藤浪慕情

 慶東国から来たという青将軍から、後の祥瓊の様子を聞いた時、月渓は矢継ぎ早に信用が出来なかった。彼がこれまで知っている祥瓊とはどうしても結びつかず、困惑したのである。目を閉じれば、沍姆という新道にある里家の閭胥からの知らせを受け、祥瓊を里家から連れ戻した日を思い出す。あの時見た祥瓊は、他者に対する恨み憎悪に満ち溢れていた。更に落胆したのは、その時祥瓊が、自身が纏っていた衣服をさし《惨めだ》と、発した言葉。
 民の多くはその衣服を着て生活していると言うのに。
 土にまみれて暮らしていると言うのに。
 それを蔑む心根を醜いと思った。
 だが、それをこれまで彼女に教え諭さなかったのは、月渓を含めた芳極国官吏。戻せぬ現実に後悔は隠し切れず、金切り声で怒りをぶちまける祥瓊の声を背中にし、世の無常にがっくり肩を落としたものである。
(ああ、この方は。これより先も分って下さらぬ)


 だが、青将軍が運んできた、祥瓊が月渓にあてた書簡には、過去の己に対する率直且つ整然とした悔恨がしたためられていた。人は変わる事が出来ると、青将軍は言った。月渓は祥瓊が変わる事が出来た事に、一筋の光明を見る心地がした。
(この事は、きっと私の最大の励みになる……)
 月渓が仲韃の首をはね、峯麟に血塗られた直刀を振り下ろしたあの日。芳極国は唾棄すべき逆賊の国となった。これからこの国は、確実に傾き、民は苦渋に喘ぐ事になると言うのに。それでも朝は、民は、月渓と運命を供にするという。
(今の祥瓊殿のお姿に背中を押されたような気がする)
 月渓は決心した。自身が背負った大逆という罪を真正面から受け止め、数ある迷いを飲み込み、先に進む事を。
(いつか正統な者が御位(みくらい)にたたれるだろう。それまで、荒廃を最小限に食い止める事こそが、私に出来る最大の詫びである)


 だが、天はまだ芳極国に麒麟を遣わせてはくれぬ。
 月渓が仮王に起つと決めるまでに既に四年経過。そして、彼が玉座についてから数年の月日が過ぎているにも関わらず、蓬山より今だこの国の麒麟が生まれたという連絡がこない。確かに朝は、表向きは月渓を中心に一応は回っている。だが、麒麟がいない事は、即ち天の後ろ盾が無いという事。それだけでも芳極国は、他国より、妖魔が跋扈し、天災に多く見舞われる、厳しい状況にさらされる事になる。
(一体何時までこの国は天のご加護を受けれないのか。まさか天は、我等に正統な王を下さらないおつもりか?如何様に動こうとも、私は天が認めた王ではない。王がいなければ何時までも、国はあやふやな不安の中にある。これが、大逆を犯した私への天からの審判……)
 月渓がひたりひたりと忍び寄る、得も知れぬ不安におののいている時、青将軍から書簡が届いたのであった。
 始めは青将軍が鷹隼宮に世話になった事への礼が書かれていた。月渓はそれを有難く受け取り、返礼を送った。
――それで、おしまいだと思っていた。
 しかしそれから青将軍からは、けして頻繁という事ではないが、定期的に書簡が届く。内容は専ら、彼の周りで起こった取りとめもない事。その中には祥瓊の近況も添えられる事があった。青将軍からの書簡は、興味本位に芳極国の様子を聞き出そうと言うものではなく、しかし月渓を、芳極国を忘れてはいないと印象付ける物であった。それが、月渓には大変有難かった。下手に構われ、慰めて貰うのは、心苦しい。だが忘れ去られる事は、もっと辛い。青将軍はその辺りを承知で書簡を送ってきているのだろう。
(何という気遣い。心配り。……おそらく、これを指示しているのは、彼の上司と景王君。祥瓊殿は何と懐の深い方々のお傍にお遣えしている事か……)


