嘯は、膝の上に陽子を載せ、横抱きに陽子に手を回した。
「ちょっ……くるし……ぃ」
 甘い声で、陽子が言った。
「すまねぇ」
 虎嘯が腕の力を緩めると、陽子は顔を上げて、額を虎嘯の額に当てる。鼻先を擦り付けるようにしながら、虎嘯の目を見つめた。
「俺はまた仙に戻ることにした。州城に来いと言った昇黎の眼が、陽子の眼のように 思えたんだ。人にしか出来ない事もある。だが、それには限界がある。仙にしか出来な い事もある。だが、それにも限界はある。今の建州には、仙に出来ることをちゃんと出来る奴が必要だ。だから」
「居場所が見つかった?」
「ああ。これから暫くのな」
「その後は?」
「陽子の尻の下」
 そう言って虎嘯は、にっと笑った。
「今みたいに?」
「そうだな」
「では、虎嘯の膝の上は、わたしの場所なんだな」
「ああ。そうだ」
 虎嘯に廻した腕を解いて、膝から降りた陽子は、臥牀の上で大の字に寝転がった。
「来て」
 そう言う陽子の眼に、虎嘯は吸い込まれるような気がした。
「だけどなぁ」
「今は他の女の事は考えないで」
 思わず虎嘯は苦笑いを浮かべた。
「鬚生やしたんだね」
「無精鬚の成れの果てだ」
 手を伸ばした陽子は、虎嘯の鬚を撫でた。
「すこしチクチクするな」
「嫌か?」
「……少し。頬摺りすると痛い」
 虎嘯は、声を上げて笑った。闊達で、昔のままの虎嘯だと陽子は思った。暫く虎嘯の目を見ていた陽子は、虎嘯に背を向けて、丸くなるとくつくつと笑った。
 その背中に身体を沿わせた虎嘯は、そっと陽子の紅い髪を撫でる。背中を震わせて、 陽子は笑っていた。二・三度撫でるうちに、陽子が寝返りを打ち、虎嘯に向き直った。
 ゆっくりと顔を寄せた虎嘯は、啄ばむ様に唇を合わせた。
 「虎嘯」「陽子」
 同時に名を呼び合った二人は、お互いを抱きしめあった。天蓋から下がった紗を揺らす風は、爽やかな秋の香りがした。


…昇天。
文句なし。悔しい位、かっこいいお話ですわ。
タイトル考えてとお申し出がございましたが。だから、私は、タイトルつけるの苦手なんですって。
でも、なんとしても、この話は貰いたいので考える事数時間。。。
で、出したのが「鎖」
相変わらずセンス、ねぇ〜。orz
でもね、でもね、これを読んで最初に思った感想が 「そして、鎖は繋がれた」だったものですから。
次世代キャラの登場。長い時の中で、因縁という鎖が絡みに絡む。そして、虎嘯自身も、一旦断った陽子という「鎖」だったけど、結局は断ち切られなかった。みた いな。ゴメンネェ〜griffonさん、気の利いたタイトルつけれなくて。でも、結構気に入ってるかも。
背景も鎖をどうしても使いたく。探すのに手間取ったら、こんなに遅くなりました。頂いたのは、九月九日に間に合わせてだったのにぃぃいい。

さて、この話の語りはまだ続くんですけど。(お願い、くどいけど言わせて)
オッサマニア(オッサンマニア)としては堪らんのですよ。このいい具合のくたびれ方。そして、完全な二枚目キャラじゃないですこと、虎嘯っっっ。
でもって、出てきた次世代キャラが、又魅力的なんだ。これさぁ、夕暉と昇黎の出会い編「時とその人の心根で、蟠りは消えるのかもなの巻」も書いてくれないかなぁ〜。とか、興奮の私はドキドキしながら思うのでした。

そして、何と言っても今回は虎嘯×陽子!!!

しかも、がっつり男女の色気ムンムンな、その台詞のやり取り、いちゃいちゃモード。
渋かっこいいよぉぉおおお。虎嘯が、虎嘯が。そして、陽子が小粋で素敵。ちょっと、こなれた感じの女性って言うのでしょうか。とにかく、私が、悶えて仰け反る、あらゆるツボを、ポンポイントで突付かれて、正直気持ちよすぎて疲れました。

こ、これがねぇ〜。私にプレゼントなんて。
ああ、記念日万歳。と言いますか、griffonさん万歳。
本当に有難うございました。



2006.9掲載
素材提供 TinMoonさま
禁無断転写