桜写し

くつくつくつくつ……
 静かな音を立てて大釜に深い茶色の液体が煮詰められていた。中には小枝がいくつか入っていて、独特の樹木の煮立った香りが辺りに充満している。
 ここは雨潦宮。後宮に一番近い食事の支度を行う所である。いくつかある一室を雨潦宮の主鴨世卓たっての希望で、太宰(たいさい)(天官長)に頼み、ここの用具を食事以外の事で使用する事を許して貰った。太宰もいい加減世卓の行う行動に慣れてきたようで、僅かな戸惑いは見せつつも一応は何も言わない。

くつくつくつくつ……

 窓に目を向ければ、よく整えられた畦と菜園。後宮より外は流石に人目がついてそれは国の威信に関わると官吏が満場一致で止めに入ったが、後宮より中は王以外めったに人が入らない事をいい事に世卓が着々と畑や果樹園の開墾を進めた。
「整然と整った田畑程、美しいものはないと俺は思うのだけどなぁー」
と、ひっそり彼が呟いた事は誰も知る吉もない。

くつくつくつくつ……

 この大釜を火に掛けて既に六日が経過している。と言っても、世卓が午後の政務の合間に細く火に掛け大きな桜の枝で根気よくぐるぐるかき回す。そうしてじっくりと色素を抽出していた。煮出し用に大釜にたっぷり張った水も、すっかり少なくなり濁った茶色で小枝もよく見えないくらいである。
「さて、そろそろいいかな」
 世卓は一人呟くと、用意した白礬(はくばん)(ミョウバン)という粉を混ぜいれひと煮立ちさせる。そして別の大釜を近づけようとした。
 傍にいる下官が慌てて駆け寄り、
「私がやりますから」
と、煮えたぎった大釜を掴もうとすると、
「いいから、いいから。これは私が勝手にしている事だから」
と、にこにこ笑みを浮かべ世卓は下官の手を静止する。そして、いとも簡単に重い大釜を持つと、別の大釜に煮汁をこす様に注ぎいれた。
「しかし、万が一、お怪我される事がございますと……」
 おろおろとするばかりの下官に、ふいに柔らかい声が降りかかった。
「まぁ、お忙しそうにしていると思えば、何をしていらっしゃるのでございますか?」
 はんなりと笑みを零しているのは、日の光のような金糸の髪を持つ者。そこだけ華やいだ煌きが漂い、思わず目を細めてしまう。
「台輔……」
 世卓は廉麟の姿を確認し、ほっと心に暖かいものが広がった。
 少し前、慶東国からの呼びかけで廉麟は暫く世卓の元を離れている。その昔、雨潦宮に使節にきた戴極国の麒麟を捜索する為であった。結果、戴極国の麒麟はかなり弱った状態だったが何とか異国より奪還する事が叶ったという。
 世卓はそれを喜び、何より廉麟が無事に戻ってきてくれた事を喜んだ。しかし廉麟は直ぐに堪った仕事をこなさなければならず、二人はゆっくりと話をする事も出来なかった。廉麟にとって今日は、久しぶりに世卓と話が出来る纏まった時間が取れたという事になる。
「もう、お勤めはいいのかい?」
 少し拗ねたように、しかし顔はやはり笑顔で世卓は廉麟に声を掛けた。
「ええどうにか。他の者がよく働いてくれたので、思ったより早く目処が立ちましたわ」
 廉麟が静かに世卓の傍に近付くと、大釜の中を覗き込む。
「熱いからね。気をつけないといけないよ」
 世卓はそう注意を促した。彼は立ち上る湯気に蒸されているのか、自身の一連の動きによって身体が温められたのか、一層顔色もよく、首にかけた手巾(てぬぐい)で、流れ出る汗を押さえている。
「本当に深い深い茶色ですわ。主上は今から何を為さるのでございますか」
 すると世卓は満面の笑みをその顔にたたえるとこう廉麟に告げた。
「桜の色を。桜の力を、写しとろうとしてるんだよ」


