開店祝い

 慶東国では、農暦である芒種(ぼうしゅ)が近付きつつあった。芒種とは米の種子、つまりモミを田に蒔く時期の事である。だが、白端の茶と呼ばれる団茶が有名な慶東国では、茶摘の時期という方が馴染みが深い。芒種前後七日間、つまり十四日間の間に摘まれた茶葉は、茶葉に含まれる成分の一つが最も活動し易いのだろう。これで造られた団茶は最も貴ばれている。故に、この頃下界では俄かに忙しく、そして茶を摘む民の口ずさむ鼻歌が、あちらこちらで聞かれる。


 堯天は金波宮。
 一通りの政務をこなし、浩瀚は陽子に本日奏上すべき事をすべて申し伝えた後だった。退出しようとすると、陽子から少し時間を欲しいと呼び止められた。そして王の私室である正寝にいる。本来であれば、ここへ臣下が立ち入る事は出来ない。しかし、浩瀚は冢宰を拝命されてから、ここへ入る特免を賜っていた。初めは、まだ(まつりごと)に不慣れな陽子に、すぐいろいろな事を教えられるようにと、陽子のたっての希望であった。緊急の処置の筈であったが、今では至極当然な事になり、金波宮ではこれが通例になりつつある。
「急に呼び止めて済まない。実は、お前から頼まれていた物を渡そうと思って」
 卓子をはさみ、陽子と浩瀚はお互いの顔を見合わせた。淹れられた団茶の清清しい湯気をぼぉーと眺めていた浩瀚は、はっと我に返る。
「如何した?」
 陽子が尋ねると
「いえ、こうして民がつつがなく農作物を栽培する事が出来るようになったのだなぁと思いまして。今時期は茶摘歌があちこちで聞かれるのですよ」
 浩瀚は穏やかに笑うと、茶をゆっくりと楽しんだ。
「そうなのか。私は生まれた土地でも農業とは無縁だったからな。実際、ゆっくり見た事はないよ。その内、降りてみようか」
「政務をしっかり整えて、皆が納得して送り出してくれるよう、根回しをお願い申し上げます。ここの者は生真面目な者が多い故、主上が居りませんと、すぐ大事になるのです」
 淡々と浩瀚が言うと、陽子は「そうだなぁ」と面白そうにころころ笑う。そして用意していた包みを、卓子に置いた。浩瀚はそれにちらりと視線を向けると、丁寧に礼を述べた。
「お忙しいにも関わらず、無理を申しまして失礼致しました」
「ああ、いいよ。……しかし、浩瀚がこんなにも気に入るとはねぇ」
 その包みの正体は、以前浩瀚に送った事のある菓子である。陽子は軽くお辞儀をして、包みを両手で浩瀚の前にしずしずと差し出した。
「お受け取り下さいませ」
 陽子の仕草が、公人の時とは違う、私的な浩瀚と二人だけの時に見せる可憐な面持ちだったので、浩瀚は知らず、この菓子を、初めて味わった時の事を思い出す。


