ここに傍にいて

 郊祀を迎える日の朝。すっかり身支度も整い、とある一室で陽子は景麒と供に控えている。
 年中行事において、重要な位置をしめるこの祀りは、毎年こなしてはいても慣れるものではないと陽子は思っていた。訳もなく競り上がる気持ちを持て余し始めた頃、落ち着いた声音に、張り詰めた緊張が少し解ける気がした。
「ご準備は宜しゅうございますか」
 この頃は、その声に励まされている。その表情に何処か癒されている。
 陽子は、景麒の声を聞き、先程までの硬い表情を和らげた。幾分平静を取り戻した陽子は、今度は僅かな悪戯心が働き、口を開く。
「ここで逃げ出したら、お前はどうする?」
 陽子はただ、流麗な眉が僅かに歪む様が見たかった。
 だが景麒は何一つ変える事無く、自身たっぷりと返した。
「そんな事は為さいませんでしょう?あなたは、それは為さらない」
 期待していた答えではなかったので、陽子は少し残念に思う。
「……つまらないな」
「は?」
「……なんでもない」
 少しして、耳に心地よくなった静かな声が言葉を紡ぎ出す。
「私は、あなたの事は良く分っていると自負しているのでございます」
 陽子は面白そうに更に突っ込んだ事を言った。
「昔はそうでもなかったようだが……」
「それは……」
 景麒の言葉が一瞬止まり、そして、改めて口を開いた。
「あの頃は、色々と思う事がありまして。それが私を結果的に臆病にしておりましたから」
「臆病?」
 いぶかしむ陽子に、景麒はこくりと頷く。
「私はあなたをこちらにお連れする際、すぐ偽王軍に捕まり、結局あなたに助けて頂いた。あなたが登極前のお辛かった時期を私は存じ上げない。……冗裕からその凄まじさは聞いております。それ故に思う。どうして傍にいて差し上げられなかったのだろうかと」
「……」
「その後悔が私を臆病にさせていた。しかしあなたは後に仰った。私だけは、あなたを信じなくてはいけないと」
「あっ、それ、は……」
 陽子も忘れてはいなかった。
 あれは赤楽創世記。陽子が身分を隠して一時瑛州のとある里家で世話になった事。あの時は結果的に、それまで腐敗を極めた官吏を多少なりとも払拭した事になったのだが。その際、陽子自身も自分が進むべき道の土台さえも分らず模索していた。景麒からは、陽子を貶める噂もあると言われ、その後彼に何かを言われた事が、ひどく感に触ったのだ。
(おそらくこれまで感じていた、景麒とのぎくしゃくした関係を、どうにかしたかったのかもしれない)
 その昔、陽子は景麒の静かな声音が不安を掻き立てると思っていた。眉目秀麗な表情に怯えていた。
(お前が私に対して落胆しているのではないかと思い、まともに目も合わせられなかった。長い年月を供に過ごさねばならぬのに、このままではいけない)
 臆病になっていたのは陽子自身。
 景麒に言った言葉は同時に己の戒めでもあった。
 景麒は凛とした佇まいの陽子の後姿を眺めながら、しみじみと語った。
「あなたに『信じろ』と仰られてから、私の中で何かが変わった気がしています。上手くは申し上げれませんが、自らややこしくしていた感情から解き放たれたというか……そうですね……あなたの隣に控える事が、心地よくなって参りました。そして今、はっきりと言う事が出来る。」
 景麒は改めて令をとる。
「あなたをお慕い申し上げております」


 陽子は暫し固まってしまった。
 照れてしまったと言えばいいのだろうか。
「景麒。意味合いはそれでよいのだろうが……。そのう、その言葉は、少々誤解を生むかもしれないな」
「は?」
「……なんでもない」
 澄ました顔を見ると、ほっと安心する。淡々とした声と、武骨な物言いが、何故か心安らかになる。
 恋だとか愛だとか、そういうのとは又少し違うのだろう。
 もっと深い、そして太い絆。
(まぁ私は、そういうものは、よく知らないけどな)
 陽子は密やかに笑った。
 見ると、景麒は陽子が何故笑っているのか不思議で、僅かに首をかしげている。
 銅鑼の音がこだました。いよいよ今年の郊祀が始まったようである。
 陽子はふっと、全身に力が入った。それは心地よい緊張感。傍には、自分を信頼してくれている者が控えている。
「さ、行こうか」
 陽子が正装の居ずまいを正し、一段と凛々しい表情で歩き出した。
「御意」
 その後を景麒は静々と進んでいった。


まともに慶主従で話を作ったのは殆ど初めてに近いかも知れません。皆様にはいろいろ思う事もおありでしょう。
そうですね…簡単に言ってしまえば「微妙」ああ、何てこった。
あの…今回は郊祀という行事絡みの「季節もの」という事で、早々と後悔公開してしまう事をお許しください。
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2006.1初稿
素材提供 Kigenさま
禁無断転写