出立小噺

 桓堆が荷を纏めている。と言っても、この場所に来るまでには最低の準備―その殆どが、戦う為の冬器しか持ってこなかったので、思いの他手早く済んだ。
(明日ここを発つ)
 桓堆はぐるりと辺りを見回す。
 思えば桓堆がこの地、拓峰にいる事になったのは奇妙な縁からだった。慶国に骨のある奴等がいる。その者らは自らを『珠恩』と名乗っている。それを知った時、桓堆は己の血がざわつく事を他の者に悟られぬ様振舞うのに苦労した。だが期待が大きい程思いが裏切られた時の遣る瀬無さが大きい事も知っている。始めは静かに見ている事にしていたが『珠恩』の動きは桓堆が思った以上に秀悦且つ大胆だった。
 州師将軍である性なのか。『珠恩』の思惑を想像するだけで己が酷く高揚しているのを桓堆は感じる。そしてこれに乗じて、更に事を上手く運ばせる妙案がするすると浮かぶ興奮が止まらなかった。
(そして『珠恩』の連中と共に戦った)
 けして戦い易いものではなく、寧ろいつでも陥落出来る程厳しい戦い。だが全てが終ってみれば、あんなに我武者羅に奔走した事は、人生の中で初めてだったのではないかと桓堆は振り返る。何かが桓堆を前に押し出すような不思議な感覚。
「世が変わるというのは、ああいう事を言うのかも知れないな」
 一人呟いたその時。

こつ、こつ…。

 壁を叩く音が聞こえ桓堆は音のする方へ振り向いた。見れば大きな男が快活な笑みを浮かべている。
「明日、拓峰を出るんだってな」
 男は『珠恩』を旗あげた者。共に戦火を潜り抜けた今は掛け替えのない同士の一人。
「ああ、お前か。虎嘯」
 桓堆は男を見やり、破顔した。


「あんたには随分と世話になったからな。だが、ゆっくり話も出来ねぇ内に、あんたはここを出るという。……と言う訳でな。少し付き合ってくれ」
 虎嘯は照れながら空いた手の人差し指を、鼻の下に持っていき軽く二三度擦る仕草をした。
 桓堆はゆっくりと椅子から立ち上がり、入り口の虎嘯の傍へ向かうと
「勿論いいとも」
 そう言って、がしっと虎嘯の肩に手をまわし独房に促した。
「丁度、お前さん達の事を考えていた所だったんだ」
「何だ?碌でもねぇ事じゃねぇだろうな」
「それは如何だろうなぁ」
 軽口を叩き合いながら傍にあった椅子に二人は腰掛けた。
「悪い。お前さんを持て成してやろうにも、荷を纏めてしまったからなぁー」
 桓堆が詫びると
「ああ、構わないでくれ。俺も何か餞別を……と探したんだがな。当然ながら何も見当たらなかった。落ち着いたら改めて贈らせてくれ」
 虎嘯は軽く手を振ってそれに答えた。
 徐に虎嘯は、独房の隅に立てかけてあった鉄槍に目を配った。今は丁寧にしまわれているそれを、虎嘯はじっと眺めている。
「ん?どうした?」
 桓堆が聞くと
「いや。あれに随分と世話になったなぁーと思ってな」
 そう言って虎嘯は眺めていた鉄槍を指差した。
「正直、あんな重い物をぶんぶん振り回しているお前を、化け物かと呆れかえったもんだ」
「実際化け物だったしな」
 明るく言ってのける桓堆に、虎嘯は一瞬表情が固まる。
 桓堆は半獣である。彼らに対する偏見が全くない訳ではない。無論、虎嘯は馬鹿らしいと気にも留めないのだが、いざ当の本人から吹っかけられたこの場合、どう返答するのか相手にとって良いものなのか躊躇したのだ。
「あっ……えーと……」