 浩瀚に渡したい物があると、陽子から貰った物は、深い(つるばみ)(ドングリの古名)色をした、一口で食べれる大きさの菓子だった。
「これは?」
 浩瀚がいぶかしむと、陽子は包みを広げながら説明する。
「ちょっと味を見て欲しい菓子なんだ。少し前から、太宰(たいさい)(天官長)に、私の思い描いている形象を伝え、それがこちらで作れる事は可能なのかと頼んでいた。上手くいけば、この菓子、滋養強壮があるから、何かの備えに非常食として常備できる。だから、この国に広めたいと説明したら、いろいろ尽力を尽くしてくれて。割と、私が作りたかったものに近い仕上がりにはなっている。ただ、こちらの者の口に合わねばいけないだろう。お前は、冷静に分析しそうだし。なぁ、頼まれてくれないだろうか」
「主上のたっての頼みとあらば、断わる理由がないでしょう。かしこまりました。頂くとしましょう」
 そう言って、浩瀚は陽子の手元から、その菓子を一つつまむと、徐に口に運んだ。
「……どう?」
 おずおずとした面持ちで小首をかしげる陽子の姿に、己の心がざわざわ粟立つ。それを浩瀚は淡々とした表情で綺麗に隠し返事をした。
「面白い味がしますね。甘いにもかかわらず、ほのかに渋味とこくが口の中に残る。食している際、鼻腔を抜ける独特の香りが又、芳醇でございますね。悪くは、ないと思います」
「そう、お前は気に入ってくれたのか」
 陽子の顔が少々華やいで見えたのが、気のせいではない気がして、浩瀚は静かに笑う。
「主上。しかし、味を見るだけなら私でなくとも良いでしょう。少々苦いとは言え、これは女性に頼む方が、もっと適当な回答を頂けますよ。……そうですねぇ。例えば祥瓊とか」
 それを受けた陽子は少し怯んだ顔を見せた。
「……いや、だから。それは、さ。お前なら、冷静に分析が出来ると、さっき言ったじゃないか……」
 言いながら、次第に罰が悪いと小さくなる陽子を、面白そうに眺める浩瀚。
「……浩瀚、あの、あのね……」
「主上?」
 浩瀚の視線に、ついに陽子は、はぁーと大きく息を吐き出すと、降参したと言わん
ばかりに、両手を上に挙げる仕草をした。
「……実は、太宰には黙っていたんだけど。この菓子にまつわる、蓬莱のお祭りみたいな儀式があって……。蓬莱では、今日好きな人にこれを渡し、想いを伝えるんだ。だから、その……。こうしてお前に改めて伝えるのも悪くはないかと、思って、さ。蓬莱式ならまだ誰にも気付かれないし……」
 言いながら、赤くなる。浩瀚は、ふっと表情を緩めると、陽子の耳元で囁いた。
「つまり今だけは二人だけの秘密と言う事ですね」
 陽子は、浩瀚の甘い囁きに軽い眩暈を感じたが、何とか持ち直すと黙って頷いた。そして
「お受け取り下さいませ」
 照れ隠しなのだろうか。今度はうやうやしく礼を取り、浩瀚に手渡そうとする。その様子がなんとも愛しく、浩瀚はその後陽子と甘い時を過ごた。


 浩瀚が思い出し忍び笑うのを陽子は見逃さなかった。
「何か、面白い事でもあった?」
「いいえ、別に」
 浩瀚は、すぐに表情を引き締めると、その包みを受け取った。
「それ、独りで食べてしまうの」
 何気なく聞いた陽子の言葉に、浩瀚のこめかみがぴくりと僅かに動く。
「……そうですね。……そのつもりですが、何か?」
「あっ、いや、何となく、お前の柄じゃないなぁーと思って。お前が、独りで、
甘いものねぇ……」
「可笑しいですか?」
 浩瀚は聊か強い口調で言い切ると、陽子は
「あっ、ごめん、可笑しくは、ない、よ……」
と言いよどむ。次第に陽子の表情がしゅんとうなだれるのを見て浩瀚は、しまったと
ばかりに小さく舌打ちをし、
「主上からご紹介頂いた菓子です。大事に、大事に、頂きますよ」
 そう言って、一つ口に放り込んだ。そのまま、徐に立ち上がると、陽子の座っている椅子の背後に近付いた。人払いは先程させた。だから、ここに二人しかいない事を十分知っての所業である。陽子の顎に手をかけ斜め上に向かすと、彼は腰を落とし、自身の唇を、陽子の唇に押し当て、彼女の口内に舌を滑り込ませた。
「……ん、ちょっと、……あっ……待って」
 陽子は、殆ど意味を為さない抵抗をしてみせるが、脳内を痺れさす浩瀚の口付け、更に今回は甘さを含む魅惑の味に、すぐ酔いしれた。
「……!……」
 しかしその後、強引に浩瀚から菓子を口移しで運ばれた事に、陽子の瞳は固まった。程よく解けた菓子が陽子の口元に入った事を確認すると、浩瀚は唇を離し、親指で唇を簡単に拭う。
「私からのお礼でございます。この先は又後日」
 陽子の胸が飛び上がるほど、色気のある笑顔を残し、浩瀚は「失礼致します」と、その場を後にした。残された陽子は、暫し呆然としているのだが、後に小さく呟いた。
「……何か、はぐらかされたような気がして仕方がないんだけど……」