 それからというもの月渓は、青将軍につられるように、彼宛に書簡をしたためるようになる。それは同時に彼女に――祥瓊に、ある思いを伝えたいが為なのかもしれないと、月渓は感じていた。
 祥瓊が慶東国で新しい人生を歩んでいる。
 それを知ってからと言うもの、祥瓊を気にしないと言う事はなかった。
 心では決別した筈だった。

――これより先、あの元公主の事は忘れる――

 国を去った者の先行きを思案している余力は、この国にはもうない。月渓にとって祥瓊を忘れる事は、国土に残された人々の救済に全力を傾ける為に必要な事だった。だが、そうは決めていても、ふと祥瓊に思いを馳せる事がある。と言うよりも、祥瓊に、自分達の事は気にするなと、青将軍を通じて伝えてやりたい。昔とは違い、自分が犯した罪と冷静に向き合っている祥瓊は、おそらく故郷を憂いでいる事だろう。
(祥瓊様を少しでも安心させる事が出来れば。微力ながら、我が国は踏みとどまっていると、伝えたい)
 これまでに何度か祥瓊宛に思わず筆が走る事があった。しかし月渓は思い止まり、途中まで書き付けたそれを破り捨てていた。まだ前国主とその家族に恨みを持っている者は少なくない。それを討ち取った月渓本人が、内々にでも元公主と通じていると言う事は、折角纏まっている朝にいらぬ混乱を起こしかねない。
(……否、それは己に対する大義名分ではなかろうか?私は……。私は、それよりももっと躊躇う理由が他にある……)
 月渓は一人苦笑し目を伏せる。
(どうして私が祥瓊殿に、直接お声掛けが出来ようか……)
 大逆に至った事自体は後悔していない。どうやら祥瓊もそれについて一定の納得は付けているようである。だからといって月渓が祥瓊の両親を鬼神にしたと言う事実が消えはしない。
(祥瓊殿が完全にお許し下さっている訳ではない)


 とある春の日。
 月渓は窓を見やり溜息をつく。
 昨年も又下界では雨続きであった。日照が足りていない。芳極国は林業と牧畜で生計を立てる国であるが、近年鬱蒼と立ち込める厚き雲が、植物の成長を妨げる。飼い草の絶対数が足りなかったこの国は、十分な牧畜の冬支度が出来ず、喘いでいた地域があった事が報告された。
(その前は大きな水害があった。被害にあった地域は質のいい木材が取れる場所だったが、近年少々需要と供給の均衡が崩れていたようだ。結局十分に成長していない木々が流され、大きな損害となった。あそこも、何とかしなければ……)』
「民は今より悪しき状況を知っている。それが強みである……か。よく、書いたものだ」
 月渓は卓上に広げられた書簡を見て、自嘲気味に薄く笑う。これは青将軍に宛てる予定のもの。月渓にとってささやかな楽しみの一つとなった。
 嘘ではないと思っている。確かに今だ辛い状況が続いてはいるが、民はよくついてきてくれている。しかし災難とはいえ、家を奪われ、食を奪われ、家族を奪われた者が確実に存在していた。それを思うと、月渓の心にちりっちりっと熱い痛みが走っていくのだった。
「誰しもこれが辛くない訳はないのだ。何とか、何とか早く、この状況を打開せねば…民に我慢をさせ続けるわけにはいかない」
 そう呟き、唇を噛んだ。
「……どうかされましたか、主上」
 身の回りの世話をする官から声を掛けられ、月渓は思い馳せていた意識を戻すように返事をした。
「……いや。……別に、何でもない」
「……さようでございますか」

