例えばこんな慶国茶飯事

 鈴は洗い終わった大きな布を物干し竿に掛けようとしていた。この竿が鈴にとっては少し高い位置に設えており、背伸びをすれば届かなくもないが、今日の様に大物となると少々難儀である。
「そうかと言って、物干し竿自体を低くすると、布が地面についちゃうし。頑張れば届いちゃったりするものだから、踏み台を持ってくるのも面倒だし……」
「よいしょっ」と精一杯背伸びをして、白くなった布を物干し竿に掛けようとすると、不意に手元が軽くなった。
 見上げると、細く白いながらも、適当に筋肉のついた腕が見える。
「せっ、き?」
「こんにちは」
 優しい声が降りかかり、日の光に眩しく光る爽やかな夕暉の笑顔があった。
「どおしたの?学校は?もう、落ち着いたの?あっ、今日は虎嘯に会いにきた、とか?」
 久しぶりに懐かしい顔を見て、鈴は聊かはしゃいで話をした。
「うん、ちょっと。学校も落ち着いてね。兄さんに用事もあったものだから、こっちに来たんだけど……」
「俺にじゃなくて鈴にだろ?」
 二人の後ろで逞しい腕で頬を掻きながら、にやにや笑っている大きな男があった。
「兄さんっっ!!」
 夕暉は慌てて振り向いて、虎嘯の顔をねめつける。鈴はきょとんとした顔をして振り向いた。
「虎嘯」
「よう、鈴。俺、今、丁度休憩時間でな。夕暉と話していたんだけど。その中で、『鈴は元気か』『どうしているか』と、えらくしつこく夕暉が聞くもんでな。じゃあ見て来いよってな訳で、ここに連れて来たんだ」
 夕暉を見ると、居心地の悪い顔をして、鈴に笑いかける。
「……うん、随分と会っていなかったろ?気になっててさ。でも、ごめん、仕事中だよね。邪魔したかな」
「ううん。会いに来てくれて嬉しかった。……ちょっと待ってて。これ、片付けてくる。私もね、これが終わったら、少し休もうと思っていた所なの」
 鈴は空になった桶を持つと、足早にその場を後にした。


 暫くして鈴は暖かい湯気をたたえた蒸し饅頭と茶を用意した。
「この前、堯天で手に入れたお茶なの。とってもいい香りで。人気があるみたい」
 そう言いながら手早く支度をする鈴を、夕暉は見つめていた。
「んっ?どうかした?」
 夕暉の視線を感じるので、鈴が夕暉を見ると、彼ははっと我に返り、慌てて話をする。
「あっ…えーと、鈴は、よく堯天に行くのかい?」
 鈴は湯飲みに茶を注ぐと「どうぞ」と夕暉の側へ湯飲みを差し出す。
「うん。結構、お遣いが多いかな。ゆっくり行く事は、なかなか、ねぇ……。本当は、芝居とかも楽しみたいのだけど」
「芝居?ああ、今堯天に話題の一座が来ているね。鈴、行きたいの?」
 暖かい湯飲みを受け取った夕暉は、それで掌を暖めながら聞いてみる。
「そうねぇ堯天のあちこちで評判になっているし、行けるものなら、ね。でも一人で行ってもつまんないし……」
 するとここぞとばかりに夕暉が身を乗り出した。
「じゃあ僕と行こうか?」
 湯飲みに口をつけようとしていた鈴は、目をくるくるさせる。夕暉はこほんと小さく咳払いを一つ落とすと、もう一度椅子に座りなおす。
「……いやぁ、あれ僕も見たかったんだけどさぁ。一人で行ってもつまらない……そう、それだ!!誰かと一緒の方が楽しいよねぇ」
 そこへ、先程まで黙って蒸し饅頭を食べていた虎嘯が話しに加わる。
「夕暉。お前、一人で芝居見物なんか、平気じゃねえか」
「うるさいよ兄さんは!ちょっと黙ってて」
 夕暉はことりと湯飲みを置くと、顔はにこやかなまま、しかしすかさず虎嘯の話を遮る。
「とにかくさ、行こうよその芝居。鈴は今度はいつ休みなの?僕、ここ数日は暇だから合わせるよ」
 何とか約束を取り付けようとしている夕暉を、虎嘯は見ていてこう思う。
(何だよ。珍しくがっつきやがって。さっきは『ちょっと黙ってろ』だとぉ。何か面白くないなぁ)
 暫く二人の様子を伺っていた彼だが、何かを思いついたのか弾かれた笑顔をしてこう切り出した。
「なぁ、おい、弟よ。その芝居は堯天で評判なんだろ。俺もそれが見てみたいものだよなぁ」
「えっ」
 夕暉は、はたと虎嘯を見る。
「一人で芝居見物は、つまらねえんだろ?だったら俺も混ぜろよな。鈴、駄目かぁ?」
 虎嘯が鈴に視線を向けると、鈴は手をぽんと叩いて答える。
「そうよねぇ。皆で行きましょうよ。わぁ、何だか楽しくなりそうねぇ」
 鈴がにこにこと笑みをたたえている所へ、夕暉が待ったとばかりに口を挟む。
「けどさぁ、兄さんの休みと鈴の休みが重なるとは限らないじゃない。無理に休みをずらすとか出来ないよね」
「あっ、それもそうかぁ……」
 うーんと頭を抱える虎嘯を尻目に、夕暉は得たりと言いたげな表情になる。
(兄さんには悪いけど、今回ばかりは、ちょっと、ね……)


