思抱先進(思イヲ抱イテ先ニ進ム)

 夢を見た。
 酷く後味の悪い夢だった。
 それは闇の中。何も見えぬ視界の中で、声だけを聞くのだった。

『お前は あの時 朱衡を手放したくなくて、浅はかな判断をしたんだよ』

―違う―

『いくら信用の置ける官が少ないからといって、他にも人はいたんだ。それをお前はわざわざ驪媚を 牧伯に任命した』

―違う―

『同じ敷地内に居らせたくなかったのだろう』

―違う―

『朱衡が他の女を思い、微笑むのが気に入らなかったのだろう』

―違う―

『いっそ永久に姿が見えなければいいと思ったのだろう』

「違うんだ!」
「どうかされましたか?」
 尚隆が目を見開くと、目の前には朱衡の姿があった。簡略ながらすでに衣装を見につけている。
「あ、いや、別に、なんでも、ないんだ」

―くそっ、また最近 この夢にうなされる―
 尚隆は臥牀から起き上がると、傍に会った水差しから 直接 水をあおる。
「そう、ですか。…それでは、私はこれで 失礼致します」
 朱衡は音もなく立ち上がると、正寝を出て行こうとした。
「朱衡」
「はい」
「俺とお前は一度たりとも 供に朝日を見る事は無いな」
 朱衡が驚いて振り向くと、また 尚隆の あの熱く滾る様な瞳に 心 射抜かれる。
―まただ。私はこの瞳の前では無力になる―
 朱衡は眩暈を起こしそうな衝動にかられるが、精一杯の理性で これを押しとどめる。
「玄英宮にはうるさい小蝿がおりますでしょう。奴等が好きそうな物を、わざわざ こちらから 投げる必要がございますか?」
「…ふん、そう、だな」
 尚隆は表情を和らげると、ひらひらと手を振りながら臥牀に潜り込む。
「まぁな。朝の目覚めの第一声が お前の嫌味じゃなぁ、俺も気分が悪くなるというものだ。…俺はもう暫く、寝る」
「おやすみなさいませ」
 朱衡は静かにそう告げると、今度こそ正寝を後にして行った。


 朱衡が出て行った後、結局 尚隆は眠れないでいた。眠れば又あの嫌な声が聞こえてくる。
「あの人事はしょうが無かったのだ」
 寝返りを打ちながら、尚隆は一人呟く。元州はしっかりしている州だが、そういう州は ともすると 尚隆にとって 敵にもなりうる州に 変わる事もある。
「めったな者に牧伯を任せるわけにはゆかぬ」
 しかし尚隆は驪媚を調べると、異例の速さで決断を下した。尚隆と殆ど面識の無い者に、牧伯を任せるとは、珍しい事。何故、そこまで拘るのかと、他の者が驪媚の出世を 面白おかしく 中には嫉妬を込めて 囁きあった。
「あれは朱衡が、聡い女だと言うから、そうしたのだ」
尚隆の身体を ねっとりとした汗が伝う。
「朱衡が言ったから…」

『お前は人の意見だけでは動くまい。お前は本当は驪媚の存在が邪魔だったんだよ!』

 聞きたくなかった声を聞き、慌てて飛び起きる尚隆。そして空(くう)を睨むと
「……違うんだ……」
と、顔を覆い 肩を震わせ 搾り出す様に言葉を吐き出したのだった。


 朝になり、朱衡がある思いを抱えながら回廊を歩いている。
「私は一体何をしているのだ」
 いつも 言いようの無い 満たされぬ思いが朱衡にはある。尚隆とは、彼が求めればお互いの肌を暖め合う。それだけの事に過ぎぬ。朱衡は感じ取っている。尚隆は心に大きな虚無感を抱いている事を。それを朱衡が少しでも埋めてやる事が出来ればと思っている。だから必要以上の事はしないし、ましてや 朱衡から求める事も無い。
 しかし この頃 朱衡は、宵の頃、尚隆から声が掛かるのを待っている自分に、正直驚いている。
 逃れたいのだ、ある思いに。そのある思いとは。朱衡は被りを振って呟く。
「私の心は彼女だけだ。驪媚、もう抱く事も叶わぬ、愛しい人」


 すると向こうから、一人の男が近付いて来た。新しい冬官長である。男は朱衡を舐める様に見、ねっとりした声でなにやら話し出した。とても いらいらする 内容だった。朱衡の顔は、日頃の鍛錬で 優雅にして無表情だが、内心は穏やかなものではなかった。
―全く、鬱陶しい……―
 吐き捨てる様な思いの中、しかし如何したものかと考えていると、ふいに六太に声をかけられた。六太のお陰で、あの くだらない場から、去ることが出来、朱衡はほっと胸を撫で下ろした。