――あまりに根を詰めるのは、身を追い詰めるだけである――

 昼夜なく働く月渓を、そばで見ているその官はそう言おうとして、結局やめた。下官が簡単に、立ち入った事を言うのは、恐れ多いと言うものである。しかし、少しでも元気付ける事が出来ないものか。下官は、暫し考え、ふと何かを思い出し、おずおずと口を開いた。
「そう言えば、殿堂に、僅かながら藤の花が芽吹き、春の訪れを感じさせておりますね」
 すると月渓は、突然身を乗り出し、官に声を掛けた。
「それは、何処の藤枝だ」
「はっ、し、失礼致しましたっっ」
 官は思いがけない主の強い調子に、圧倒され、思わず詫びる。官の様子に己が取り乱した事を悟り、落ち着こうと大きく深呼吸をし月渓は苦笑する。
「――いや、詫びずとも良い。それで、何処の藤枝に花が?」
「はい、殿堂でございます」
「そう……か。あの藤枝に花が咲いたのか……」
 言って、月渓は、それまで走らせていた筆を止めると、椅子の背もたれに身を投げ出し、眉根の辺りを軽く右の指先で押さえた。
 その場所は、昔、雲海の波の如く藤枝に薄紫がしな垂れがかっていた。当時、月渓は恵州侯を拝命したばかり。芳極国国主となった仲韃の志に感激し、いよいよ持って芳極国は素晴らしい国になると信じて疑わなかった。
 ある時、咲きすさぶ藤浪の前で小さな宴が催された。
 殿堂は、来客の際一旦留め置く所。言わば、控え室のような所である。本来そこで、宴が催す事など無いのだが、皇后佳花が是非にと半ば強引に行われた宴だった。
 皇后佳花がそうまでしてこの場所に拘ったのには理由がある。そこで彼女の愛娘が舞を披露するのだ。娘の字を祥瓊と言う。両親の惜しみない愛を受け、この国の宝玉とさえ謳われていた。見事に咲きしな垂れた藤花は、祥瓊の舞を披露するのに絶好の場所だと佳花は考えたのだった。
 月渓はまだ幼い祥瓊が、たおやかに舞う姿を、眩しく眺めていた。と同時に仲韃が、彼女を宮中の奥へ隠そうとする気持ちが、僅かばかり理解できるとも思った。

 あれこそ正に藤の花。

 触れれば、途端に崩れ落ちる。

 しな垂れる藤浪は、月渓の手に届きそうで―――遠い。

 彼は(ほの)かに燻る興味を抱きつつ、無碍に触れなくとも良いのではないかとさえ思っていた。


 しかし、後に月渓はそれを後悔する。高い場所から、ただ美しく見下ろすだけの花。下界ではどれほどの民が苦汁を舐めている事か。その土壌の上に根を下ろし生かされている事を知らぬ花。
(私は無理矢理、あれを手折ってしまった)
 目を閉じれば、今でもあの恐怖に顔を凍らせ、呪詛の言を叫ぶ祥瓊の顔が浮かぶ。それは生木をへし折るようなものだった。だがあの時は、十万の兵に、その背後に死んでいった者を含めた何十万もの民に、押し出された。
(そうしなければ、誰も、己自信も納得が出来ない所まできていた。私は、先に進めねばならなかった)
 『祀り上げられた』そう弱気な事を思い、迷いに迷った事もある。しかし立ち上がると決めた後は、もう月渓の後に道はなく、前に開かれた茨の道を走るだけであった。

仇敵(あだがたき)は、鷹隼宮にあり

 壮烈極めた戦いで興奮の湯気を全身から放つ、八州師と控えるあまたの兵。沢山の(おびただ)しい人の血に、宮中の空までが(あけ)に染まった様で、その独特な血と汗の匂いに月渓の雄の本能が駆け抜けた。
(あの場だけ切り取れば……私は、狂っていたのかも知れぬ)
 見上げるばかりだった藤花(かのじょ)にやっと手をかけたのは、その狂気に満ちた状況下の中だった。


 仲韃を討った動乱の最中には気付きもせぬが、あの藤枝は、十万という兵が押し寄せ、ひしめき合った事実が、無残にも枝をへし折られ踏みつけられた後として残っていた。
 以来、藤枝に花がつく事はない。
 月渓は、それが己がした事の重大さを静かに物語っているように取れ、見る事が辛くなり、次第に足が遠のいていたのだった。
 その藤花に花がついたという。月渓の心は妙に浮ついた。昇揚した面持ちのまま、月渓は自分でも驚愕するくらいの速さで、とある者に文を書き付ける。