「ああ、それだったら、俺が浩瀚様に頼んで、何とかして貰うよう取り計らおうか?」
 背後より男性の声がしたので皆が振り向くと、柱に軽く寄りかかり腕を組んでこちらを眺めている桓堆と目が合った。
「虎嘯。休憩時間は終わりだぜ。早く持ち場に戻らねえと」
 そう言って桓堆はゆっくり身体を起こすと、愛想のいい笑みを浮かべて近づいてくる。
「お前の兄さんよぉ。いい奴なんだけど、あけすけないっていうか、情緒がちぃーと少ねえのな。だから芝居見物なんざぁ丁度いいじゃないか。夕暉。兄貴を連れて行ってやれよ。……虎嘯お前もただとは言わないだろ?」
 桓堆はにやりと虎嘯を見やる。その視線を受けて、何かを感じた虎嘯は、ぽんと自身の胸を叩くと
「ああ勿論さ。芝居の代金はすべて俺が持つよ。女の子や学生に負担はさせられないだろ。なっ、夕暉、これならいいだろ?」
 夕暉は少々落胆の表情をしていたが、代金はすべて虎嘯が持つという所で、こめかみがぴくりと動いた。『おごり』という行為は、まだ学生の身分である夕暉にとって条件反射的に飛びつくものらしい。夕暉は虎嘯の甘い誘惑にほぼ感化されそうになっているのだが、それでも『鈴と二人っきり』という魅力も拭いきれず、ぼそぼそと呟く。
「ああそうだね。鈴と兄さんの休みが揃えばね……」


 鈴、夕暉と別れ、虎嘯と桓堆は共に肩を並べて歩いていた。
「なぁ桓堆。夕暉にはあんな事を言っていたが、お前、浩瀚様に上手く説得する自信があるのかよ」
 まだまだ余裕がない金波宮にとって、休日の移動は出しにくい。少し不安になった虎嘯は桓堆に聞いてみた。
「任せておけって。弟君には悪いが、かわいい女子(おなご)と二人きりなんざぁ、まだ早いってもんだ。保護者が必要だろ。保護者が」
 桓堆は喉をくつくつ鳴らして笑っている。
「桓堆、あきらかに面白がっているだろう。夕暉もとんだ奴に捕まったもんだ。だが確かにあいつが女の子と芝居見物なんて、まだ早いよなぁ」
(俺だってまともにしてねぇのに……)
 虎嘯は不意にそう思った。
(俺なんか、とんとご無沙汰なのに……)
 桓堆はふんっと鼻を鳴らした。瞬間二人の目が合い、どちらともなく視線を逸らす。大の男の心中は、意外に単純で幼い様である。


 浩瀚の元へ向かった桓堆は、虎嘯の休暇願いが上手く纏まるよう話をする。浩瀚はその内容を目を伏せたまま聞いていたが、桓堆が一息つくと、はぁと殊更大きな溜息を零す。
「……全く、お前達ときたら……。良いではないか。夕暉と鈴、二人で行かせてやれば」
「しかしですね、虎嘯もこういう機会でもないと行かないですよ。あいつ、芝居の『し』の字も知らなさそうだもの。少しは高尚な趣味を持ってもいいだろうと俺は思うんですよね。浩瀚様。俺はあくまで虎嘯の事を思って言っているんですよ」
 桓堆は身を乗り出して力の入った熱弁を振るう。
「確かに虎嘯が芝居を見ようという気になっている事は、歓迎すべき事なんだが……」
 浩瀚は手元にあった筆を、徐に弄びながら考える。
「ね!あいつがその気になっている内に、行かせるべきですって!!」
 桓堆は畳み掛ける体制に出た。そして、浩瀚の耳元に口を寄せると、駄目押しの一言を小さく囁く。