「……笑えよ。じゃねぇと、『落ち』ねぇだろ」
 桓堆の困った声が聞こえ、見ると彼は悪戯含みの笑みを零している。つられて虎嘯は大笑いした。ひとしきり笑うと、虎嘯はしみじみと語る。
「俺も大概力には自信があったけど、鉄槍(あれ)を投げ渡された時は重くて思わず顔をしかめたもんさ。それから、あの、何だっけか。敵陣の山みてぇにでっかい車。あれを、一人でどうにかしちまった時は惚れ惚れしたね。本当にあんたは、すげぇ奴だよ」
「そりゃ、どうも」
 桓堆は軽く笑って片目を瞑った。
「虎嘯。俺もお前さんから、改めて気付かされた事があったよ」
 桓堆は居ずまいを正し、虎嘯の顔をまじまじと見つめる。
「州師が来て、街ごと焼枯れそうになった事があっただろ。その時俺は、俺らが篭城している所まで火が回るのには時間がかかるから、相手の出方を見る為にも様子を伺う方がいいと思った」
 虎嘯は黙って桓堆の言う事に耳を傾けている。
「お前の弟、夕暉とか言ったか。あいつは頭の回転がいいな。一連の計画も夕暉が考えた事だろ?軍才があると俺は思う。その夕暉が『自分達は今ここで出来る事は何もない』と言い切った時、俺も同じ事を思った。だがお前さんは違っていたんだな。俺は忘れはしない。『ここで街の連中を見捨てたら、俺達は単なる人殺しだ』と言ったお前さんの叫びを」
 虎嘯の肩がぴくりと動く。虎嘯は至極照れてしまったのだろう。その顔を上げられないでいた。
(気恥ずかしい事言うんじゃねぇよ)
 暫し辺りに静寂が走る。
「……俺は頭が単純だからな」
 ぼそりと虎嘯は呟いた。桓堆はふっと表情を和らげる。そして伸びをしながら無邪気に言った。
「何にしてもだ。俺にとっては、偉く中身の濃い数日だったと言う事さ」
「俺もあんたと組んだ数日間。相当刺激的な事ばっかりだったぜ」
 虎嘯もこう返し、二人はどちらともなく笑い合う。
「さてと。野郎が長居してもつまらねぇだろ。俺はそろそろ退散するわ」
 言って虎嘯は、ぽんと自身の膝を叩き軽く勢いをつけて椅子から立ち上がった。
 そして廊下に出た後、振り向きざま、虎嘯は、何かを思い出したようで口を開く。
「ああ、そうだ。世話になったあんたへの餞は、上手い酒にしようと思っている。明日ここを出ていく時に聞くからさ、決めといてくれよ」
 左の手で杯を持つ仕草をし、その手首を自身の口元付近でくいっと回して見せる。
「『これ』嫌いじゃないんだろ?」
 後に続いて見送りに来た桓堆は、少し躊躇う表情をした。
「まあ……な。だが、気を使わないでくれ」
「いいんだよ。俺がそうしたいんだから。な、決めといてくれよ」
 虎嘯はがしっと桓堆の肩を掴み、豪快に笑うと
「じゃあな」
と言って立ち去った。桓堆はその後姿を考え深げに眺めていた。