 祥瓊殿、突然の無礼をお詫び致します。
 鬱蒼とした灰色の季節も終え、芳極国も花々が芽吹く季節になりました。
 実は鷹隼宮で、ここ数年咲く事がなかった、藤が漸く開花致しましたのでご報告申し上げます。
 祥瓊殿は、覚えておいでか?
 鷹隼宮で、たわわに咲きほころんだ藤の花。
 その光景はまさに押し寄せる雲海の浪。
 藤の浪ではないかと、私は思ったものでございます。
 昔、その藤浪の前で、はにかみつつも、あなたが舞をご披露して下さった事がございました。
 大変お美しかったと、今でも心に残っております。
 ここ数年、私の不徳の致すところにより、天のお怒りに触れ、藤になかなか花がつきませんでした。
 しかし、当時の豪華さはなくとも、僅かながら花開いたその薄紫に、懐かしさが込み上げて参ります。
 祥瓊殿、芳極国は、まだまだではございますが、今以上に状況が悪くなっている訳ではないらしい。
 だからこうして又、藤の花が見れたのでしょう。
 そう、己に言い聞かせております。
 取りとめもない話で失礼致しました。
 それでは祥瓊殿、お身体をご自愛下さいませ。


「――これを、慶東国は青将軍に届けるように」
 下官に二つの書簡を渡し、月渓は窓の外を何処か遠い目で見やった。
(勢いで書き付けてしまったが…本当に、良かったのだろうか……)
 渡しておきながら躊躇しているのは、祥瓊に宛てた書簡である。これまでに月渓は、祥瓊に直接書簡を送る事だけはしてこなかった。が、思い入れのある藤に、花が咲いた事が嬉しくて、とうとう筆を滑らせてしまった。
 努めて何でもない事のように、淡々と書いた。つい走りそうになる己の想いを堪えるのに苦労した。

 あれは、触れてはならぬ花。
 触れれば、風に散りゆく花。

(願わくば、祥瓊殿があの手紙を無視して下さると安心する。それくらいの事を私は過去に犯したのだ。そう思いつつ、一方で忘れないで欲しいと期待する。
芳を―。
芳の民を―。
……を―。)
「――何を私は血迷い事を」
 言葉で言う事さえも憚る自身の想いに、月渓の心は苦い液体に侵食されていく心地だった。その苦味に身を浸す様に彼は慕情に耽る。

(祥瓊殿、藤花が見事に咲きましたよ)



藤と言いますと、私は正岡子規の俳句を思い出すんです。

「瓶にさす 藤の花ぶさ 短かければ たたみの上に とどかざりけり」

解釈は人それぞれだと思うので、詳しく書きませんが、これが「静魂」「藤浪慕情」のきっかけになりました。(今じゃ取っ掛かりがそうなだけで、子規の俳句関係無いしなほど、原型は留めておりませんが)
以下、私的一解釈というか妄想。
藤は高い所で美しくしな垂れかかっている花。そしてちょっとの事で花弁が散ってしまう花です。だから私としては孤高の花、高嶺の花というイメージがあったりするんですよね。
そして、一旦手折って、瓶(かめ)に挿した藤。少し、手に届きそうな位置まで下がったのに、その藤はやはり畳の上(つまりは自分の所)まで届きそうで、届かない。
それがね、むふっ、うふふっ、今まで抱いていた月渓イメージとも多少重なってしまったのでした。
月渓は祥瓊を多分娘みたいなものだと以前は思っていたと思うんですよ。だけども、ふとした仕草に…何てな事もあったり。が、あの一件以来、更に更に月渓の想いは複雑になっていって、そして…みたいな。
多分ここからが、面白い展開に転がっていきそうなんですけどね。今回はこれにて一旦お開きにします。

各方面からお叱りを受けそうな気もしなくもないのですが。
まぁね〜、好き故にやらかした戯言とながして頂きたいなぁ〜と、小心者の私は思うのでございます。(又それで逃げるんだね、凛さん;;)

それにしても、殿堂で舞を披露って。こじつけも甚だしいかもしれません…ね。(大丈夫かなぁ〜)


2006.3初稿
素材提供 MILKCAT さま
禁無断転写