「それに、夕暉と鈴の様子も気になりません?」

 浩瀚は眉を上げたが、すぐ何事もなかった表情に戻し話をする。
「……そう、だな。たまには、そんな事があってもいいだろう。宜しい。虎嘯の休み調整しよう。鈴と重なる様に、でいいのだな?」
「ええ、鈴と同じ休みの日に」
 桓堆が異様に爽やかな笑顔を見せる。浩瀚は着ている衣装をわざとらしく調えながら、念を押した。
「虎嘯に伝えておけ。『後日、様子は伺うぞ』と」
「御意」
 怜悧な冢宰とその有能な部下も、明日を担う若者の、淡い恋路は面白がりたい様であった。


「本当に揃えてきた……」
 夕暉はがっくりと肩を落とした。
「なっ。桓堆は凄い奴だなっ。ちゃーんと、浩瀚様に交渉してくれた。浩瀚様も本当に話の分かるお人だ」
 虎嘯は得意げに笑っている。
 本日は夕暉と鈴の芝居見物の日。その日虎嘯は、桓堆の強力な口添えのお陰で、見事休みを取り付けた。
「今日は、俺のおごりだ。うーんと楽しめよ」
 虎嘯は、ばーんと夕暉の背中を思いっきり叩くと、夕暉は目を白黒させて咳き込んだ。その様子を鈴は
「本当に、二人は仲良しよねぇ」
と暢気に見ていて笑っていた。
 鈴、夕暉、虎嘯は運良く前の席を確保する事が出来た。
「俺、ちょっと食いもん買ってくるわ」
 虎嘯は他の二人を残し、足早にその場を去る。桓堆に「二人の様子を見て来い」と言われた指令より、腹ごなしの方が大切なようだ。
(やった。今なら鈴と二人きり)
 夕暉は逸る気持ちを抑えつつ、鈴の様子を見た。鈴はその黒い瞳を輝かせて、夕暉にやや興奮気味で話した。
「人気の芝居だから、こんな前で見れるなんて思わなかったわ」
「そうだね。噂によると、この芝居、とにかく『泣ける』らしいよ」
 夕暉は学友から聞いた、事前情報を披露する。その学友はついでに余計な妄想も付け加えた。
――そこでお前の真価が問われるぞ。あくまでさり気無く手拭を渡して、その鈴ちゃんって子に優しさを印象付けるもよし。上手くいけば『良かったら僕の肩に首を預けなよ』なんてな事も言って、その後、むふふ…――
 夕暉は馬鹿馬鹿しいと思いつつ、この日の為に、趣味のいい手拭を新調してきた事は言うまでもない。
「まぁ、本当に。泣けるお話って、何故か、心に残るのよね。……夕暉?どうしたの、ぼぉっとして」
 鈴の声にはっと我に返る夕暉。
「んあぁ。そ、そうだね。楽しみだね」
 ふと無言になる二人。心地よい緊張感が二人を包み、なんとも言えない甘い気持ちになる。
「あ、あの、鈴?」
 このまま一気に想いを打ち明けようかと、夕暉が口を開いた、まさにその時。
「いやぁ、もう、並んじゃって大変なの。食いもんが作っても作っても、追いつかねぇみたいだし。俺の前で売り切れねぇかと心配したぜ」
 お約束と言おうか。ある意味、絶妙な間(ま)で戻ってくる男、虎嘯であった。


 芝居も滞りなく進み、演目は佳境を迎えていた。舞台中央では主役を張る男が、瀕死の状態で女に抱えられている。
「……あなた……ああ!あなたぁ!!」
 どうやら女は男の恋人という設定で、愛しい人の絶命の時を唯すすり泣くばかりである。その周りを他の役者が囲み、誰もがその場を動けず、おいおいと泣いている。ここで物語りは、男が最後に息も絶え絶えに女に永遠の愛を囁き、がっくりと身体の力を落とす。会場では、身を乗り出す者、手拭を握り締めている者、抑えきれず人知れず先に泣き出してしまっている者等、いよいよとばかりに客が『泣き』の準備に取り掛かる。
 鈴や夕暉も例外ではなかった。鈴はふるふると肩を震わせ、口元に手をあてがい溢れる涙を抑えようとしている。夕暉はぐっと目頭が熱くなり、思わず鈴用に新調した手拭を自身で使い、慌てている。
 会場が異様に静まり、この一座一番の見せ所が今まさに始まろうとしていた。


