予測不能の男
尚隆は臥牀から重い身体を起こすと、前方で単衫を手早く整える女をぼぅっと眺めていた。
(あぁ昨日は妓楼に寄ったのだな。酒を飲んで そして いつものように……)
そこまで昨日の記憶を辿りながら、それがひどく違和感のあるものに思えてきた。
(待てよ。今日は泰王即位の礼があったはずだ。俺はそれに公式に招かれて戴国にわざわざ出向いたんだ。……それで昨日あの妙なヤツと酒を飲む羽目になったのだ。俺も立場上奴を無下にするわけにはいかず、付き合ってやって、それで……それで、どうしたんだ、俺は……)
見渡すと、そこは妓楼のような、下手に派手な造りは一切なく、簡素ではあるが、しかしどれをとっても、上品で立派な調度品が設えてあった。記憶を辿るうち、尚隆は、得も言わず冷たいものが背筋を伝っていくのを
感じていた。
(なんだか ひどく まずい事態になった様な 気がする)
それを決定付けるように前方の女――否 男がこちらを振り向いた。
「早く用意をしないと間に合わぬがよいのかえ」
妖艶な笑顔でゆっくり喋り出したのは、範国の王 呉藍滌。
「わらわは先にここを出る。一緒に出て 余計な噂を立てられるとそなたも困るであろ。まぁ、わらわはそれも面白いと思うておるが」
口をあんぐりと開けたままただ凝視する事しか出来ない尚隆に、藍滌は尚も告げる。
「しかし、一度ゆっくり話したいと思うておったが、それが叶って本当に良かった。そなた、なかなか見所があるようじゃ。もう少し着る物の趣味を考えると良いが。なにより昨晩のそなたはそれはそれは美しかったよ」
そう言って、くつくつ笑う藍滌を見て、尚隆は大いに慌てた。
(間違いない。俺は酒に酔って事もあろうに奴になにかしたんだ)
「おい、ちょっと待て」
言うが早いか臥牀から飛び起き藍滌の懐をつかもうとする尚隆は、下腹部に鈍い痛みを感じ転げ落ちてしまった。すっかり衣装を調えた藍滌は
「やれやれ……」
と溜息をつくと、傍にあった尚隆の小衫を鍛え抜かれた尚隆の背中にふわりとかけてやる。
「あまり無理はよろしくないであろ。そなた受け入れる方は初めてのようじゃったから」
瞬間、尚隆は身体中の血液が沸騰していくのを感じた。
「なにぃー」
(俺が何かしたんじゃない。奴に俺がされたんだ)
尚隆は自分に降り懸かった現実を把握するまでに相当な時間を割いた。
今まで尚隆はいろいろな女と浮名を流してきた。蓬莱にいた頃は、女はもちろん傍で仕えていた小姓にまで手をつけていた。
しかし、まさか自分が受け入れる事になろうとは。しかも相手は目の前にいる男だか女だかよく分からない者。
その日の尚隆は、茫然自失となりながら、泰王即位の礼をこなす事になる。
それから何年かの間に、尚隆の周囲でもいろいろな事が起こり、その度に尚隆は賢帝
賢帝 と持て囃され、いろいろな所に担ぎ出される事になる。いよいよ嫌気がさしかけた頃、慶に偽王の疑いあり、新王は胎果の生まれらしいという報告を聞く。
尚隆は今までとは違う胸騒ぎを覚え、自ら慶に赴く事にした。
「胎果の女王って所が良かったんだろうよ。誰か あいつを止めろよ。全く 相変わらず
好色漢なんだから」
そう尚隆の半身 六太が、雁の官吏達にぼやいていた事は、尚隆は知らない事である。
確かに真の王である陽子は、荒削りだが匂い立つ位の王気に満ちていた。人を惹きつけて放さない魅力が陽子にはある。
だから 当の本人が、自信がない あちらへ帰りたいと言っているのを聞いた時は、平静を装うのに必死だった。心では恫喝してでも
玉座に座らせたい。いや、あちらに帰らせたくはないと 言った方が正解だろうか。しかし無理やりでは、陽子にやらされているという
