未央 凍れる果実様 作

時が行く
        流れ行くこの雲の上に下に
        すり抜けていったかの人のこの記憶

             時が過ぎる
             そのままに
             そのさまに
             なぜ?




忘れることが出来ないのだろうか?




 行き交うときに肩が触れた。
 行過ぎようとした彼をまるで押しのけるように、体当たりをするがごとくのその行為にも、悪戯に事を荒立てる必要もなし、つと、下がりわびを言おうとして顔を向けて、はじめてそれが冬官の長だと気がついた。
 官の移動によりつい最近冬官長となったこの男は、どうしてかことあるごとに彼になんやかやと、はっきり言えば言いがかりをつける。特に親しく話したことすらない相手に難癖をつけられるのももう慣れたものだが、このように広い回廊でどう間違えれば避けて通った彼にぶつかれるというのだろうか?
それほどまでに彼の存在そのものが厭わしいのかと、彼はおかしさに笑い声を噛み殺すのにたいそうな努力を要した。
「申し訳ございません。不調法をいたしました」
 けっして彼が悪いわけではないのだが、優雅な仕草で頭を下げるその姿に浴びせられたのは非礼を通り越した含み笑いと、およそ宮廷人とは言えないような、いや、宮廷人であるがゆえの言の葉。
「これは、楊殿、お足元が危うげでおられるが、いかがなされた?」
 口元がいやらしげにゆがみ
「お勤めが過ぎますと日々に支障がでるのではございませぬか?・・・そう・・・ そのお腰のあたりが・・・のう・・・。 忠勤も過ぎるというものですな」
 涎をたらさんばかりに唇がまがり、ねばりつく視線が彼を嘗め回す。
 それに、まるでそよ風ほども感じぬ美貌が、
「お気遣いありがとうぞんじます」
 さらりっと答える。
 それに、冬官の長はまとわりつくがごとくに、それとも・・・と、言う、
 それとも、
「その逆でしょうかな?」
 下卑た声、
「お召しが、お渡りが少なく・・・」
 下賎な男
「一人寝の寂しさはおつらかろう・・・」
 見えきったその欲情。駆け引きさえも知らず、
「龍陽の寵という言葉も絶えて久しいのではないかな?」
 ぎらついたその目が血走った様には苦笑しか返せぬ。
 次第に近づいてくるその酢えた汗の匂いばかりが勝る身体を、しなる枝のごときにゆるりとかわし、あえて微笑んで、
「さ、何のことやら」
 ちらりっと視線を流し、潮時を見出す。何のことはない。かねてからの嫌がらせもすべてこういうことであったかと思えば彼にとっては可愛らしい嫌がらせでしかなく、せめて、官の長たるものであるのだからもうすこしの面白さが欲し かったが、求めるのも酷なこと。求める気もありはしない。
 では、急ぎがございますので、と行こうとした、その手を・・・つかまれた。
 彼の細い手首を握り締める不健康にむくんだ五本の指。汗ばんだ掌の感触に彼は言葉も発せず、ただ一瞥する。
 なんにせよ、めんどくさい。
 振り払うのは簡単だが、後々に影響するであろう。だが、適当にあしらうのもその労力がもったいない。
 さて、どうするか・・・
彼が一瞬、どちらに決めるかと惑うその時に、
 金色の光彩。
「朱衡」
 金色の髪の雁の麒麟が彼を呼んだ。
「台輔」
 何事も起こっていないかのように彼はその少年に微笑む。どのみち、彼にとっては些細なことでしかなかったのだか、その手をつかんでいた冬官の長は文字通り飛び上がった。
 ばっと、振り返り、この国で王に次ぐ位の少年の姿を認め、蛙のように平伏した。
「た、台輔がおいでとはしらず・・」
 慌てて言うその男には一瞥すらも与えず、まるで他には誰もいないかのように少年はすいっと彼に近づき、官服の袖をきゅっと握った。
「朱衡、行こう、尚隆が呼んでいる」
「主上が?」
 こくりっと頷く少年をまじまじと見て、そして彼はいまだ平伏したままの冬官の長に視線を投げる、
 では、っと、
言おうとしたその言葉は、ぐいぐいっと急に服をひっぱって歩きだす少年の強さに驚いて十分に礼儀にかなったものとはならなかった。
 それでも、形どおりの言葉を残し、まるで引き立てられるように連れられる。