「桜を写しとる……」
 いぶかしんだ表情を見せる廉麟に、世卓は大きく頷く。
「ほらね桜は直ぐに散ってしまうでしょう。それを長く楽しみたいのであれば、染めるのが一番かなと思ってね」
 得意げに語る世卓に、廉麟は興味深げに目をくるくるさせ質問を投げた。
「絵を描くでも押し花でもなく……でございますでしょうか」
 待ってましたとばかりに、世卓は子供の様に弾んだ調子でそれに答える。
「そう、桜染だよ」
「しかしながら主上。花が開く前に折ってしまっては折角の小枝がかわいそう」
透き通るほど白い自身の指先を口元にあてがい、聊か残念そうにしゅんと俯く廉麟を見た世卓は慌てて断わりを入れた。
「ああっと、誤解しないで。花の開花に余分だった枝だけ剪定したものを、使用しているから。そして、それを桜染で昇華してあげるんだから」
 小枝を取り払った煮汁に、世卓は徐に白い絹を浸した。
「さぁ、写しとるよ」
 既に別で用意しておいた、白礬を入れた溶液の入った(たらい)に染まった布を浸す。箸で洗うように泳がせている所を、廉麟が目を輝かせて見ていた。
「いよいよ出来上がるのでございますね」
 逸る期待を押さえようと、胸に手をあて大きく深呼吸をしている廉麟に、世卓は柔和な顔を見せる。
「いやまだだよ。これは絹に桜の色を安定させる為の過程なんだ。それにこれに浸すと、格段に美しくなるらしい」
「……らしい、とは」
「うん、実際ね、やってみるのは初めてなんだ。どういう風になるか、ちょっと緊張している」
世卓の動きは何処か慎重で、しかしこの一時を楽しんでいるように思えた。
「それにしても綺麗ですわ。茶色の液体からこんなにも美しい色が染められた」
 見れば、絹は煮汁を吸い込み、淡い桜色である。
「これを清水で洗って、又煮汁に漬け込んで、新しい白礬の入った盥に浸し、清水で洗う。これを何回か行って好みの濃さにするんだよ。っと台輔。そこにある清水の入った盥を近づけてくれるかい?」
 はい―。そう言って廉麟は別の盥を世卓の近くに引き寄せる。
「乾かすとね、もう少し桜色が薄くなるらしい。だから、今は濃い目に仕上げないとね」
「主上。次は私にやらせて下さいませんでしょうか」
「ああいいよ。でも、くれぐれも、熱いから気をつけて」


 染までの肯定を何回か終え、絹は風通しの良い所に干される事になった。出来上がりを待つ間、二人は別の路亭(あずまや)に移動すると下官が用意した茶を頂きながら休憩する事にした。茶は十分に冷えた物が用意されている。その柔らかな清清しい香りが喉元を心地よく通り、それにほっと癒されつつ廉麟は口を開く。
「それにしても桜木を煮出した灰汁が、あんなに美しい染料になるなんて。私は桜染は桜の花弁で行うものかと思っておりました」
「桜の花弁は確かに美しいね。でも、花弁だけでは色は出ないんだ。花開いた小枝も駄目。あれはね、芽が膨らんだばかりの物が好ましい」
「芽が膨らんだばかりの枝……」
「そう。見た目にはね、暗くて硬い皮に覆われているけど。芽が膨らむ事こそが、その桜木に力が十分みなぎっているという事。桜の花弁の色はね、木全体で作っているんだね。その色は寒い冬を耐えながらじっと、じっと、木の内側で春を待つ」
 世卓は考え深げに丁寧に丁寧にその事を話すと、茶器に注がれた茶を一気に喉に流し込む。下官が静かに、二人に別の茶を用意する。それを二人はぼうっと眺めながら無言の時間が過ぎっていった。下官が奥に控えると、世卓は新しい茶で口を湿らせるとゆるりと廉麟に話し出す。
「台輔が、捜索の為いないという事もあったから。まだ芽が膨らんだばかりの桜木を見ていたら、あの麒麟()が気になって。絹は、あの麒麟()を思い作りました」
「……泰麒をお思いになって」
 廉麟が柔和な面差しで聞き返すと、首を縦に振って世卓は答えた。
「――俺がお会いした時は、まだあどけないお子だった。小さな苗木のような。まだ根を張り落ち着く事に戸惑い、水をやり過ぎれば根腐りし、あげなければ枯れていってしまう。誰かが丁度いい距離で見守ってやらないといけないお子でした」
 廉麟は神妙な面持ちになる。
「台輔からあの麒麟()の現在の様子を聞き、直ぐ君の事を心配した。どう君を気付けてあげればよいか俺にはわからなくてね。俺は気の利いた事は言えないから」
「主上……」
 廉麟は世卓のこの告白に目を丸くし、当時を振り返る。蓬莱から戻ってきた泰麒は、外見は身の丈が伸び、面差しも、あどけなさが取れたように思えた。が、何より驚いたのは、痛々しくも青ざめた表情。そこに明るさは微塵もない。
(どうして、この麒麟()ばかりがこんな事に)
 廉麟は硬く目をつむっている泰麒を見るにつけ、寂しさに哀しさに胸焦がれて―。戴極国の将軍、字を李斎と言ったか。その女性が泰麒に会わないのかと問うた時。主の元に早く戻らないと寂しがるからと、少々強がった言い方で誤魔化してはみたが、会いたいと切に願ったのは、誰であろう廉麟が主、廉王鴨世卓であった。
 どうという事ではない。
 ただ、世卓の傍に――戻りたかった。
 廉麟が意識を戻し、(いつく)しむ様に世卓を見ると、彼は照れくさそうに頭を掻きながら話を続ける。
「そんな時、桜染の事を思い出しだんだ。これなら台輔が笑ってくれるかと思って。ねぇ、台輔。桜木は、冬の時期に木全体で美しい花の色を作るんだって言ったでしょう?戴極国も今、その時期なんじゃないのかな。この漣極国とは比べ物にならない位極寒の中で。阿選とか言う乱心者が牛耳る厳しい状況の中で。それでも美しく花開く未来の為に」
 世卓は廉麟の手を取り、その手をぽんぽんと軽く叩き言い切った。
「ひっそりと、しかし力強く……溜め込んでいるのさ」