 浩瀚は政務を終え王宮を出ると、ある目的地に向かった。重い扉を開くと、薄暗い部屋の中の奥に、一枚板で作られた長い卓子が設えてある。そこには、片側だけ椅子が何脚か用意されていて、既に一人客が寛いでいた。もう片方では、ここの店主である男が客の相手をしている。男は、黒髪を細い紐で一つに束ね、片方の耳は長い金色の鎖が耳朶を貫通して下がっている。彼が作業をする度、その鎖はさらさらと揺れ小さな輝きを見せる。肌の色はどちらかと言えば白く、瞳は髪と同じ黒色。どこか丸みのある不思議な気を、浩瀚はその男に感じていた。
「いらっしゃいませ」
 男が言いながら、一つの蒸し器に心地よく保温された手拭を取り出し、浩瀚に渡す。この様に暖かい手拭を出してくれる店は珍しい。男の気配りである。浩瀚は手を拭きつつ、
「適当に用意してくれ」
と男に告げる。男は
「かしこまりました」
と言って、壁一面に置かれた、手ごろな大きさの酒の徳利の中から、一本選び出し、器に注ぎそっと浩瀚の前に置いた。そして浩瀚に何かを言おうとするが、奥の客に呼び止められ
「ごゆっくり」
 そう言うと奥の客の相手に戻った。
 浩瀚は注がれた酒で喉を湿らせると、興味深く男を眺める事にした。


 店主の男は海客である。以前たまに通っていた店で、男とは顔なじみになった。当時から男の接客はなかなかのもので、この度独立すると知らせを聞き、祝いにやってきたのだった。
 陽子が玉座について幾月もの季節が過ぎた今日(こんにち)、慶東国では、海客が希望すれば無料で、常世の言語を習得させる施設が整えられた。
「――私が生まれる数十年前から、あちらではギムキョウイク制度があるからな。一度も学習していない者は殆どいないだろう。だから、これは間違いなく成功するぞ――」
 そう自身に満ち溢れた陽子の姿を、浩瀚は思い出す。
 陽子の狙い通り、最近流されてくる海客は、殆どが学習すると言う行為に抵抗を感じない。物覚えも割りに良く、この方法は上手く運用されるようになった。つまりは海客が簡単な挨拶程度の話は出来るようになったのである。とは言え、酒の相手をする程、大変流暢に言葉を操るこの男は、中々珍しいと浩瀚は考えていた。
「そう違和感もなく、ともすると、こちらの者よりも美しい言葉遣いだ。……もともと器用なのだろうな」
 浩瀚は、男と客とのやり取りに、つい耳をそばだてて聞いてしまう。
「――お客様。もうその位で、飲むのをお止めになった方が宜しいのでは?お身体に障りますよ。……お客様の心中はお察し致します。世の中楽な事ばかりではございません。それでも、ほら、朝はくるのでございます。お客様、ご家族が心配なさいますよ。どうぞ、今日はこの位で。又いつでもお待ち申し上げておりますから」
 客が悪酔いして、くだを巻き始めたのを、やんわりと諭しているようである。客は名残惜しそうにしていたが、男が客の背後に回り肩を抱いて店から出るよう促す。重い扉が開くと共に、冷えた空気が店を駆け抜ける。
「又のお越しをお待ち申し上げております」
 男は丁寧にお辞儀をし、ばたんと扉を締め切った。そしてくるりと振り向くと先程とは違った言語で話し出した。
「あーん、もう、疲れるったらありゃしない。やっと出て行ったわ。……お・ま・た・せ、浩瀚様。お酒のお代わりは宜しいかしら?」
「ああ、頂くとしよう。……しかしお前、最近私の前では蓬莱の言葉で話すのだな。もう、練習はいいのか?」
 浩瀚は残りの酒を空にして、男の側へ器を差し出す。
「あっ、もう、いいのいいの。大分使える様になったし。それに、浩瀚様には本当の僕で向き合いたいの。しっかし、不思議よねぇ。仙人様って僕の言葉も普通に理解出来るなんて。ねぇ、どんな感覚なの?」
 徳利から酒を継ぎ足し、浩瀚に器を戻しながら男は問うた。
「もう、ずいぶん昔からこれが当たり前だからな。なんとも表現し難いな。そんな事より、お前は蓬莱の言葉になると、何故、女性らしい言葉になるんだ?」
「だって、しょうがないじゃない。僕、向こうにいた時はオネエキャラだったんだもん。……ねぇねぇ、オネェキャラって浩瀚様に、分かるぅ。その頭にはどういう風に伝わるのかしら?」
 男は無邪気に手を叩き、浩瀚の瞳を覗き込む。
 しゃら、しゃら…
 男が屈むと、耳朶を貫通した金の鎖が僅かに揺れ、男独特の妖艶な雰囲気を醸し出している。浩瀚は男の様子を、努めて落ち着いた様子で聞く事にした。
(全く、私をからかおう等と。こいつも酔狂な奴よ)
 浩瀚が表情も変えず、注がれた酒を一気に煽ったので、男は小さく息を吐く。だがすぐに、男はにっこり笑って、皿に木の実を幾つか並べて、卓子に置いた。
「そ・れ・に。こんな感じで話すのは、ここでは浩瀚様だけ。特別よ」
 自身の唇に指を当てて、浩瀚に口付けを投げかける動作をする。浩瀚は、苦笑いをしながら、皿に置かれた木の実を、くるくる弄んだ。


