三老師と陽子 越前屋玉三郎様 作
雁州国関弓山、雲海の上にある玄英宮はいつもと様子が違っていた。それは数ヶ月ぶりで王が執務をとっていたからである。更に奇異なのは、未裁可書類の山に囲まれながらも、尚隆が上機嫌でいることだった。
それは、この日に隣国の女王が訊ねてくる予定になっているからである。そして、そう仕向けたのが尚隆本人であり、なにやら含みがありそうだったのだ。
沢山の書類を下官達に持たせ帷湍が執務室へ入ってくる。
「どうだ、あの莫迦はちゃんと仕事をしているか」
「相変わらず機嫌良くこなされてますよ」
いつもこれだといいのですが、と、朱衡は片眉を上げ端麗な苦笑を漏らす。
「どうせ、景王君が来るまでだ。それまではこき使え」
帷湍が顎をしゃくると下官達が書類を机に積み上げた。
朱衡はちらりと視線を尚隆に投げる。相変わらず嬉々とこなす様子に思わず口角を上げた。帷湍と視線が合うと、二人は小さく頷きあう。
「知らぬが仏だな」
ぼそりと呟く口元が笑っている。
「帷湍、声が大きいですよ」
朱衡の双眸も笑みを隠しきれないでいた。
「なあに、上機嫌なヤツには聞こえぬであろう」
* * * * *
「何だ、楽俊をよこせとな」
横柄な態度で酒杯を突き出す尚隆に、酒を注ぎながら陽子は苦笑を刷く。
「いいえ、楽俊の奨学金返済額を実費にして欲しいと、申し上げているのですが」
ちゃんと訊いてくださいね、と陽子の双眸は一閃する。
「だから、それが払えないから雁に出仕するのであろう。どう違うというのだ」
尚隆は酒杯を一息で空けると、口角を持ち上げた。
「慶の官吏になるのなら、規定の費用を払うことだな」
支離滅裂な言い様に陽子の眼がすっと細くなる。
「一つだけ伺いたい」
「何なりと申してみよ」
「どうして、学生一人の四年間の奨学金が、州の財政に匹敵するのですか。いくら見積もったところで、一年間官吏一人雇えるかどうかでしょうに」
尚隆は堪らないと言った風情で陽子を見る。
「怒った顔も、また一興だ」
どうだと、陽子に酒を注ぐ。仕方なしに、陽子は酒杯を受ける。渋々口にする陽子を眺め、尚隆は酒臭い笑みを吐いた。
「何も法外ではないぞ。大学は国の貴重な税を割いて運営されているのだからな。いわば国の費用を注ぎ込んで要請した官吏予備軍だ。いくら事情があろうが、おいそれと他国に攫っていってもらっては困る。故、そうなったまでのこと。第一、雁では州の財政に匹敵なぞせん」
酒杯を口にしながら尚隆は陽子の顔色を窺う。
「そりゃそうでしょうよ」
陽子は冷たい一瞥を尚隆に向けた。
暫く困り果てたように顔を曇らせていた陽子が、一つ息を吐くと破顔した。
「なら、お支払いしましょう」
「おい、何も無理することはないのだぞ」
「無理をさせようというお方が、何を言うのですか」
鼻先で陽子は笑う。
「まあ、待てと言っておる。そんなに短絡的に物事を考えるものではないぞ。どうした、陽子らしくないではないか」
まさかの言に尚隆は慌てた。
陽子は屹度、尚隆を睨む。
「俺の嫁になれば、楽俊などくれてやると言ったではないか」
「何を血迷いごとを」
陽子は切って捨てた。
「私には、伴侶に求める条件が三つあります」
「……ん」
「先ず、その一。以後妓楼に通わないこと。その二、常に行動を共にとれること。その三、半日以上無断で側を離れないこと」
陽子は酒杯を空け、勢いを付けて尚隆に言い放った。
「この条件を全て呑めますか」
「陽子、お前にも政務があろうが俺にもある」
額にしわを寄せる尚隆に、陽子はにやりと口元を綻ばせる。
「だから無理だと申し上げている。お分かりでしょう、聡明な稀代の名君」
「ふん、楽俊ならその条件が全て符合すると抜かすのだな」
陽子は吹き出した。
「何を勘違いなされるのか。伴侶と楽俊とは別の話。伴侶の条件に見合う者など慶国にはごまんとおります」
憮然とする尚隆に陽子は畳み掛ける。
「ですから、楽俊を手に入れて、異様に高い奨学金を全額返済しましょうと言っているのですよ」
「それで慶は大丈夫なのか?」
「何と、今頃心配ですか?」
冷たく言い返す陽子の真意が分からず、尚隆の思惑は疑問に支配されていく。
「大丈夫な訳ないじゃないですか。膨大な金額をたった一人の官吏のために遣うのですよ。未だ貧しい慶国で。それを知ったら、官の妬みと民の恨みは凄まじいでしょうね」
「それでも、やると抜かすか」
陽子は尚隆の空の酒杯を満たす。
「以前、そうですね。私が登極を迷っていた頃、延麒が言っていましたよね。王は何をやってもいいと、責任をとる覚悟さえあれば、と!」
にっこりしつつ、双眸から放たれた冷気の刃は尚隆を襲う。
思わず尚隆は目を見開いたまま固まった。