 出立の日は快晴。冷えた冬風が桓堆の鼻をつんと刺激していた。
 見渡すと、各人手馴れた手つきで荷を整えている。桓堆の荷物は部下が手際よくまとめて持っていってくれるので、彼は比較的軽装で吉量に跨る。白い縞の入ったその毛並みは、この怒涛の数日で、あまり整えてやる事が出来ず、少し艶に欠ける。
「帰ったら、綺麗にしてやるからな」
 小さく呟き、桓堆は吉量の朱い鬣を撫でてやった。
「おはよう」
 耳にすっかり馴染んだ清んだ声を聞き、桓堆はその声がする方へ目を泳がせた。そしてその者を見つけると、屈託のない笑顔を向けた。
「もう少しここに残るんだってな」
 そう言って桓堆は吉量から飛び降りた。彼の目の前には紺青の髪をゆるく束ねすっきりと身を整えている祥瓊が微笑んでいた。
 戦い時は凛とした表情が多かった彼女も、角が取れたように和らいだ雰囲気を感じる。
「ええ、まぁ。……鈴と陽子がいるから」
「同じ年の頃の娘達だものな。離れがたいか」
 そう言って桓堆は愛嬌たっぷりの笑顔で祥瓊の瞳を覗き込んでやると、彼女は恥ずかしそうに顔をそむけた。
「……そ、そればっかりじゃないわよ」
「分ってるって」
 桓堆が軽く返事を返す。
「このままあなた達の所に厄介になる訳にも行かないし。……でも、かといって、ここでこのままと言う訳にも行かないけど……」
 祥瓊はこう言って少し考える仕草をした。
 その様子を見て桓堆は何か言いかけようとしたが、ふっと自嘲気味に目を伏せる。そして
「縁があれば、又会えるかもな。それまで達者でいろよ」 
とだけ声を掛けた。
 その時祥瓊の背後で快活な声が聞こえた。
「その件はお前らが適当に片付けておいてくれ。どうしても迷ったら、弟に聞くといい。俺じゃちょっとわからねぇよ。ああ、早くしねぇと桓堆が行っちまう。……ととと。よう、桓堆。見送りに来てやったぞ。って、お邪魔虫だったか?」
 目の前にいる桓堆と祥瓊を見つけ、虎嘯は知らずにやつく。桓堆と祥瓊はお互いに顔を見直し、にこやかに笑った。
「じゃあ私、これで失礼するわね」
 祥瓊は手を振ると、踵を返し奥へ帰っていった。それを横目で見送ると、虎嘯は
「昨日約束した、あれ、決めたか?」
と桓堆の傍に近付いていった。
「それとも他に思う事あって決めかねたか?」
 冗談めかしてはいるが含んだ表情を浮かべ、虎嘯は桓堆の返事を待つ。
(明らかに冷やかされいるぞこれは)
 そう思った桓堆は妙に慌てふためく。
「な、何、訳のわからない事を言ってるんだよ。虎嘯」
「さぁ、決めたのかどうなのかどっちなんだよ」
 更に面白がる虎嘯に桓堆は早口で答えた。
「酒だろ、酒!何でもいいよ。俺は酔えれば何でもいい」
 すると
「かぁー、お前さんもそう言う口かー」
 虎嘯は額に手を乗せ大げさに天を仰いだ。言われた桓堆は訳がわからないといった風である。その様子を見ながら、虎嘯はやれやれと軽く肩をすくませた。
「『酔えれば何でもいい』って体よくあしらったつもりかも知れねぇけどな。そう言うのは『女は抱けりゃあ何でもいい』と言ってる様なもんだぜ。そりゃあ、酒にも女にも失礼ってもんよ」
 桓堆は軽く窘めたれた様な気分になり、神妙な表情になる。
「好みははっきりしておく方が色男の礼儀だと俺は思うぜ」
 おどけて片目を瞑る虎嘯に、桓堆の顔も和らいだ。
「で、どうだ?思いついたか?」
 虎嘯はがっしりと大きな自身の身体、その腰に両手を掛け少し屈むと、桓堆に目線を合わせて覗き込む。目線を合わされた桓堆は、観念したように軽く息を吐き、傍にある朱の鬣に目をやった。
「そうだなぁー、俺は……」
 朝日に照らされ煌くそれは、下から見上げると丁度影になり、ともすると漆黒にも見える。それをさも愛しむように桓堆は眩しく目を細めた。
「飲んだ後、ふっと酒の香が残るものがいいな。するっと俺の中に入っていって、それでいてしっかり自分を主張する酒」
「ほう……」
虎嘯は片眉を僅かに上げ、親しげに桓堆に向かって微笑した。
「一見すると口当たりの至極いいのは、つい深酒するからいけない。飲んでも飲んでも満足感が得られず、腹ばかりが満たされちまう」
 虎嘯は桓堆の講釈――その奥に見え隠れする別の意味合いを手玉に取るように聞き耳を立てた。ひとしきり喋った後桓堆ははっと我に帰り虎嘯の顔を軽くねめつける。
「お、おい。俺の好みは大体そんなもんだ。今度はお前の好みを教えろよ」
「あ?俺、酒はやらねぇ」
「本当か?そのなりで?」
「なりは関係無いだろ」
 憮然と答える虎嘯を桓堆は繁々と眺めた。
「何だ、あんた酒は飲まねぇのか……」
 何となく残念に思えて、桓堆は小さく呟いた。しかしその後
(……ん?ちょっと待てよ。今までの話の感じからすると『酒』が『女』にも刷りかえられるんだよな。と、言う事は……。こいつは酒をやらないらしいと言う意味は……)
 桓堆は失念していた。あくまでこれは酒の好みの話。だが、虎嘯の尋問の巧みさにすっかり惑わされ、彼はある馬鹿げた思考に到達する。