 ところが一人の男の突拍子もない野次が騒動を巻き起こす。
「おい。何を落ち着いているんだ!皆で泣いている暇があるなら、瘍医を呼べ。まだ息があるではないか!」
 夕暉はとてつもなく肝の冷える心持だった。気付けば、自分の隣では虎嘯が立ち上がり、大きな声で先程の野次を飛ばしている。皆が虎嘯に注目している。虎嘯は、たまらないとばかりに
「聞こえないのか、おい!瘍医を呼べってばよ」
と、もう一度大きな声を張り上げている。
 会場が笑いに揺れた。舞台上は役者が皆あんぐりと口を開けている。突然演目が中断されたのである。何が起こったのか俄かに理解出来なかったというのが、本当の所だろう。しかし、そこは芝居でお金を稼ぐ集団である。すぐに周りでおいおい泣いていた初老の役者が、慌てて口を開いた。
「……で、ですが旅のお方。この方は、もう……」
虎嘯を急きょ『旅人』として演目に参加させた体制をとって、持ち直そうと試みる。しかしこの役者の見事な繋ぎも、虎嘯にとってはなんの意味もなかった。
「あほか、お前は。そいつと別れたくないのだろう?なら、何で動かない?諦めて悲しみにくれるのなんざぁ、俺にしてみれば、お前らは、そいつに早く死んでくれと言っているように見えるぞ」
 くすくす笑いが収まらなかった会場が、虎嘯のこの発言でしんと静まり返る。初老の役者も次の台詞が出てこない。
 会場はこの場面を、固唾を飲んで見守っていた。すると、先程までぐったりとしていた瀕死の男―おそらく看板役者なのだろう、その者が震える声、しかしながら皆に聞こえるはっきりした言葉で喋り出す。
「……私は……もう……長くは……ない。……もし……生き残れたとしても……この片腕では……こやつを……支えてやれない。……お荷物に……なるだけさ。……ならば……いっそ……死なせてくれ」
 必死にこの場を纏めようとした看板役者迫真の演技である。
(何とか、この場を収めなくては俺の名がすたる。どうだ、これで参ったか!)
 突如思いついた己の即興に、心で満足した看板役者だったが……。
「瀕死の割には元気じゃねぇか。声に張りがある。おい、やはり瘍医を呼べ。何とかなる筈だ」
 どっと喚声があがる。
 夕暉は頭を抱えた。
(もう僕、ここで消えたい……)
 すると喚声の中から
「そうだよ、ねえちゃん!残されるのが悲しいなら、今すぐ瘍医を呼べよ」
「死ぬなよ、あんちゃん!しっかりしろよ」

 諦めるな
 泣くな
 何とかしろ

 会場は瀕死の男を救うべく、大きな掛け声がうねりとなって響いていた。


「――で、その後、どうなったのだ?」
 桓堆の報告を、笑いすぎて涙を流して聞いていた浩瀚は、その続きを促した。
 数日後の金波宮。
 桓堆は、意外な者から事の顛末を聞いていた。夕暉が桓堆に泣きついたのである。よって、桓堆と浩瀚は当初の予定を全うする。
「ええ、急ぎ瘍医役の役者が立てられたらしいです。……くくっ、瀕死の男役はその瘍医役の役者が抱えて、ずるずる舞台から、はけたようですよ。そうして、暗転になり、男は見事復活。……ふふふふっ。あっ失礼を。お客は拍手喝采。虎嘯はその日一番の有名人だったそうです」
 報告する桓堆も、思い出しては笑いが込み上げるのだろう。どうしても顔の筋肉が異様な所で緊張し、声も上ずってしまっていた。浩瀚は桓堆の報告を聞きながら、笑いの中にも何処か誇らしいものを感じていた。虎嘯を大僕に据えて正解だったと。陽子の身辺警護を司るには、虎嘯くらい熱い心根の男が欲しい。彼は、最後まで投げ出さない。諦めない。何もせず悲しみにくれる事より、何かをして走り回る事を選ぶ。そんな虎嘯なら、職務を全うするだろう。
「宜しい、報告はしっかり聞いた。何にせよ、三人にはいい休日だったようだな。桓堆、ご苦労だった」
 浩瀚は穏やかな笑みを桓堆に向けると、桓堆も人好きする明るい笑顔でこれを返した。
「ええ、有意義な休日だったと思います」