不満の心が残る。それでは意味がない。ここは 陽子に決めさせなくては。ただし
ここに残るしか道はないのだと誘導させるように、慎重に。
尚隆の狙い通り、陽子は王になる道を選んだ。さすがにそのように仕向けたという負い目があるからか、尚隆は最初の頃なにかにつけ陽子を気にかけているつもりだった。しかしこの頃は、そればかりではないという気持ちが芽生えている事を自ら悟る。
陽子に会うと心がざわつく。
しかし、これがけして 不快なものではない。
むしろどこか甘く 心地よいもの。
これは、そう、きっと。
そんな事を考える内、ある時陽子から泰麒捜索の手助けをして欲しいという要請がくる。その為には各国の協力が必要だと言う。その陣頭指揮を尚隆にとって欲しいと言うのだ。
すぐに西国の、あの男だか女だか分からないヤツの顔が浮かぶ。あいつとは、あの一件以来どうも苦手だ。
所詮、酒の上での事。お笑い種ですむ筈なのに、納得しきれない己がいる。
なんとか陽子に止める様にと諭してみるのだが、逆に脅されてしまい、結局引き受ける事になる。
「これも惚れた弱みだろうか」
そう尚隆はひとりごちりながら、各国に協力要請の報を送る。
(出来る事なら、あいつと直接一緒に、 仕事をしたくはないのだけれど……)
「なぁ、あいつがなんでこっち担当なんだよ」
そうぼやく尚隆に対して、六太は手をひらひら振って答えた。
「知らねーよ。なんでも戴国の将軍を 慶で預かっているって伝えたら、こっちに来るって聞かねーもん。で、極めつけはこれだぜ」
そう言って 六太は 榻から飛び降りると、手で口元を隠し 声色を少し変えた。
「そんなに嫌なら わらわにも考えがある。延王君とゆっくりお話をした あの日の思い出を、酒の肴に
皆に話してもよいかと そう申し伝えよ」
「しっ!六太!声が大きいだろ」
「大丈夫だって。誰も知りはしないから。しかし お前、完全にあの御仁の手の上で躍らされているな」
そう言って笑いを堪える六太を、いまいましそうに睨む尚隆。
「俺は断じて、あいつの手の上で躍ってなどおらぬわ。だいたい六太お前……」
「さぁて俺は、金波宮の奴等の所に顔でも出そうかなぁーと」
もう笑いを我慢しきれない様子の六太は、いそいそと客堂を出て行った。残された尚隆は、誰に言うともなく
ぶつぶつ不満をもらす。
「本当にあいつとは関わりたくないのだ。だが、他でもない陽子の頼みだから動く気になっているのに。あの野郎、連絡をよこせと言ってもなしのつぶて。どうやって陽子に顔向けしようかと思っていたら、先に慶に乗り込んで来ていると言うではないか。全く予測不能のヤツだ」
「誰が予測不能じゃと」
背後から、今聞きたくはなかった声を聞き、尚隆は殊更慌てた。
「なんだい。そのあからさまに嫌な顔は」
入り口では、美しく且つ上品に着飾っている 藍滌が 妖艶な笑みをこぼしていた。
「お前、雁に来てくれと言ったのに、姿も見せず 消息不明になるとはどういう事だ」
「おや。わらわは わらわなりに 気を使ったつもりじゃが。何でも賢帝と言われる延王君は、何時までもあのように些細な事を
ねちねちと根に持っておいでじゃ。わらわとて、気に障ることは本意ではないからねぇ。慶には少し用事もあったし、この様にさせてもらったよ」
「ねちねち覚えているのは お前の方だろ」
「ほっほっほっ。わらわが忘れる筈がないであろ。あのなんとも美しく甘やかな夜を」
「それ以上言うなよ。言ったら、ただじゃすまないからな」
「おぉ、怖い怖い」
藍滌が首を竦ませると
「座ってもよろしいか」
と、尚隆の返事を待たずに、ゆったりと榻に腰を落ち着けた。