(『酒はやらねぇ』って事は『男にしか興味がねぇ』って事かぁーー)

思わず桓堆は衣服の袷をぐっと握り、空いたもう片方の手で尻を、正確には尻の穴を隠す仕草をして身構えた。
「――おい桓堆。ひょっとして、なにやら話をえらく飛躍してないかい?」
 桓堆の不信な動きを冷静に見ていた虎嘯は、苦笑いする。それを聞いた桓堆は自身の思考が誤解だった事に安堵し、同時に恥ずかしさで顔が赤らむ。
「……悪い……」
 そして、おずおず上目遣いに虎嘯を盗み見ると、虎嘯のもう堪らないと言わんばかりに笑いを我慢した顔と遭遇し二人は大爆笑した。
暫しおなかを抱えて笑っていた虎嘯は、目に笑い涙を滲ませながらこう語った。
「あれでちょっとな。苦い思い出があって。それ以来やらねぇ事にして いるのよ」
「ふーん」
「だが、溺れてみてぇーと思う奴は見つけちまったけどな」
虎嘯は両の手を頭の後で組み軽く伸びをしながら努めて明るく言った。
「おい虎嘯。あんたの言っているのは『酒』なんだよな?」
 今度は、桓堆が含んだ笑顔で念を押した。
「ああ『酒』だよ」
 虎嘯も曰くありげな微笑を浮かべそれに答える。
「へぇー、あのドタバタの戦乱の中で見つけたのかい?」
 桓堆が更に突っ込むが、虎嘯がそれが如何したと嘯いた表情をする。
「ほら、部下が待っているんだろ。もう、行けよ。お前の好みの酒はいいのを見繕って送ってやる。なぁーにこれでも宿館の親父だぜ。詳しい奴に探させるから楽しみに待ってな」
 虎嘯の言を合図に桓堆はひらりと吉量にまたがった。
「楽しみにしていると言っておくよ。だが、本当に気を使うな」
 手綱を引き方向を変換しながら桓堆が声を掛ける。
「馬鹿やろう。こうでもしないと又お前さんに会えないだろ。一介の民に州師は遠いお方なんだぜ」
 そう言ってがさつに手を上げる大男の、どこか暖かい視線を背に受け桓堆は出立する。
 次第に小さくなっていく吉量をじっと見ながら、虎嘯は一人呟いた。

「きっと俺には一生手に入らねぇもんなんだろうよ」



「宿館のオヤジ若旦那を少々からかう」の巻きでございました。
一応『落ち』てますでしょうか?
拓峰の乱が鎮圧したら桓堆は一旦麦州に戻るだろうなと。そしてこの時はまだ、今後のお互いの運命は知らなかっただろうなと考えて設定してみました。
《酔えれば何でもいい》のくだりは、本当に酔っ払いの戯言から拾ってます。
酒の上での四方山話はこう言うのが本当に多いです。このネタは随分前から拍手用に仕込んでましたが、始めは桓堆が虎嘯をからかうで考えていたんですよね。
でも、どうもしっくりいかず、逆にしてみたら、するする流れてこんな感じになりました。宿館の親父だもん、酒の上での戯言はお手のもんさと言う訳で。
ちなみにこれを書きながら私の頭は、♪のんでぇ〜のんでぇ〜のまれてぇ〜のんでぇ〜♪という、名曲がエンドレスに流れておりました。
で、両者は誰を酒にかこつけて語ったんでしょうね。
んふっvvそこは皆様、バリエーションがございますので、一つと決めずいろいろ妄想して楽しんでみて頂きたい。一応強引ですが、伏線はちょこちょこ差し込んでみた。
……それが、余計なんだよとお叱りを受けるかも知れないのね
;;
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2006.1.初稿
素材提供 clefさま 
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