 男は浩瀚がさり気無く置いた、小さな包みを見逃さなかった。
「なぁーにそれ?」
「開店祝いだ。食べてみるか?」
 中を開くと、男が見覚えのある菓子である。
「これって、まさか」
 浩瀚の穏やかな微笑が、注がれた酒の水面に映っている。
「以前これを頂いた。ここでは馴染みのない菓子だが、なかなか美味かったよ。それで、ちょっと頼んで作って頂いた」
「なかなかやるわね、その子。僕と同じ海客なの?あちらでパティシエ……あっと、菓子職人でもしていたのかしら?漂う香りが結構本物に近いじゃない」
 そして、男は軽く腕を組んで考える仕草をすると、意味ありげな視線を浩瀚に投げる。
「ねぇ、浩瀚様。その子、これを初めて送った日、何か言ったでしょう。蓬莱では愛する人にこれを送る特別な日があるわ」
 浩瀚はにやりと笑うと
「そうらしいな。お陰でいいひと時を過ごさせて貰ったよ」
「その子、浩瀚様の、いい人?」
「今の所は、な」
 さらりとそしてきっぱりと言い切る浩瀚に、男の眉根が僅かに歪んだ。
「へぇー。でも、いいのぉ。その子がこんなに頑張って作ったのは、浩瀚様に食べて欲しいからでしょう。その子は僕にあげる為って知ってるの?」
「知らないなぁ」
 しれっと浩瀚は言って、酒を一口、口に含む。
「ふーん。彼女には秘密なんだぁ。僕との仲は」
 男は卓子に肘をつき、顎を軽く乗せる。男は顎を乗せた指先で、自身の頬を軽く弾き、浩瀚の瞳をわざと艶っぽく見つめる。
「客と接客係だろ」
 浩瀚は男のその様子を気付いているのかいないのか、何事もない面構えで返事をする。
「じゃぁ、隠さなくってもいいじゃない」
「あの方は素直だから。余計な事を吹き込んで、混乱させない為だ」
 男はその浩瀚の言葉に、肘を付いていた手を払って涼やかに笑い出した。
「……あははっ、冗談冗談。浩瀚様、本気にした?僕これでも男だからね。いい仲になりたいのは、やっぱり女性だよ。あちらでもさ、この路線で女の子と話すと警戒されにくいんだ。そうこうする内、この話し方が抜けなくなって。浩瀚様を少しからかおうとしたけれど、効いているのか、いないのか……。でもいいか。彼女も知らない、謎の存在の役を賜ったから。好きだよ、そういう位置」
 男は自身の器に、酒を並々と注ぎ、かちんと浩瀚の器に軽く自身の器を当てた。
 浩瀚が男に視線を流し、包みをこつこつと指差す。
「もう、いいだろ。それより、食べるのか、食べないのか。どちらなのだ」
「……頂くよ。ええ、頂きますとも。どうせそれは、その子の想いがいっぱい込められているんでしょ。そして浩瀚様は、遠まわしに僕に自慢しようとしている。……なんか、悔しいわ。こうなったら、それ、ぜーんぶ食べてやるんだから!」
 浩瀚はくつくつ笑い、男が取り出し易い様に、包みを移動させる。男は久しぶりに見た懐かしい色に心躍らせつつ、それでも一瞬躊躇するように、指を止める。
「本当に頂いちゃって、いいの?」
「どうぞ」
 浩瀚は左手全体で包みを指し示し、軽く首を傾けた。


