もう少し

 陽子は尚隆が指定した茶房に辿り着くと、のってきた趨虞から降りた。店の者は陽子の姿を見ると何も言わずてきぱきと彼女を奥の部屋へ案内する。部屋では尚隆が窓際を陣取っていて、陽子を見つけると柔らかい表情を見せた。
「待たせましたか?」
 陽子がおずおず声をかけると
「そうだな」
と尚隆はくつろいでいた榻にだらりと身を預けたままあっさり答える。一瞬辺りは無音になり、陽子が焦った表情を見た尚隆は
「ただお前を待つのは悪くない」
と悪戯っぽく笑った。
「もうっ」
 陽子はほっとした表情をしたがすぐ軽く口を尖らせた。それを面白そうに眺めてから尚隆は徐に立ち上がった。
「先ずは腹ごしらえからだな。ここの昼餉はなかなか美味いぞ」
「随分とせっかちですね」
 陽子は思わず肩をすくませる。
 すると尚隆はいつの間にか陽子の隣に立ち腰に手を回し微笑した。
「仕事熱心な慶東国の御仁からぶんどった時間は短いのであろう。有効に使わねばな」

 昼餉を終えた二人は、それぞれの趨虞に跨がり尚隆の案内で雁州国のとある場所へ向かう。そこは小高い丘になっていて、眼下には穀物の穂がたなびいていた。
「こうして整然と整えられた田畑を見ると壮観です。……とても綺麗だ」
 陽子は思いっきり背伸びをした。
「そう言って貰えると、苦労して土地整備を取りまとめている遂人が喜ぶであろう」
 陽子の背後よりのんびりとした尚隆の声が聞こえた。彼は趨虞に好物を舐めさせていた所であった。その隣では陽子ののってきた趨虞が、足を曲げ腰を落としうつらうつらと瞼をしばたかせている。陽子はくるりと向きを変えると尚隆のいる所へと戻っていった。そして自身の趨虞の五色の毛並みを撫で整える。やがて趨虞はゆっくり瞼を閉じ静かな寝息を立て始めた。
「ここはいい風が吹くのだ。くつろぐには丁度良い。これまで誰かに邪魔された事もないしな」
 尚隆はごろりと横になると両手で手枕をし頭を預けた。

 ふわふわと温かい風が尚隆の頬を擽り、瞼の裏にぼんやりとした光がちらついた。耳に心地よい声が遅れて自身の脳に到達した尚隆は、明瞭ではない意識の中薄目を開けた。映し出されたのは陽子が尚隆の様子を覗き込む姿。急速に頭の靄が晴れていった尚隆は、瞬きを数回繰り返し重い瞼をゆっくり開いた。
「……どれ位眠っていた、俺は」
 掠れた声を発すると
「どれ位でしょう?」
と陽子は柔らかく笑った。
「もう帰らねばならぬか?」
 覚醒したばかりの気だるげな身体を起こし尚隆は質問する。
「……そう、です、ね……」
 陽子は笑顔の中に少し困ったような表情を見せた。すると尚隆は至極悔しげな顔をする。
「しくじった。もっとお前と共にする時間を楽しむ筈だったのに。時間というのは無常なものだ」
「そう……でもなかったですよ」
 陽子の意外な返答に尚隆は目をしばたかせる。
「ここは静かで居心地がいい。久しぶりにゆっくりする事が出来ました。この所仕事を詰め込みすぎたから」
『あなたに会う為』という言葉は胸の奥に隠して陽子は静かに話す。尚隆は眩しそうに目を細めた。
(ゆっくり出来た……か。確かにそうかも知れぬ。思えばいつになく俺は無防備に眠っていた。こんな事随分ない。それが自然出来たのは……)
「……お前の前だから、か?」
 ぼそりと尚隆が呟くと陽子はきょとんとした面持ちで尚隆を見つめ返していた。尚隆はふと笑みを零すと腕を伸ばして陽子の細い腕を掴んだ。小さな悲鳴が飛ぶのも構わずに、陽子を引き寄せ手繰り寄せる。尚隆の胸の上に落ちた陽子の身体を彼は力強く両腕で捉え、降ってきた幸せを閉じ込めようとする。突然ぶつかった衝撃に息を呑んだ陽子だったが、身体に伝わる温かさに心色めく。
「あっ、えっと」
 戸惑う陽子の耳元に、愛しい男の甘声が響いた。

――もう少し。俺の事だけ考えていろ――

(了)

松山瑠璃さまのサイト「falling into grace」に差し上げたもの。

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2006.2.初稿
素材提供 clefさま 
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