足枷

陽子が出陣してから数日後。

景麒のたっての希望で、浩瀚は仁重殿を一人見舞う事を許された。

臥牀には景麒が横たわっている。

しかし浩瀚が近付く音が聞こえたのだろう。重い瞼を開け、懸命に身体を起そうとした。

「そのままで」

浩瀚はそんな景麒の行動を静止する。

そして女官に勧められるまま用意された椅子に腰掛けた。

「お加減はいかがでしょうか?」

心配そうに見つめる浩瀚に、景麒は精一杯の笑顔を作ろうとした。

「幾分かは良くなってきております。ご心配をかけて本当にすまない」

「……そう……ですか」

浩瀚の小さな返事に景麒は無言で頷き、彼は天井に目を移した。

「主上が金波宮をお離れになった今こそ、私がちゃんとしていなければならないと思う

のです。私の不調は皆の心に影響を及ぼすでしょうから」

「台輔。やはりそれは」

「何度も申し上げた。これは『あれ』ではない」

それを聞いて浩瀚はほっと息を吐いた。

景麒の言う『あれ』とは即ち『失道』の事。彼は悲しい事に一度それを体験している。

今回はそれとは違うと景麒ははっきり宣言していた。

(しかし本当だろうか?台輔はそう思い込もうとしているだけではないのか?)

――その疑念、身に覚えあり――

払拭したくとも滲み出る感情に浩瀚は改めて胸つかえる。

暗い表情をしている浩瀚を見て、景麒がもう一度臥牀から起き上がろうと身体を動かした。

「台輔!!」

思わず声を荒げる浩瀚。それに続いて女官が慌しく動き出すと

「いいから」

今度は景麒が皆を静止した。

そしてずるずると気だるげな身体を慎重に動かし、とうとう身体を起き上がる事に成功した。

景麒の背にはすぐに靠枕(まくら)が用意される。

「本日あなたにお越し頂いたのは、お伝えしたい事があったからでございます」

そう言うと景麒は人払いをさせた。

待つ間。浩瀚はどうにも落ち着かないでいた。

思えば景麒と浩瀚が二人きりになる事は無かった。

それを浩瀚は今まで心の隅でほっとしていたのだった。

気にせずともちらつくこの思いは、陽子に触れてしまったあの日からさかのぼる。

(台輔はきっとご存知だろう。そしてどう思っているのだろうか?それを考えると私は

怯えてしまう)