  どこへ?とも、
  どこに、とも、
  互いに聞かず、
  歩き、
  歩いて、

  ・・・そして、海。

 おしよせる波に永劫の岸が飛沫に濡れるそれを眼下に雲海に開いた露台に二人、たどり着いた。
 長い間玄英宮にいる朱衡でさえこの場所ははじめてであった。少年に引かれるままに歩いた道々は次第に寂れ、ろくに手入れもされていないようであったが、この露台はさらにもう朽ち果てているというがごときにもう何代も前の王 より見向きもされなかったのではないかという荒廃の静けさを見せていた。
「台輔」
 彼は少年にそっと話しかける。
「・・・・」
 答えはない、だが、少年は彼の服の端を今だ握っていたことに気がつき、ぱっと五指を離し、そして名残惜しげに手を引いた。
「台輔」
 もう一度少年を呼び、
 そして、
「ありがとうございます」
 微笑んだ。
 少年の顔が背けられる。
「別に・・・何もしていない」
「助け舟をだしてくださった」
「・・・・いらなかったみたいだけどな」
 少年は言う。
 でも、っと、
「知らぬふりはしたくなかった・・・」
 そして、小さな声で、
「ごめん」
 といった。
「台輔?」
僅かな声で、
「尚隆が・・・悪いんだ、だから、ごめん」

    波の音が聞こえる。
    寄せて、かえり、
       出逢って、消える

「尚隆は、また・・・妓楼に・・・いる・・・」
「そのようですね」
くすくすっと臣下の顔で彼は笑う。
「朱衡・・・」
「はい?」

    弾ける波の音、

「・・・朱衡」
「はい?」

    打ちつけられた水しぶき、

「どうなさいました?台輔」

     変わらない音、繰り返す波に・・・

「朱衡」
「はい」

     流れ去るこの時の海に

「尚隆を・・・」

     過ぎ去ったあの雲の上で

「尚隆を・・・」
「はい・・・」

     すりぬけていったこの波しぶき

「尚隆を、好きになってくれないか?」

     なぜ?
     わすれることが出来ないのだろうか?

「好きですよ」
 ざんっと、一つ大きな波がうねった。
「・・・朱衡・・・ちがう、そうじゃない」
 金色の少年がふるふるっとこうべを振る。
「じゃあ、朱衡、俺のこと好きか?」
「好きですよ」
「帷湍のことは?」
「ええ、好きですよ」

「成笙は?白沢は?」
「ええ、」
「たまは、とらは? 好きなんだろう? みんな、みんな、同じ『好き』なんだろ う? ちがう、ちがう、わかっているだろう? そんな『好き』をあいつに与えな いでくれ」
「台輔」
「あいつをちゃんと見てやってくれ、あいつの声を聞いてやってくれ、あいつの想いを信じてやってくれ、お願いだ朱衡、お願いだから・・・」
「台輔」
「・・・・どうして? 朱衡、どうして?・・・・それとも、尚隆を・・・恨んでいるの か?」
「うらむ?」
「噂で・・・聞いたことがある。朱衡、お前には本当は好きな人がいたんだって、でも、どうしてかその人とお前は一緒になれなかった。それは・・・尚隆のせいだって、あいつが・・・お前を」
「台輔」
 さえぎる声、