 桓堆は虎嘯に少し聞きたい事があった。虎嘯に声を掛けると、彼は罰の悪そうな顔をして返事をした。
「桓堆。今回は……その……報告は、無し、だ」
「ああ、いいとも。噂は耳に入っている」
 桓堆がにやりと笑うと、虎嘯は頬を染めた。
「なんだ。聞いていやがったのか。その、ちょっと、俺達目立ったようでな。夕暉にいろいろ小言を言われたよ」
 桓堆は大きく伸びをして明るく話す。
「別に。いいんじゃねぇの。俺お前のそういう所好きだよ。今日はさ、お前にちょっと聞きたい事があってな。いいか?」
 虎嘯と桓堆は近くの椅子に腰掛けると、よく整えられた庭園を眺めた。
「なぁ、何で突然あんな事言ったんだ?」
 桓堆は庭園に目を向けたまま質問した。
「あ?」
 虎嘯が首をこきこき左右にならし、聞き返す。桓堆はもう一度、虎嘯に分かりやすく質問をしなおした。
「……その瀕死の男役に『諦めるな』なんてな。お前らしいけど、えらく熱くなったんだな」
 虎嘯は暫く無言で頬を掻いていた。そして、ポツリと呟く。
「……あいつを……戴に帰って行った片腕の女を、思い出したからかなぁ」
 桓堆は虎嘯を見やる。
「李斎の事か?」
 虎嘯は庭園を見ているのか、その向こうの遠い異国を見ているのか、正面に視線を向けたままいつになく静かに話す。
「瀕死だろうが片腕だろうが、身体が生きようとしているんだ。諦めちゃならねえ。仙ってぇのはそういうもんだろ。生きていれば、己の思いが何か伝わるものがある。……何時までも、暗闇ばかりじゃねぇ。生きていれば、朝日が昇るのをこの目で見る事が出来る。だから、生きていて欲しい。俺は、あいつが生きていればそれでいい。……そう思う事が、可笑しい事か?」
「虎嘯、お前……」
 桓堆はめったに見る事のない彼の、憂いを帯びた男の表情に驚いた。
「さっ、休みは終わりだ。お互い陽子の為に張り切って働かねば、な」
 虎嘯は、にっと陽気な笑顔を見せると立ち上がった。桓堆も、ふっと静かに笑い立ち上がる。
「今日も忙しいなぁ」
「そうだなぁ」
 二人は並んで庭園を後にした。働く男の後姿は、誰もが見惚れるほど凛々しく頼りがいのある姿だった。


 さて、虎嘯においしい部分を全部掻っ攫われたあの一座はと言うと……。
 後日の芝居小屋。
「……あなた……ああ!あなたぁ!!」
 女が瀕死の男を抱えすすり泣き、場内が大きな悲しみに包まれきった時、
「泣いてねぇで、今すぐ瘍医を呼べよ!」
 客席から大きな野次が飛ぶ。とはいえ、これは一座が仕込んだ役者なのだが。
 実は一座は、今やすっかりあの場面をそのまま拝借していた。客と一体になったあの場面は役者達にとっても、今までにない昂揚感を感じていた。

―あれが忘れられない―

 それ以降、一座は必ずこの場面を演じる。そしてそれは、ここの一番の呼び物となり、更に人気のある一座となっていくのだった。


副題「虎嘯芝居小屋で恥をかく」(必○仕○人風)です。
虎嘯のキャラクターっていいと思いません?今回の行動。一歩間違うとふざけるなとも言われそうですけどね。それを皆が笑ってくれるのは、彼の人徳が為せる技でしょう。愛嬌のある男っていいですね。
そして、金波で働く男達、たまにはこんな感じも如何でしょう。完璧にかっこいい、文句のつけようがない二枚目と言うよりも、少し茶目っ気のある、若しくは少し弱い部分も見え隠れする、二枚目半が個人的に好きです。書いていて楽しかった。
芝居にしても、映画にしても、ドラマにしても。お約束でこんなシーン入る事あるでしょう。私、結構そういう話好きなんです。そして、演出者や監督の思惑にずっくり嵌って泣くんですけどね。虎嘯ならどう考えるかなと思ったのが、この話を作るきっかけでした。
後、一方通行系好きと私としては、虎嘯にも蛇足のように色っぽい所もつけてみたり…。今回、虎嘯メインの話が書けて楽しかった。虎嘯は又書いてみたい殿方です。誰を絡ませるかは…おほほっ。あの子も、あの人も、あの御仁もいいなぁ。
←その一押しが励みになります
2005.3.初稿

素材提供 篝火幻燈さま
禁無断転写