こんな本音を今まで浩瀚は、それまで培ってきた経験で何事も無いように装っていたの

だった。

傍目には隠し切っているであろう浩瀚の表情を、景麒は知ってかしらずか、彼は靠枕に

もたれながら呼吸を整え、そしてゆっくりと口を開く。

「浩瀚殿。主上のお相手があなたで本当に良かった」

瞬間、浩瀚の瞳孔が大きく開た。

「あなた方の事を私が知らないとは、まさかあなたは思っておりますまい」

浩瀚は景麒と目線が合うと、なぜかその視線から逃れようと目を伏せた。

景麒は構わず話を続ける。

「実の所私は主上にお会いするまで、不安で胸つぶれる思いだったのでございます。

このような状況で私一人残されるなんて」

景麒にとっては当然の事だろうと浩瀚は感じていた。

麒麟である彼にとって主と離れる事、ましてや戦場等という危険極まりない所へ主を

向かわせる事は、およそ耐えがたい事である。

しかし戦いの最前線へ行く事を決意したのは、誰であろう陽子自身。不安の中でも結局

主のする事に逆らえないのが麒麟の定め。

浩瀚が何とも言えぬ表情で俯いていると、景麒は静かに続きを話し出した。

「出陣日当日、私は主上にお会い致しました。……主上は大変穏やかに笑っておられた」

弾かれたように浩瀚は顔を上げた。景麒はそれを見て小さく頷きこう言った。

「そしてはっきりと宣言されたのでございます『必ず戻ってくる』と」

景麒は薄く笑いながら話を続ける。

「主上を拝見した時私は驚きました。あの方はそれまで思いつめたような悲壮感を微塵も

感じさせなかった。変えたのはあなたなのでございましょう?」

浩瀚は自身の拳を硬く握り締めじっと景麒の言葉を聞いている。

「感謝申し上げる」

「どうかお止めください」

頭を垂れようとした景麒を浩瀚は慌てて止めに入った。

「そんな……私は感謝されるような事などしてはいない」

「しかし……」

「至極自分勝手な想いからです」

「……」

浩瀚はやっと景麒を見つめ返す事が出来た。泣き笑いに近い顔だったかもしれない。



「私があの方を欲してしまった。ただ、それだけでございます」



浩瀚の身体は硬直していた。

景麒の視線が刺のように身体に突き刺さり、覚悟はしていたがそれが痛い。

静寂の中ふいに聞こえた景麒の言葉。その意味が浩瀚にはにわかに理解出来なかった。

「宜しいではございませんか」

浩瀚はぽかんとした面持ちで景麒に呟いた。

「台輔、今何と?」

景麒は浩瀚のその顔が面白かったのか、くすっと小さく笑う。

「他に何か理由など必要なのでしょうか?」

浩瀚は軽く息の呑んだ。

(そんな。台輔からそんな言葉が出るとは思わなかった)

浩瀚が戸惑いを隠せないでいると、

「私がそう思う事がそんなに可笑しいですか?」

そう言って景麒は小首を傾げた。

「いえ、そんなっっ!!」

慌てて浩瀚は否定の言葉を捜したがどうにも見つからないでいた。

景麒はそっと浩瀚の手を取った。

「あなたは主上に『足枷』をつけたそうですね」

「それは……」

浩瀚の瞳が泳いだ。

(確かに私は主上に申し上げた。尤もらしくも『足枷』等と)

浩瀚がそのまま黙っていると、景麒は浩瀚の手を力強く握り締めた。

「そして主上はあなたの仰る『足枷』を大きな拠り所とした。それまで時より見せた

『死をも厭わない』と言いたげなお姿から……」

景麒ははんなりと笑うと、浩瀚の手の甲を軽く叩いた。

「『浩瀚にもう一度触れて欲しいから私はまだ斃れられない』と、主上は笑ったので

ございます」

浩瀚の全身に甘い痺れが走る。

彼は思い出していた。



 口付けた唇の柔らかさ。

 滑らかな肌から発せられる華やかな香。

 掬った蜜の甘さと、啜った時に感じた恍惚さを胸に抱き。

 その身体に深く沈んでいった己自身の、熱く絡みゆく心地よさ。



拠り所にしろと言いつつも実は恐れていた。そう思う事が果たして許される事なのかと。

「それを台輔は……あなたは……許して下さると仰るのですね……」

景麒は浩瀚の手をそっと離し、目線を宙に浮かすとほうっと息を吐いた。

「この想いに至るまでには、渦巻く激情にのた打ち回る事もございました。一時はあなたを

お怨みする事も。しかしあなたの人となり、事、主上に対する真摯なお気持ちを見るにつけ。

もう良いと。私では支えきれぬあの方のお心を、唯一慰めてくれるのは浩瀚殿あなただと。

そう思えるまでになったのでございます」

「台輔……」

「どんな理由でもいい。私はあの方に帰ってきて欲しいのです。そして帰ってきたあの方を

支えきれるのは私と……あなた」

再び景麒に真剣に見つめられた浩瀚は胸の霧が晴れていく思いだった。

「二人で共に待ちましょう。あの方のお帰りを。待つ間共に作りましょう。あの人が安らげる

場所を」

『新たなる足枷』浩瀚はそんな事を感じていた。

(しかし私にとってこれほど光栄で重いものは無い)

浩瀚は景麒の強い視線に答えるかのように、しっかりと頷き返したのだった。




































































































































































































































































            陽子よ…。そんな理由でいいのか…?
            そんなクレームも入りそうな話となりましたが…。いや、いいんです…きっと、多分…。
            何かねぇ〜。ここ一番!という時は、綺麗事では片付けられないもっと強いモノがあってもいいと思ったのん。
            となると、基本エロ(しかもムッツリ)な私の脳内は「煩悩しかねぇんじゃネェノ?」となってしまったのん。
            
            うわぁぁーーん、「期待はずれだ」とさじを投げた方、本当にスイマセン。
            無事帰還した陽子とのラブイ逢瀬を待ってたという方もいただろうなぁ〜。
            しかしやっぱり修行が足りなかったで、す。

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            2007.5.初稿


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