   波の音

「・・・台輔、」

     過ぎるときより儚いものよ

「朱衡・・・ごめん」
 うつむいた少年の肩にあたたかな掌が乗せられた。
「なぜ・・台輔が謝られるのですか?」
「・・・ごめん」

       うちつける波、
       とおりすぎる雲
       去っていったのは記憶、



       わすれられない、それは・・・想い




「誰のせいとか、そういうことではないのです」
「朱衡?」
ふいに影が動いて、彼が少年を見上げる形にかがみこんだ。
「強いて言えば、わたしが・・・」
 悪いのですよ、っと、言って、彼は微笑んだ。
「それに・・・彼女とはそんなことではなかったのですから」
「彼女?」
それは、誰と問う少年の瞳に、彼はそっと、ささやくように
「いえ・・・その名を申し上げても・・・台輔はご存知ではございませんでしょう」

 ちいさなちいさな嘘を告げる。
 いえば、この麒麟は傷つこう、
 赤い糸に命を絶たれた彼女の名を、この心優しい少年が忘れるなどあるはずはないのだから、
 告げず、言わず、
 そっと、そっと、彼は微笑む。

   悪いのはわたし、
   あの日あのとき
   声をかけなければ、
   この手に彼女の頬のぬくもりを感じなければ、
   ・・・よかったのに
   なのに、
   なぜ?



わずかばかりの後悔さえ芽生えないのだろうか?



     寄せる波に
     去り行く雲に
     であって、そしてわずかばかりの言葉を交わした。
     そのことが、そのことが・・・
     悔いであるなど



・・・思いたくはない




     あの日のあの言葉に
     偽りなど・・・ない、

     見ていたのは同じもの
     守りたかったのは同じもの
     すべきことは一つ、
     ただ、それだけ、



それでいい・・・




     この手のぬくもりが空にとける
     風に混ざり、そしてこの国を吹きぬける。
     ただ、
     ただ、
     いとおしいと思ったものが同じだった。


「好きですよ」
 彼は言う。
「この空も、この大地も、国も民も人も、すべて」
 彼は微笑む
「好きですよ、尚隆様のことを・・・好きですよ」


     風にとけたこの手のぬくもり、
     いつか、自分自身もとけるだろうか?


「とても、ええ・・・好きです」


     誰もが、いつか過ぎて消える。
     その前に、
     その寸前に、
     大地をわたる風に乗り、
     包み込もう、
     貴方を、貴女を
     あなたを
     守るべきものは同じ、
     その想い


     よせてかえす、この時のなかで



わすれるほどにとけて、あなたを好きでいたい、



     だから・・・


とても・・・好きですよ



凍れる果実様より
凛様より先の二つを頂戴して、いきなり一気書きをいたしましたのが、上記「未央」です。書き終わって、おや、尚朱 だなっと思ったのですが、後日凛様に献上いたしまして、そのときに凛さまが「朱衡→驪媚」とおおせでした。読み返してみると、なるほど、そうですね。いえ、どちらでも良いのではと思ってます。
お題の「未央」は未央柳からとりました。花のイメージが六ちゃんなのですが、「未央」自体は、[尽きることが無い][果てしない]という意味です。もうひとつ、[宮]をつけると、未央宮となって・・・


凍れる果実様の華麗なる表現。これを最初に見た時、私は悶えて仰け反って大変でした。興奮のあまり「凄いです。すごいです。スゴイデス…」(以下エンドレス)と恒例の長い暑苦しい感想を送りつけたのは言うまでもなく。
果実様は行間使いが堪らなくよいのです。今回こちらに掲載時、それを大切に注意ははらったつもりですが…だ、大丈夫かなぁ?
さて、改めて果実様のコメント「尚朱 だなっ」に、以前は「朱衡→驪媚」も感じられますといいましたが、確かにそこはかとない尚朱が漂っていますね。私もその時々でどのように感じてもいいと思っています。まさに一粒で幾重にも楽しめるといった所でしょう。
後、後、タイトルが憎い。未央に寄せる果実様の裏設定を考え出すと、それはそれは楽しい夢の世界へトリップしてしまいます。
果実様、改めて有難うございました。
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2004.5.19 凍結果実にて掲載
2005.9酔訛楼にて再掲載
素材提供 篝火幻燈さま
禁無断転写