 男は包みから、深い橡色の小さく纏まった固体を取り出し口に放り込む。舌の上で転がすと、それはゆっくりと解けていった。そして、次第に甘さの中に渋みとこくが口いっぱいに広がる。懐かしい舌の記憶。
「……あっ」
 男は鼻腔を擽るこの菓子独特の芳醇な香りに、思わず目頭が熱くなった。そんな自分が滑稽で、見られぬようにと男は踵を反し浩瀚に背を向ける。
 男のその姿に、浩瀚はひやりとする。突然異世界に流された。帰りたくとも、それはもう叶わない。懐かしい過去を思い出したその後は、向こうでやり残した無念さや、世の虚しさが気持ちを覆う。
 浩瀚はもしかすると、男の触れてはならない深層心理を逆なでしたのではないかと心配した。
「この味を知っているであろうお前にも、楽しんで貰えたらと思ったのだが。……聊か無神経で配慮に乏しければ、すまない事をした」
 浩瀚が静かに告げると、男は、はっとした面持ちですぐに浩瀚に向き直るとはっきり言い切った。
「そんな事思ってないよ!思いがけずこれが頂けて嬉しかった。又、食べれるなんて、考えもしなかったもの。この涙は、何だろ。懐かしさが一気に込み上げてきたのかな?」
 そう笑って、自身の手でささっと涙を拭う。
 男は自身の器の酒を口に含んだ。口内に僅かに残った菓子と酒を合わせて、惜しむように喉に流し込んでいく。男は少し考えてから話し出した。
「浩瀚様がご心配している感情は、有難い事に僕にはないの。こっちにくる前、凄い天変地異が向こうであって、あの時僕は、死んだと思ったからね。こうして五体満足に生活していられるだけで儲け物と思っている訳」
(この者は蝕で流されてきたのだったな)
 浩瀚は蝕が起こす脅威を思い出していた。異世界同士が交じり合うその力は凄まじいものだ。それによって死ぬ者も少なくない。死ぬかも知れないと覚悟した者が、気付けば生きていた。
(『儲け物』とは、よく言ったものだな)
 浩瀚は男の言葉を受けて、静かに笑う。
 男は更に続ける。
「でもね、そう思えたのはこの国に流れ着いて、いい人に拾って貰ったからかもしれない。……確かにね、最初は戸惑いもあったよ。でも、そんなの向こうだって似たような事はあるもんさ。用は、僕らが生活しやすい環境が用意されているかどうか、ここが重要だと思うの。この国はいいよ。僕らに対して変な構えがないもん。最初は言葉が通じなかったけれど、こちらの人が身振り手振りで、本当に親切にしてくれた。すぐ言葉を習わせてくれる所を紹介してくれた。仕事も紹介してくれた。こちらで元々生まれた人達と、わけ隔てなく僕らを扱ってくれた。これなら前を向いて生きていられる。有難い。本当に有難いと思うよ」
 男の話を聞いて、浩瀚は言い知れない満足感に浸っていた。
(あぁ、主上。あなたの為された事は、確実に実を結んでおります。ここに一人の海客が、我が国を良い国だと言っている。すべての民が分け隔てなく安心して暮らせる国が、着実に出来つつあるのですね)
 浩瀚は鈴が話していた事を思い出す。
「――私が最初にここに辿り着いた時、他人と意思の疎通が出来ない事が何より苦労した。私、明日が見えず、毎日が不安で仕方がなかったの。……まあ、私の場合、だからこそ、仙になると言う事に飛びついて、その後も仙籍から抜かれる事を酷く恐れたのだけど。言葉が通じたからと言って、それが幸せの全てではない事も後で分かったし。でもね、それでも、まず、自分で生活出来る第一歩が欲しい。その為には、人と意思の疎通が出来るような手段が必要よ。こちらの人と話す事が出来る。これだけでも、絶対、励みになるわ。明日への希望に繋がる。ねぇ、陽子。私、応援するわ。是非、成功させて」
 蓬莱語を教える施設を作ろうと言う話になったおり、陽子は鈴に意見を求めた。鈴は最初遠慮がちに、しかし、思いを全て陽子に知って欲しいと、とうとうと説いた。浩瀚は傍でこの様子を聞き、改めてこの施設の成功を祈ったものだった。