「数年も経たない内に天命を失うでしょう。未だ雁国にいたまま帰国してない荒民も沢山いますが、五年もしないうちに慶は斃れ、もっと多くの荒民が押し寄せるでしょうね。ですから、その時はよろしくお願いしますね」
なおも微笑む陽子に、尚隆は意識が空回りする。その論理について行けない。どう答えたものか、逡巡しっ放しになっていた。
「よく考えてみてください。そうなったときの雁国が抱える費用の総額を」
尚隆の背中はもはや汗の洪水になっていた。陽子の言ったことがはったりで済まないことは、少なくないつきあいでよく分かっている。このまま行くと莫大な費用がかかり、治安は著しく低下することは、火を見るよりも明らかであった。
尚隆が苦虫を潰して呻っていると、陽子は涼しい顔で呟いた。
「楽俊を見逃すのと、どちらがお得ですか?」
刺すような眼光をものともせず、陽子は麗しく微笑んだ。
「不毛な色恋沙汰より、経済の問題だと思いますが」
「……ん、経済。……はて」
脳裏の何処かで、ちくりと棘が痛む。
──これは本当に、陽子だけの考えだろうか……。
* * * * *
一人の官吏が入室してきた。尚隆に書類を届けに来た朱衡である。恭しく拱手し顔を上げたとき、尚隆は瞬時に理解した。こいつだ。
「おい、朱衡。お前、企んだな」
「はて、なんのことでございましょう?」
何処までも涼しげな白皙に見据えられ、かえって尚隆は詰まる。
「ただ、な、……何だ」
「はっ」
朱衡は一段と覗き込んできた。
「だから陽子に入れ知恵したのかと、問うているんだ」
尚隆は一気に捲し立てる。
朱衡は一頻り怪訝な表情を浮かべていたが、頸を一つ振ると口を開いた。
「まさかとは思いますが、主上、折角呼び付けてまで臨んだ交渉に、失敗なさったと言うことは、よもや御座いませんね」
図星を指され尚隆は、今度こそ朱衡の暗躍を確信した。
──陽子を嫁にすると言ったら、こいつ等大反対だったからな。
◆
書類を渡し、朱衡が退室しかけて、ふと振り返った。
「主上、そういえば報告がまだで御座いました」
「なんだ」
「景王君のご教育に、拙等三名が協力しております。慶で手が回らない部分を引き受けました。景王君がお育ちになるのは、雁国の国益にも適いますので」
「俺はなにも聞いておらんぞ」
「いつも、王宮にいらっしゃらないからでございましょう」
しれっと、宣う朱衡には尚隆も言い返すことが出来ない。
「帷湍が経済を、成笙が戦略を、拙目は交渉術をご教授申し上げました」
胡乱な目を剥く尚隆に、朱衡は冴えきった微笑みを残し退室していく。
◆
「有り難う、朱衡、帷湍、成笙。お陰で上手く行った」
溢れるばかりの微笑みを添えて、陽子は一人一人の手を取って礼を述べた。
「でも、本当に良かったのか……?」
小首を傾げる陽子に、朱衡は屈託のない笑顔を綻ばせる。
「あれで、丁度良い薬になりました。我ら雁国官吏一同感謝こそすれ、景王君が危惧されることは一切ございません。ご安心下さい」
恭しく拱手する朱衡にさっと抱き付き、陽子は使令に乗りこむ。目を丸くした朱衡を余所に、陽子は空高く舞い上がっていく。
「今日は忙しいので、また今度、時間を作って来るよ」
その一言を残し、陽子は見る間に空に溶け込んでいった。
◆
秋官府が見えるところまできたとき、朱衡は雲海を見やる。落暉が空を染め抜いていた。左へ視線を移し、走廊より南の彼方を望むと朱衡は呟く。
「あとどのくらいで、金波宮へお着きになるのか」
朱衡は目を細めた。
んふっ、んふっ、んふふふふ… 越前屋様、あたしの好みを網羅した、お祝いをどうも有難う。
これは、越前屋様の作品で私が好きなもののお一つ、「天意の下に」 がベース。
しかし、こちらは打って変わって、尚隆が私好みの二枚目半で 、陽子がかっこよくて。
三官吏が、三官吏ぃ〜〜〜。サラリーマン好きの私は、はぁはぁ、興奮しました。
やっぱり越前屋様って、
この政治間の交渉って言うんですか 、こう言う事を考えるの お上手です。憧れだあ。
確かに法外な額を出したら、慶は一 気に傾くね。 傾いたら雁は大変だね。三官吏はそら、動くね。
もう一つの「天意の下に」が見れたみたいで、頂いた私は相当嬉しかったです。
そして、何より美味しいのは、尚→陽ばかりか、朱→陽を予感させるエンディングにして下さった事。
んっもう、越前屋様vv私の片思い好きな病を、ピンポイントで突付かれましたね。
私がPC部屋の椅子で海老ぞりに仰け反ったのは言うまでもございません。
朱陽って、陽子もしくは朱衡を違和感無く会わせないといけないから、まずそこで頭使うんですよ。
ビジュアルはいいと思うんだけどなぁ。 それをさらっと書いて下さる、越前屋様が好きだ。
楽しいお祝いを本当に有難うございましたvvv
2005.9.掲載
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