 廉麟は世卓の暖かさが、握った手から伝わる様で、叶うなら直ぐにでも頬擦りしたい衝動にかられているのを押さえるのに苦労した。
(そんな事をすれば、きっとこのお方は殊更驚き固まってしまうでしょうから)
 そう考えてしまう自分が可笑しくて。
 そう思わせる世卓の人柄に癒されているのが心地よくて。
 くつり、笑みを零すと、世卓ははっと頬を赤らめ、急いで握る手を手放した。
「そろそろ、乾いているかもしれない。台輔、見に行ってみようか」
「はい」
 慌てて椅子から立ち上がる世卓の、適度に筋肉のついた広い背中が(いとお)しい。その傍らに控える事の出来る我が身の、なんと喜ばしい事か。
(泰麒の事が気がかりで心沈む事もあったけれど。主上の思いのこもった桜の贈り物で、元気が沸いてきたようだ)
「どうしたんだい。にやにやして」
 絹が干されている場所まで向かう途中。廉麟の表情が終始柔らかく微笑んでいる事が気に掛かり世卓は問うた。すると廉麟はふと立ち止まり世卓に向き直るとこう告げる。

「桜の力が私にも『うつった』ようで。すべてはこれ主上のお陰でございます」
 その笑顔があまりに輝かしくて、眩しくて。
 世卓が一瞬息を呑んだ事は、彼だけの秘密である。



このお話は「奏月」様主催の「十二国桜祭り」に参加させて頂きました。
というわけで、十二国オフィシャル一押しCP(?)漣主従でございます。原作でも二人のやり取りは読んでいて微笑ましい。
が、私がそこから妄想すると、ただのバカップル?!某サイトの世卓はもっと男前だったよぉ〜。
さて、「桜をテーマで」と「十二国桜祭り」の開催者縷紅さんからお誘いを受けて、私は直ぐ桜染をテーマで使おうと思ったのでした。しかし、私は染物は全くの素人で、又(そう又;;)雰囲気だけで逃げてます。
そして今回は、誰に、何処で染めさせるかが問題でした。いろいろ候補が挙がり考えた結果。
自ら汗水流して、根気良く、しかも喜んでおこないそうなのは、世卓かなぁ〜と思ったら、何となく捏造が進みました。
後は、後宮も広いから、簡易でも台所みたいな所はあるでしょうと過程してみたり。大釜も食事以外で使う事に、官吏は正直戸惑うんじゃないだろうか、しかし世卓なら、王様だから一応は何も言わない(呆れているかも知れないけど)と思ってみたり。そんなこんなで、如何にかこじつけてやりました。結果、連主従がこのサイトに増えたのは、嬉しい限りです。

「十二国桜祭り」からご来場の皆様。こんな偏狭の彼方までようこそお越し下さいました(平伏っっ)
もしお気が向きましたら、もう少し遊んでいって下されば、大変嬉しゅうございます。本宅サイト「酔訛楼」
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2006.4初稿
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