 二人は雲海を眺めていた。暫く お互い無言だったが、それを破る様に六太が話し出した。その内容は尚隆を 他の者とは違う感情で 好いて欲しい事。それが今まで出来ぬのは、尚隆を恨んでいるからなのかと言う事。
「うらむ?」
朱衡は驚いた。尚隆を恨んだ事は一度も無い。ただ 己の感情の鈍さのせいで、もう二度と 朱衡は 驪媚に 直接気持ちを聞いて貰う事が 出来ない。それが…それが、なにより悔しいのだ。
 奥歯をギリギリ噛み締め 朱衡は 六太を見ると、六太は消え入りそうな程 不安な表情をしていた。
 その時 朱衡は、はっと 胸を衝かれた。
―私は驪媚との約束を守れていないではないか―
 今の六太の表情は そのまま尚隆の表情。朱衡は尚隆を全身全霊で守ろうと 驪媚と誓い合ったのに、尚隆を不安にさせている。それは、六太を 雁国民を 守れていないのと同じではないだろうか。
―そろそろ私は、自分の気持ちに決着を付けなければなるまい―
 朱衡は大きく深呼吸をすると、六太に優しく語りかけた。
「好きですよ。この空も、この大地も、国も民も人も、すべて」
―驪媚との思い出を忘れるのではない―
「好きですよ、尚隆様の事を…好きですよ」
―今まで抱えてきた 己の浅ましい執着心に区切りをつけるのだ―
「とても、ええ…好きです」
―思イヲ 抱イテ 先ニ 進ム―
 朱衡はにっこり笑うと、六太の頭を優しく撫でた。
「台輔、今日は かような場所に つれて頂き 有難うございました。お陰で 迷い…あ、いや、疲れが一気に晴れた様です。私は今から寄らねばならぬ所が御座います故、ここで失礼致します」
「寄る所って」
「すぐ戻ります。台輔、本当に 本当に 有難う御座いました」
そう言い残し、その場を後にしたのだった。


 尚隆は妓楼に寄る事をやめ、ある人の冢墓の前に来ていた。沢山の花を 冢墓に供えてやる。そして ゆっくり屈み込むと一人話をし出した。
「驪媚、お前は最後まで 俺に忠実であったな。己の命と引き換えに六太を救ってやったと聞いた時は、正直胸が痛かった。あぁとうとうお前はこの俺を、雁国を守り抜きやがったと」
 風が静かに尚隆の頬を擽る。
「かくも 女と言うものは 強いものよ。それに引き換え俺は お前がいたと言う事実に、恐れおののいている。情けない男だ」
 朱衡が驪媚を特別な感情で思っていた事は、本人が気付くよりも早く知っていた。だから 驪媚が死んだ時 すぐ、朱衡と 今の関係になるだろうという事は 予測していた。