 浩瀚は陽子から貰った手作りの菓子に目を落とす。男は菓子を一粒取り出すと、明り取りの炎にかざし、片目を瞑りつつ、凝視しようとする仕草を見せた。
「この菓子ってさぁ、色っぽい菓子だと僕は思う訳。昔々は、恋の媚薬とも言われたらしいよ。だからかな、好きな人にこれを送るようになったのは。どう?これを食べた後、その子といい感じになったでしょ」
 男は菓子を口に入れると、頬杖をついて、浩瀚をにやにや眺める。
「私は二人きりの時は何時でも、あの方を隅々まで欲したいと思ってしまうからな。これがあったからとは分かりづらいのだが。……そうだな。たしかに、独特の苦味とこくが香るのは、悪くは無い」
 浩瀚は、表情一つ変えずそう返すので、男は苦笑した。そして菓子を強引に噛んで飲み下した。
「ちぇ。いろいろ、つついて浩瀚様の慌てる顔が見たいと思ったのにさ。相変わらず、嫌味な位落ち着き過ぎ。それなのに、言ってる事は、こっちが恥ずかしくなる台詞だもの。すっかりあてられたわ。ちょっと待てって。いい物持ってくるから」
 男が店の奥に入って暫くすると、素焼きの徳利に入った酒を持ってきた。
今度は玻璃の器にそれを注ぐ。それは赤紫の色をした飲み物。
「葡萄酒、か……」
「まぁ、飲んでみなよ」
 浩瀚は一口、口に含むとこう評した。
「甘いな。しかし、素焼きの香りがほのかに香って、素朴な味わいがある」
「でしょう。葡萄そのものを食べたような甘さがありながら、後でしっかり酒の余韻が残ると思わない?これ、僕のお気に入り。これはね、遅摘みの十分熟した葡萄を素焼きの甕に入れて、それをそのまま地中に埋めて発酵させてるの。強い酒が好きな浩瀚様には物足りないかも知れないけど、それ、あげるわ」
「いいのか?」
「懐かしい物を食べさせてくれたお礼よ」
 男はにっこりと笑うと、自身の器にあった酒をくいっと煽った。


 浩瀚が店から出て行き、男は独り、浩瀚から貰った菓子の深い橡色を見つめていた。光に照らされ、適度な光沢を放つそれを見て、男は自嘲気味とも取れる微笑をする。
「こんな形で、あれを渡すとはねぇ……」
 男は数ヶ月前、堯天であの酒を見つけた日を振り返る。まだまだ寒かった堯天の冬。何気なく立ち寄った店で、その酒と出会った。店員が、試してみろと少し注いでよこすので、味わってみる。熟成時に染み込んでいく素焼きの香が印象的な、何とも甘く、そして後味はしっかりと酔える酒。
 それを試しながら、今日あちらでは、どんな催しをしていたかを思い出す。蓬莱では、今日想い人に、深い橡色のほろ苦くて甘い菓子を渡していた。
 そんな菓子は、こちらにはないけれど。
 自分の秘め心をこの酒にたくし、送ってみようか。
 相手も知らぬ自分だけの儀式。