「さて、今回の泰麒捜索の件、そなたの案ではないのであろ」
「だったらどうだと言うのだ」
尚隆もいらいらした気持ちをどうにか落ち着けようと、空いてる場所にどかっと腰を下ろす。
「いえね、そなたにしては なんとも大胆且つ大事業じゃと思うてな。そなたは一方ではおおらかに見せておるが、実は綿密に事を考えておる。この様な途方もない事業は
ようよう言わぬと、わらわは思うておるのじゃが、違うかえ」
心の中を見透かされている様で、尚隆は居心地が悪い。
「……そう……だな。俺では思いつかぬ。これは陽子が……景王が言い出した案だ」
「景王。あぁ、あの娘は良いね」
扇子を口元へ持っていきながら、藍滌は一人含み笑いをもらす。
「あの娘は至極の玉の様じゃ。見るものを引き付けて離さない。ともすると惑わしてしまう程の美しさだねぇ」
「まさかお前……」
「おや、わらわは美しいものは美しいとそう申したまで。それにしてもどこぞの誰かは、どうしようもない欲望を、物分りのいい男の仮面で隠しておきながら、一方で止められぬ己を持て余しておる様じゃ」
その言葉に尚隆の肩はぴくりと動く。
藍滌は扇子をゆらりゆらりと仰ぎながら、尚隆の方へ目を向ける。
「それにあの娘の周囲は 想いが交錯し けして穏やかではない様じゃ。麒麟は、主人を手放しで愛していい筈なのに、とらうまに縛られ
どうしていいか考えあぐねておる。冢宰は一見すると柔和で穏やかそうなその下で、主のためならどんな罪も…死をも恐れぬと言いたげな激しい思いに満ちておるわ。そんな中、わらわが少ぅし
かき回して見るのも、面白い趣向じゃとは思わぬかえ」
尚隆は、我慢しきれず藍滌につかみかかろうとした。しかしその前に、藍滌は己の扇子を尚隆の喉下に突きたてた。そしてついと尚隆の耳元でこう囁く。
「その瞳じゃ。そのぎらぎらする熱い眼差しが見れるなら、わらわはどんな事でもしてみせるよ」
(そなたなら、忘れさせてくれるやも知れぬ)
固まったままの尚隆の頬に藍滌は口付けを落とすと、無言で尚隆の客堂を後にした。残された尚隆は、まだ触れられた感覚の残るその頬に
手をあてがい、ぐちゃぐちゃに乱された心を 元に戻すのに必死だった。
(あいつは一体俺を如何したいと思っているんだ。ただの、戯言なのか。なら、今のあの表情は何なんだ。何かを忘れたい。振り切りたいと言いたげな、縋る様なあの表情)
尚隆は天井を見上げると大きく息を吐いた。
(全く、あいつの行動は予測不能で見当もつかぬ。しかも、容易に人の心を掻き乱す。だから俺は……俺は
あいつが 苦手なんだ)
了
こちらは、『蛍光石』を書いた後、Albatross様に「こんな藍×尚は如何ですか?」と、送りつけたもの。原作を読んだ当初から、私の腐れフィルターはこの二人のやり取りに敏感に反応。尚隆が藍滌を妙に敬遠しているのは、何かある。そこから妄想は爆走し、この話が出来ました。
更に、微妙ではありますが、藍滌は『蛍光石』設定を少し引きずってます。「女は抱かなかったけど、男は抱いてたのね」という事で。200年も禁欲生活というのも、藍滌らしくないなぁと『蛍光石』書いている時から思っていて、戯れと割り切って、男に逃げて頂こうという事にしました。
そして尚隆は、陽子も気になる存在ですが、初体験(えっ)の相手、藍滌を、苦手だ避けたいと思っているが、妙に気になる部分もあると言う設定です。つまり私の中の尚隆は、惚れやすい様ですね。
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2004.2.初稿
2005.8.改稿
2008.7再改稿
素材提供 ぐらん・ふくや・かふぇ さま
禁無断転写