―俺は それを 望んでいたのか?―

 朱衡に触れる事が出来た。しかしその途端、言い知れない闇が尚隆の心を侵食していった。朱衡を大事に思えば思う程、驪媚を元州へ行かせたのは、策略だったのかと、尚隆は己の気持ちに自信がもてなくなっていた。あの時は本当にただ純粋に、有能な官を配置したいだけだった。
 驪媚に牧伯を命じる際、尚隆は驪媚を 初めてまじまじと 見る事が出来た。その時 何か 不審に 思う事があれば、すぐ止めさせる予定だった。しかし、確信してしまったのだ。
 この者は 最後まで 自分に忠実であると。女性らしい丸みのある 柔らかい印象の中に、驪媚の真っ直ぐな 意志の強さというものを感じた。
 尚隆の王と言う血が、驪媚を認めさせたのだ。それに嘘はなかったはずだ。
 尚隆は、今まで 自分が何に悩んで 怯えていたのかを思い、苦笑した。
「驪媚、俺は朱衡からお前を取り上げた罰を、今、受けているのかも知れぬな」
と、その時
「尚隆様」
呆然と立ち尽くす、朱衡がそこにいた。
「朱衡。如何して……」
 尚隆も突然の事で混乱している。
「私は驪媚に話したい事があって、ここに来ました」
 朱衡は手に持っていた花を、尚隆の供えた花の隣にたむける。
「では、俺は居らぬ方がいいな」
そう言って 尚隆は 静かに立ち去ろうとするが、朱衡がさせなかった。
「いえ、折角ですから尚隆様にも聞いて頂きたい」
朱衡は凛とした声を発すると、次には 優しく甘い声で告白しだした。
「驪媚。あなたと私は、ほんの一時 言葉を交わしただけの仲だった。だが、私にはあれが全てだった」
 朱衡の声がいささか震える。
「…私はね。驪媚お前を……愛している」
 ひとたび風が舞う。
「だが私は、それに気付くのが遅すぎた。驪媚を失った時、初めて己の気持ちを知る事が出来た。もっと早く気付いていれば、驪媚をもっと感じれたのに。本当にすまなかった」
 冢墓に頭(こうべ)を垂れる朱衡。それを尚隆は珍重な面持ちで見つめている。すると朱衡は、俯いたまま ふるふると拳を握り締め、尚も話し出した。
「もう一つ、言っておかねばならない事がある。私は 驪媚への思いを伝える事が出来なかった 後悔に押し潰されそうになった。それが辛くて 苦しくて。とうとう 尚隆様の思いを 利用した」
 瞬間、尚隆は目を見開き、朱衡を凝視した。そして
「言うな…朱衡。…それ以上……言うな」
 必死に止めようとしたが、朱衡は止めなかった。
「尚隆様の思いを知って、それに甘え、それに縋って、私は、私は……」
「言うなぁ!」
 尚隆は思わず朱衡の肩を強く掴んだ。朱衡の目には あまたの涙の粒が 零れ落ちる。そんな朱衡を落ち着けさせる様 尚隆は、己の懐に朱衡を招き入れると、そっと背中に手を回した。朱衡は尚隆の暖かい胸に顔をうずめていたが、暫くして 尚隆から離れると、再び冢墓の前に座った。そして、ゆっくり噛み締める様に語りかける。
「だが 驪媚、私は このままでは いけないのだと思う。これでは驪媚との約束が守れなくなってしまう。私達は 全力で 尚隆様をお守りしようと 誓い合って分かれたんだ。そして 驪媚は 最後まで 守り通す事が出来た。ならば 今度は、私がお守りせねばならぬだろ。驪媚の事は忘れない。ただ 驪媚に 気持ちを 伝える事が出来なかったという己の情念から 解放される事を許して欲しい。そうすれば、私は 初めて尚隆様と誤魔化す事なく 真っ直ぐに 向き合える。全力でお守りする事が出来るんだよ」
 その時何処からともなく白檀の香りが漂った。

―これは この 香りは―

 いる筈がない。十分過ぎる程、分かっている事実。だが確かに、驪媚が好んで薄く匂わせていた、白檀の香が二人を包み込んだのだ。
 尚隆は朱衡の後ろに座り、静かに話し出す。
「驪媚、俺は朱衡が誰を思っていても構わないんだ。ただ 俺の見える所に、その声がはっきり聞こえる所に、…傍に、いて欲しい。それを、許してくれないか?」
 その後、二人は静かに静かに冢墓の前に佇んでいた。まだ残り香のある優しい風が、二人の周りを吹き抜けていった。


 玄英宮へ帰る途中、突然 朱衡が こう切り出した。
「尚隆様、今度 供に 朝日を眺めましょうか」
 尚隆は こめかみを ぴくりと動かしたが、すぐいつもの顔に戻ると、進行方向を見据えた。
「だが朱衡。玄英宮の小蝿どもがうるさいだろう」
 すると朱衡も、進行方向から目を離さず、ただにっこりと微笑むと こう言い放った。
「小蝿どもも たまには叫ばす必要がありましょう。我々は長く生き働かねばなりませぬ。官吏らが飽きる事無く働ける様、噂をまき、趣向を凝らすのも私の仕事ではないかと…今、そう、決めました」
 尚隆の瞳はぐっと見開かれたが、彼はすぐにふっと顔を緩ませた。そして、次に彼は、面白そうに 不適な笑みを 浮かべると
「ほう。まぁせいぜい飽きさせぬ様、お互い努力せねば、な」
と、肩越しにつかず離れずに控える朱衡に声を掛ける。

二人は 賑やかな市井の大通りを、肩を並べて 歩いて行った。


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うわぁ〜恐ろしく浪花節系(涙目)
しかもこんなところに青猿登場かぁ?!なんて展開で…。本当になんかいろいろとすいません。
←その一押しが励みになります
2004.4.初稿

素材提供 篝火幻燈さま
禁無断転写