 ――あなたを本気でお慕い申し上げております――

 結局、己の下心に少し恥ずかしさを覚え、渡す事もあるまいと奥にしまっていたが。
「浩瀚様が、あの催しを知っていたとは。そして、それを話す浩瀚様のあの表情。……何だかね。告白前に玉砕したみたい」
 かの想い人が飲みかけた、玻璃の器を男は手に取った。手の中でくるくる揺らし、僅かな葡萄酒が器に張り付き、落ちていく様を暫し眺めると、呑口に軽く口付けを落とす。
(浩瀚様。僕はあなたが好きでしたよ。でも、僕の入り込む隙はなさそうだね。でも、浩瀚様。僕を気に掛けてくれて嬉しかった。……開店祝いを有難う)



〜補足〜

芒種:
二十四節気の一つ。太陰暦の五月頃、大体6月6日前後が芒種にあたる。
二十四節気は、太陰暦を使用していた時代に、季節を現すための工夫として、1年を24等分にし、その区切りに名前をつけたもの。
常世に二十四節気がそのままぴったりと当てはまるとは思っておりませんが、原作も太陰暦が大筋にありそうに思い、雰囲気程度に使用。

芒種前後に7日間に摘んだ茶葉は貴ばれる:
捏造です(爆)しかし根拠あり。芒種の前後1週間に摘まれた茶葉から造られた「東方美人」(有名な茶葉ですね)が最も貴ばれるという話を見つけ、これを、慶東国特産の白端の茶に強引に繋げました。

素焼きの香りが残る葡萄酒:
参考にしたものは、葡萄発祥の地とされている、とある地方の有名な赤ワイン。
「赤は渋くてなんぼ」と思われる方には、少々物足りないですが(実は私も初めはそう考えていましたが、これを飲んでアリだと思えるようになった)このワイン「葡萄ジュース?」と思うくらい、味は甘くてフルーティです。何より、私が飲んだ印象としては、ボトルに使用している素焼きの陶器(じゃないものもあるようです)の独特の土の香りが、ふっと香り、素朴な印象を与えまして、記憶に残るワインの一つとなりました。それもあって、製造方法なんかを適当に参考にしてしまいました。

文中幾度も出てきた深い橡色のほろ苦くて甘い菓子は、ご想像通りのアレです。本当はこれこそ詳しく掘り下げてもいい筈ですが、大体皆様想像はしやすいかと思いましたし、深く掘り下げると、冬のイメージが強い話になりそうなので、この位にしました。(って十分季節はずれな雰囲気の話になってしまった)

言わずもがなですが、全て適当に大雑把に使用してます。深い事は分かりません。それに、常世でこれらを持ってくるのは強引やしないかと思われる方もおりますね;;それは、あのう、お遊びという事で。

こちらは、「微睡みの彼方」様がサイトを開設時に、文字通り「開店祝い」としてお送りさせて頂きました。私ごときが「お祝いです」なんて、物凄くおこがましいんですけど。以前、海客が常世で言葉が話せる制度という話を二人でしていて、それもあって読んで頂きたいと、そうさせて頂きました。
「微睡みの彼方」様の開設された日が、芒種に近かったので、前半芒種の話を持ち込みました。だから無駄に長いのです;;
今回「死んでいないだけ儲け物」という事を、海客の兄チャンに、言わせたかったんですよねぇ〜。
蝕に巻き込まれたって事は、想像なんですけど、死ぬか、下手したら、大怪我をして身体にハンディキャップ等残ったりもする人もいるのかなと。(違っていたらスイマセン)
でもこの兄チャンは何事もなく生きていられた。これは、感謝しないといけません。
私は、自分の運命をいい様に解釈して、前向きに生きる人間に憧れます。そういう海客を書きたかったと、言う訳で、この兄チャンが出来た訳です。
でもねぇ、前向きに生きたいといっても、やはり不安は大きい訳で。いかに少しでも取り除ける制度が、そこにあるかというのは必要かなぁとも思います。で、妄想してみた。
まぁ、私が考える事なんでね。結構、突っ込み所も多いと思いますが、そのあたりはさらっと流していただければ、幸いでございます。
←その一押しが励みになります
2005.6.初稿
素材提供 十五夜さま
禁無断転写